第2話:File.02 共有スペースの管理者

マンションという集合住宅において、管理人の存在は空気のようなものだ。

普段は意識しないが、いなくなれば途端に不便を感じる。共用部の清掃、ゴミ出しの管理、巡回点検。彼らが日々の平穏を縁の下で支えていることは間違いない。


だが、ここ「サンフラワー・ハイツ」において、その空気は少し異質な重さを持っていた。


エントランスを抜けた先にある管理人室。

私はそこで、このマンションに十年以上勤務しているという管理人、田口さん(六十八歳・仮名)に話を聞くことになった。


小窓の向こうに座る田口さんは、好々爺という言葉が似合う穏やかな男性だった。定年退職後の再就職でここに来て以来、住民とのトラブルもなくやってきたという。


「佐伯さんですか? ああ、もちろんよく知っていますよ。彼女には本当に助けられています」


私の問いかけに、田口さんは目を細めて頷いた。


「助けられている、というのは?」


「いやあ、今の世の中、隣近所の付き合いも希薄でしょう? でも佐伯さんは違います。マンション全体のことを自分の家みたいに考えてくれていてね。掃除のお手伝いなんかも、頼んでもいないのにやってくださるんですよ」


田口さんの話によれば、佐伯美和子は毎朝五時に起き、エントランスから各階の廊下までを拭き掃除しているという。管理会社の清掃員も入っているが、彼らが来る頃には既にチリ一つ落ちていない状態になっているそうだ。


「おかげで、私の仕事がなくなっちゃうくらいでしてね。ハハハ」


田口さんは冗談めかして笑ったが、私は笑えなかった。

毎朝五時。それは善意の範疇を超えた執着ではないか。


「それに、一番助かっているのはゴミステーションの管理です」


田口さんは声を少し落とし、真剣な表情になった。


「この規模のマンションだと、どうしても分別ルールを守れない人が出てくるんです。ペットボトルに吸い殻を入れたり、可燃ゴミにスプレー缶を混ぜたり。回収業者に持っていってもらえないと、私が後で仕分けなきゃならんのですが……これが結構な重労働でしてね」


「それを、佐伯さんが?」


「ええ。彼女が毎朝、収集車が来る前にゴミステーションをチェックしてくださるんです。分別が間違っている袋があれば、その場で開けて、正しい袋に入れ替えてくれる。汚い仕事なのに、嫌な顔ひとつせず」


第一話で川本さんが怯えていた「ゴミ袋を見られる」という話は、妄想ではなく事実だった。しかも、それは管理人の公認の下で行われていたのだ。


私は背筋が寒くなるのを感じながら、努めて冷静に質問を重ねた。


「あの、袋を開けて中身を触るというのは、プライバシーの問題になりませんか? 住民の方から苦情が出たりは……」


「苦情? まさか」


田口さんはきょとんとして私を見た。


「みんな感謝していますよ。だって、自分のミスを彼女がフォローしてくれているんですから。それに佐伯さんはね、ただ分別しているだけじゃないんです。住民の健康状態や生活の変化まで気にかけてくれているんですよ」


「……どういうことでしょうか」


田口さんは机の引き出しから、一冊の大学ノートを取り出した。

表紙にはマジックで『共有部連絡事項』と書かれている。


「これは佐伯さんから定期的に渡されるメモを、私がまとめたものです。何かあった時のために記録しておこうと思いましてね」


田口さんは悪気のない顔でノートを開き、私に見せてくれた。

そこに書かれていた内容を目にした瞬間、私は言葉を失った。


『三〇二号室:酒瓶の量が増加。銘柄がビールから安価な焼酎へ変更。失職あるいは経済的困窮の可能性あり。要声かけ』

『五〇一号室:子供用オムツのサイズアップ。成長順調。ただし、離乳食のレトルトパウチが多いため、母親の育児疲れが懸念される。煮物の差し入れ推奨』

『二〇四号室:睡眠導入剤の空き箱(ハルシオン)が毎週定数排出。メンタルクリニックの封筒あり。精神的に不安定な時期か。騒音トラブルの火種になる前に接触を試みる』

『四〇五号室:生理用品のゴミなし。三ヶ月連続。妊娠の可能性大。お祝いの準備を』


吐き気がした。

そこにあったのは、管理記録ではない。

ゴミという最も無防備な生活の痕跡からプロファイリングされた、住民たちの生々しい個人情報だった。


「これ……佐伯さんがゴミの中身を見て、これを報告してくるんですか?」


「ええ、凄しょう? よく見ていらっしゃる。おかげで私も、最近元気がない住民の方に『大丈夫ですか』と声をかけやすくなりました」


田口さんは本気で感心しているようだった。

彼にとって佐伯美和子は、優秀な「現場監督」であり、頼れるパートナーなのだ。彼は気づいていない。自分が、彼女の監視システムの一部に組み込まれていることに。


「あの、田口さん。これは少し行き過ぎではありませんか。誰がどんな薬を飲んでいるかとか、妊娠しているかどうかなんて、他人が知るべきことじゃ……」


私が指摘すると、田口さんの表情が初めて曇った。

彼は不愉快そうにノートを閉じた。


「記者さんは、都会の冷たいルールに慣れすぎているんじゃないですか? ここはファミリー向けのマンションです。みんなで助け合って、見守り合って暮らしているんです。佐伯さんは、その中心にいて、みんなのお母さんみたいに気を配ってくれている。それを『行き過ぎ』だなんて」


彼は私を睨みつけた。


「彼女ほど、このマンションを愛している人はいませんよ。この前だって、ボヤ騒ぎがあった時、誰よりも早く駆けつけて消火活動をしたのは彼女だ。自分の危険も顧みずにね」


ボヤ騒ぎ。

私はその単語に反応した。


「そのボヤ騒ぎというのは、いつ頃の話ですか?」


「半年前です。四階の空き部屋……入居者が退去した直後の部屋から火が出たんです。不審火の疑いもありましたが、佐伯さんが発見して、備え付けの消火器ですぐに消し止めてくれました。大事に至らなくて本当によかった」


空き部屋からの出火。第一発見者は佐伯美和子。

典型的すぎるパターンに、嫌な予感が確信へと変わっていく。


「その部屋、もともとは誰が住んでいたんですか?」


「ああ、若い男性でしたよ。少し神経質な方でね、佐伯さんの挨拶回りや清掃活動に対して『鬱陶しい』なんて文句を言っていたそうです。結局、逃げるように引っ越していきましたが……バチが当たったんでしょうかね、自分の部屋が燃えかけるなんて」


田口さんの口調には、その元住人に対する軽蔑が滲んでいた。

佐伯美和子を否定する者は、このマンションでは「敵」と見なされる。たとえ管理人のような中立的な立場の人間であっても、彼女の価値観に染め上げられてしまうのだ。


「参考になりました。ありがとうございます」


私は逃げるように管理人室を後にした。

これ以上ここにいては、私の常識まで揺らぎそうだったからだ。


エレベーターホールへ向かう途中、掲示板が目に入った。

『今月のゴミ出し当番表』と書かれた紙の横に、手書きのポスターが貼られている。可愛らしいイラスト付きで、丁寧な丸文字でこう書かれていた。


『ゴミは生活の鏡です。

見えないところまで美しく。

あなたの心、汚れていませんか?

――環境美化委員 佐伯』


その「心」という文字が、やけに黒々と太く強調されているように見えた。


私はマンションを出て、大きく息を吸い込んだ。

ここの空気は清潔すぎる。

塵一つない廊下も、整然としたゴミステーションも、すべては彼女の管理下にある。

住民たちは、自分の排泄物さえも彼女にチェックされていることを知りながら、笑顔で挨拶を交わしているのだろうか。それとも、知らぬは田口さんと、ターゲットにされていない住民だけなのか。


取材メモ:

管理人・田口氏は完全に佐伯美和子の信奉者となっていた。

特筆すべきは、彼女が作成している「住民リスト」の存在だ。

ゴミから得た情報を元に、彼女は住民の生活に介入するタイミングを計っている。

弱っている時、病んでいる時、祝うべき時。

人が最もガードを下ろしやすく、また「恩」を感じやすい瞬間を、彼女は虎視眈々と狙っているのだ。


そして、半年前のボヤ騒ぎ。

「彼女を悪く言う住人」が退去した直後の部屋で起きた火災。

第一発見者は彼女。

これが意味するものは明白だ。彼女は、自分のテリトリーであるこのマンションから「異物」を排除するためなら、手段を選ばない可能性がある。


次は、その「排除された人々」の声を聞く必要がある。

田口さんが「神経質」と切り捨てた元住人。彼こそが、このマンションの異常性を最も客観的に見ていた人物かもしれない。


私は手帳を開き、次の取材候補者の連絡先を確認した。

遠方の県に引っ越したというその男性は、電話取材に応じてくれるだろうか。


(第2話 完)

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