第3話 白百合の天使

 ――白百合の駄天使さん!


 衝撃だった。聞こえた言葉を頭の中で反芻はんすうするまでもなく漢字に変換できてしまえるという事象が、匿名性の巣穴に安住していた心から不可視のヴェールを奪い去り、その愚かさを白日はくじつもとにさらしてしまうのだと、琴芽は初めて思い知る。


 裸で何も持たずに外へ放り出されるような脅威。思わず両手を胸の前で交差した。手首に付けたヘアゴムの白いぬいぐるみを思いっきり胸へ押し当てる。


 ――あぁ、こんな場所で呼ばないでよ。


 頭から蒸気でも吹き出していそうだ。昼間の学校で誰かの口から聞くのがこんなにも気持ちをかき乱されることだとは想像してなかった。

 どこかで自分を他人事のように観察して冷静な判断をしようとする思考が残る一方、全く別の生き物みたいに口が動き始めてしまう。


「あの、え、どうして? いや、うん、分かるけど、あの、あれだよね? そのニックネーム、投稿名、インド人名だっけ……あたしインド人になったらそんな二つ名で呼ばれたい的な、うん、冗談だよ、冗談。ははっ、分かってるけどね、動画のコメントで、だね。えぇ、そう、だけどね、違うの、違うのよ?」

「えっ……あっ、どう……したの?」


 鯉倉は琴芽の異変を察したのか、口元に手を当て、怪訝けげんな表情で尋ねてくる。

 そんな変な奴を見るような顔しないで、と言いたくなるけれど、のどから出てくる言葉は全く別のものだった。


「そのね、それはあたしの名前じゃない。そんなの、ここで呼ばれちゃ。あたし、何を言えば。だって、あのね、忘れてよ。忘れた方がいいよ。でも、無理か。無理だよね。どうしてなの? 冬への扉はどこにあるの、あたしの熱にゆだった頭をすぐに冷やして。昨日からでもいいからやり直させてよ」


 何も喋らない方がいいって確かに思っていたはずなのに、釈明なのか願望なのか自分でもわけの分からない言葉が口をついて次々と飛び出してきた。

 そういえば今朝の「お話しできませんか?」からずっと気を張っていたのだ。そのせいか、頭の中で何かがぐるぐる回って、長らく口に出せずにいた言葉や感情が今この時になって溢れ出てきてしまった。


「もう少しでいつものお昼に戻れると思ったのに」

 最後の最後でとんでもない失敗をしていたと突きつけられたのだ。

「コメントだけ気にしてて、どんな名前で書いたか、完全に忘れちゃうなんて、バカすぎ……はぁ」


 盛大に溜め息をついてみせると、少し落ち着けたようだ。鯉倉がおそる恐るという感じで近寄ってきていた。


「あ……あの、よく分からないけど、ごめんなさい。私のせい、ですか?」

「……そんなことない、全部あたしのせいだって分かってるから、あなたは別に悪くないの」


 逃げ出されなかったのを喜ぶところなのか、悲しむところなのか、分からない。

 明らかなのは、鯉倉兎渚の前にいる奴は既にもはやではない、ということだ。


 ――もう取りつくろえないのかな。


 琴芽は「白百合の天使」になりたいと思い続けてきた。それは特定の誰かなどではなく、彼女にとって憧れの象徴みたいな言葉だ。


 周りのみんな誰にでも、優しく明るく穏やかに振る舞う天使。そんな天使みたいな存在になれたなら、誰からだって好かれるような何者かになれるんじゃないか。

 いつ頃からか、そう思ってきた。

 単なる天使ではなく「白百合の天使」としたのは、綺麗で上品で美しい感じがして、その方が琴芽のなりたい天使っぽいように思えたからだ。


 中学校ではそれなりに頑張って認めてもらえたと思う。なのに、別の高校へ通うようになると友達であったはずのみんなとのつながりは薄くなっていった。

 結局のところ、頑張りが足らず、琴芽は周りの空気に同調するだけの取り巻きでしかなかったのだろう。


 高校では、今度こそ「白百合の天使」に、と意気込んだ。

 みんなの言葉を邪魔しないように気をつけ、みんなの気持ちを応援するように心がけ、みんなで楽しく過ごせるよう願って振る舞い続けた。

 気づけば、中学生の頃と何も変わっていない自分がいた。

 誰も御石琴芽を見ようとしてくれていない。ただ周りに流されてしまうだけ。


 自分が透明になっていくのを感じた。


 みんなと関わる中で色々なことを思う。言葉だって思いつく。けれど、どこでどのように自分から言えばいいのか分からない。時々だけれど勇気を振りしぼって、琴芽自信の言葉を伝えてみたけれど、他の誰かの話題に吞み込まれてしまうばかり。

 結局はうなずくこと以外は誰からも何も求められておらず、御石琴芽がどういう存在かに誰も興味なんてないというのを理解した。


 だから、今度はネットにも書いてみた。「白百合の天使」という名前で、こうであったらいいなと願う自分になりきってみた。音声のみでの配信だってやってみた。

 最初は反応を貰えたのが嬉しくて、けれど、みんなの反応へ答えているうちに、自分がいったい誰なのか分からなくなってきた。よく分からない広告や見ず知らずの人からの変な誘いが来るのも怖かったのですぐにやめた。


 どうせ御石琴芽を御石琴芽として見ようとしてくれている誰かなんていない気がした。後から思えば「白百合の天使」と名乗っていたのだから、当たり前だ。それでも、御石琴芽にも「白百合の天使」にも全く相応ふさわしくない意味不明な何者かとなっていくような感覚に耐えられなかった。


 結局は誰にも見てもらえない、どこにもいないのと同じ。

 だから、アカウントごと消したけど、誰かに言葉が届く希望を捨てられずに「白百合の駄天使」という名前でもう一度アカウントだけ作っておいた。


 そして、再び学校で頑張ることにしたのだ。

 今度は御石琴芽が透明になってもいいから、みんなへ優しく明るく穏やかに振る舞えるだけ振舞ってみようと決めた。

 もしかしたら、もっと頑張れば誰かにを天使だと思ってもらえるかもしれない。そうすれば、「白百合の天使」って言葉に相応しい何者かにもなれるかも、と期待して。


 今のところ何も成果は感じられていない。学校でみんなの天使になろうと頑張るのに疲れちゃった時など、「白百合の駄天使」で愚痴や弱音を書き残したりしてしまう以外には全く何もできなかった。


 ――本当のあたしは何もないから。


 優しく明るく穏やかなのが嘘なのだと、何もないのだと、きっとに見透かされているのだろう。

 この目の前にいる鯉倉兎渚だって、御石琴芽には何もないとすぐに気づくはずだ。


「その……呼んじゃダメでしたか? 白百合の駄天使さんって」


 囁くように小さな声で鯉倉は尋ねてきた。

 天使みたいに優しく明るく穏やかなを演じればいい、このだまされやすそうな鯉倉ならどうにかなりそうだ、と冷静さをよそおう自分が告げてくる。


 ――もう、嫌だ。


「こんなの最悪さいあくより最悪。もういい、どうでもいい……」


 何かがプツンと切れた。疲れてしまった。

 うずくまりたい。穴を掘って、埋まりたい。そのまま眠ってしまいたい。


 思うと同時にしゃがみこみ、身体を支える力も出さなかったので、しゃがんだ勢いのまま崩れるように前へと倒れていく。


 目をつむって願ってしまう。

 このまま頭をぶつけて記憶まで飛んじゃえばいい――と、弾力のある感触に倒れるのをはばまれた。


 琴芽の頭へ撫でるように手が置かれ、気づく。鯉倉に抱き留められたようだ。とは言っても、手や胸ではなく、お腹で受け止めてくれたようだった。

 柔らかな感触、ほんのりとした温もりが制服の布越しに感じられ、わずかに甘い匂いもしたように思える。

 丁度お腹のくぼみ、つまりはおへそのところに琴芽の鼻先が当たっているようで収まりがいい。


「あの……その、えっと……」


 頭の上から困惑の声が降ってくる。

 ひざを地につけて同級生のお腹に顔をうずめるのなんて琴芽も初めてだったので、どうしようかと思うけれど、すぐには力が入らなかった。


 どのくらい、うずめたままだったか。数分も経過していないと思う。

「ごめん。もういいから」

 と告げて、頭を動かすと抱きしめるように回されていた鯉倉の両手がほどかれた。

 見上げると、微笑みを浮かべる彼女と目が合う。じっとこちらを見つめてきている。

 その時、すぐ前でお腹がグーと鳴った。

 鯉倉の微笑みが消え、何か言いたそうに唇を震わせているけれど、今日この顔を見るのは何度目だったっけ、などと思ってしまう。


「お昼、食べる時間なくなりそう……」

 つぶやくように言葉が琴芽の口からこぼれた。

「ごめん、なさい」

「ううん……あたしが悪いんだ。ごめんなさい。あと、ありがと」


 鯉倉はきょとんとした表情で「どうしたの?」とでも問いたそうな瞳で見つめてきている。その瞳へ何か伝えようとして、けれど、いったい何を思っていたのかすら、よく分からなくなってきた。


「ははっはははは、何してたんだっけ、あたし。って誰なのよ」


 自分がバカらしいことにこだわっているように思え、笑えてきてしまう。

 不意に鯉倉が手を伸ばして、そっと頬へとふれてくる。

 何かと思ってから気づく。


 いつの間にか琴芽は泣いていた。いつから泣いていたのか分からない。意識した途端さらに涙が溢れてきて――抱き寄せられてしまう。

 さっきまでと同じようにお腹へと顔が、おへそへと鼻が当たっていて、頭の後ろで鯉倉の両手が交差しているのが分かる。


「ちょ、ぐすっ、恥ずぐしぃ……」

「わ、私のお腹の音楽をいっぱい聴かせたいだけなので」


 頭上から声が降ってきた。

 緊張しているのにどこか間抜けで柔らかい声。

 先ほどグーとお腹の鳴き声が聞こえた時に見た鯉倉の様子を思い浮かべる。きっと耳が真っ赤になっているだろう彼女へと「それだと鯉倉の方が恥ずかしいじゃん」と言ってやりたくなる。でも、あえて口にはしないことにした。

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