第9話
授業が終わり、汗をタオルで拭きながら足早に教室に戻ろうとする。外が熱いのはもちろんだが、それ以上に声をかけられるのが嫌だったから。
「ちょっと待てよ、志和」
そう、この坂口にね!
声を聴けば振り返らずともわかる。と言うか振り向きたくない。明らかにキレてるし、ろくなことにならない。
最悪の事態を避けるためには、どう返すのが正解だろう。だめだ、どう考えても悪い結果しか見えない。体育館裏に呼び出されて殴られる……くらいは覚悟した方が良いかも。
「――」
何を言えば良いのか分からないまま、できるだけ冷静を装って振り返る。
「志和はサッカーをやってたんだよな?」
坂口と俺は中学が違う。それなら俺の過去は噂程度でしか知らないはず。
俺の事をどう思っているかは分からないが、その剣幕から察するに……まぁ良い感情ではないだろう。
「……中学一年までな。だから胸を張って言えるような事でもない」
ギロリと吊り上がった眼をした坂口は、地団駄を踏んで不快感をあらわにしている。
……余計に怒らせてしまったらしい。
「もうサッカーをやる気はないんだってな? 高橋がぼやいてた」
んだよお前かよ! 高橋先生? ちょっとキツめに断られたからって、生徒間の火種を作るのは辞めてもらえませんか?
通りで坂口が俺の事を知っているわけだ。
坂口の溜飲を下げようと、できるだけ穏やかな声を出す。
「あぁ……まぁそうだな。もうサッカーはいいかなって」
「そんなの理由にならないだろ。あれだけ上手いんだ、練習量だって馬鹿にならないだろ。そこまで積み重ねた物を……俺だったら捨てられない」
そう言われても困る。俺には俺の理由があるし、坂口に言われる筋合いはない。
手早く穏便に話を終わらせたいが、相手も引く気はないし。こうなったら諸刃の剣を出すしかない。
「坂口だって聞いたことがあるだろ。……俺の噂はさ」
触れづらい話題だ。これで会話も続けにくくなるだろう。
「あぁ、知ってる。飯田から聞いた。中学の時に暴力事件を起こしたってやつだろ?」
飯田美香。中学の頃からの同級生。
当事者でこそ無かったが、当時の状況はある程度把握しているだろう。なるほど、彼女が噂をばらまいてくれていたのか。それはまた好都合だ。
「それなら話は終わりだ。俺から言えるのは、その噂は事実だってことだけ。暴力事件を起こす奴を同じ部活に置いておけないだろ? また問題を起こせば大事な大会に出られなくなるかもしれ――」
「……そんなことを聞きたいわけじゃねぇ!」
坂口は俺の言葉を遮り、勢いよく胸ぐらを掴んできた。周りの女子が小さな悲鳴を上げるのが聞こえてくる。
――情緒不安定が過ぎるだろ……。どこに地雷が埋まってるんだ?
至近距離で坂口を見つめるわけにもいかず、左へと視線を泳がす。
……真顔でこちらを見ていた松永と目が合う。気性が荒い人間なら「見世物じゃねぇ!」と怒りそうなほどガン見してくる。え? 松永は気まずいとかいう感覚は無いの?
仕方なく坂口の方へ視線を戻す。
「志和、俺はお前がどうしても許せない」
眉をひそめ、わなわなと体を震わせている。
「許せない……か。それは思い当たる節が多すぎるね」
「勘違いするなよ。さっき俺を抜きさったことは関係ない。たかが一回のやり取りでどっちが上かなんて決まる訳じゃないからな」
坂口は迫力の割にどこか冷静だった。だからこそ、彼がこれほどまでに怒っている理由が分からない。
「もっと言うなら、その気取った態度でも、過去に暴力を振るったことでもない……。そんな事、今の俺にはどうでもいい」
「なら何で?」
心の底からの疑問だった。これ以外に俺に対して怒る事は無いはずだ。
「お前には実力があるのに、もっと上を目指せるのに。どうしてそれを活かそうとしない! もっと努力して、真剣に取り組めば結果も出るだろ!」
――そういう事か。
「正直、俺たちサッカー部は弱小も良いとこだ。でも手を抜いてきた覚えはない! でもお前は……お前は!」
勢いよく突き飛ばされ、コンクリートの道に尻もちをついた。熱さと共にひりひりとした痛みが伝わってくる。
坂口が言いたいのはこういう事だろう。
「持っている人間が、何もせずに堕落していくのは腹が立つ」と。『何者でもない自分』を自覚しているのなら尚更だ。三年生の引退試合を目の前にして、思うところでもあったのだろう。言いたくなる気持ちもまだ分かる。
そういえば松永も「もったいない」と言っていた。坂口は俺と同じスポーツをしていた分、それが怒りになっただけ。
どんな剣幕で罵声を浴びせられようとも、答えは昔から決まっている。
「――諦めたんだよ。サッカーを」
「諦めただと? 志和が中一で県の選抜に呼ばれたのは知ってる。嫌でも名前を聞いたさ……。同学年で、そんなに強いやつがいるって心底羨ましかった。そのお前が諦める? ふざけてんのか!」
俺に対して勝手に「期待」や「羨望」を向けていた分、裏切られた気持ちにでもなっただろう。ただ、そんな独りよがりの感情を向けられたらたまったもんじゃない。
隣の芝は青く見えるとはよく言ったものだ。当事者にならなきゃ何も見えないのに。
「何もふざけてない。いくら努力して技術を磨いても、その先にあるのは、坂口が思っているような高潔なもじゃ無い。この話は終わりだ。もう辞めてくれ」
手のひらに付いた砂粒をはたき、坂口に背を向けて校内へ入っていく。
こんな青くさい事を言うつもりは無かったのに。……今思うと気色悪くて笑えてくる。
「お疲れ。災難だったね」
靴を履き替えていると、松永が何事もなかったかのようにやってきた。随分と情けないところを見られたな。
また話のネタとして消化されるんだろう。むしろ笑い話にしてもらったほうが、幾分かマシになる。この張り詰めた気持ちはさっさと終わらせたい。
「いつもみたいに『不甲斐なかったな』って笑ってくれ」
自嘲気味に言ってみたが、松永の反応は予想とは違った。彼女は真剣なまなざしで見つめてくる。
「ボクは笑わないさ。むしろ勇敢にもやり返していたら、今頃は縁を切っていたね。でも志和はそんな弱い人間じゃないって……ボクだけは知っている」
それだけ言うと、一人で教室へ戻ってしまった。
「――調子狂うな」
松永文麻。普段は戯言を並べて会話をし、お互いに小馬鹿にして笑う悪友だと思っている。だが時折こうして松永らしくない一面を覗かせることがある。
……思えば中学の時もそうだったな。
俺が学校に戻った頃、暴力事件の噂は既に広まっていた。チームメイトや友達はみんな俺から距離を置き、俺も誰とも関わらないようにした。その方が気楽だったから。
学校では一言も口にしない、そんな毎日が続いていた。その中で。
「災難だな。良いのかこのままで。言われたい放題されているみたいだが?」
そう話しかけてきたのが、たまたま席が隣だった松永文麻だった。一度も話したことなんて無かったし、ずっと本を読んでいる変わり者程度にしか思っていなかった。
そんな彼女は、俺を気遣う訳でもなく淡々としていた。興味本位で話しかけてきただけなのだろう。
「……別に。もうどうだって良いよ」
「男子はこういう時、お互いの信念のもとで殴りあうんじゃないのか?」
松永は本を読みながら、意味の分からないことを言っていた。
今思えば、とても松永らしいのだが。
「殴り合いなんかしたら本当に暴力事件だろ。いまどきはわざわざ喧嘩なんてしないよ」
「そうなのか」
「言わせたい奴には言わせておけばいい。俺が言い返したって火に油を注ぐだけだ」
俺の言葉に松永は初めて顔を上げた。どこか達観していて、くすんだ目をしている。そう思った。
「そうか。つまり君は強いんだな」
彼女は優しそうに口元を緩め、俺が予想していなかった言葉を口にした。
「どこが? ただビビっているだけだよ」
「被害者を気取って大きく声を荒げるなんて事は簡単だ。だが君はそうしなかった。むしろ現状を見つめ、非難をありのまま受け入れて。……自分から身を引いている。これは強い人間にしかできない行動だと、ボクは思うよ」
「――そりゃどうも」
これが松永と交わした初めての会話だった。
この時から、この変人は何も変わってはいないのだろう。
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