二章 泉の女王モルガンと平原の民ラフィット

① 懐かしき思い出

 夢を見た。

 在りし日の思い出。それを天から他人事のように見下ろしている不思議な心地。


 これはまだ幼い頃――確か八つか、九つだったか、テオドリックによる剣と魔法の訓練の厳しさが増した頃。より実践的な訓練のために王宮の中庭に入ることが許された、最初の日だ。


 稽古用のズボン姿の幼いヴィクトリアは、息も絶え絶えに壁に寄りかかっている。足はがくがくと震え、本当ならその場にへたり込んでしまいそうになるのを、なんとか堪えている。


 左手には刃を潰した両刃の剣、右手には木製の丸い盾。しかし、ヴィクトリアはそのどちらも持ち上げることさえできず、だらりと投げ出したままでいる。疲れ切っていて握る力が入らないのだ。それでも落とさないのは布で縛り付けて固定してあるからだった。


「さあ、もう一度です。姫様」


 丁寧な態度ながら有無を言わせぬ迫力を纏いつつ、テオドリックが歩み寄ってくる。同じような稽古着姿に剣と盾を持っているが、こちらは息一つ切らしていない。


 ヴィクトリアは荒い息をそのままに、虚ろな目でそれを睨んだ。

 痛い、疲れた、辛い、鬼め、悪魔め、地獄の使者め――あらん限りの悪口雑言を頭の中で叫びたてつつ、ヴィクトリアは魔力を取り込む呼吸をする。


 ――えっと、圧力の差があって……速い空気の流れが……うぅぅ、とにかく!


「……ヴェントゥス!」


 曖昧に思い浮かべた、空気に刃を生み出す『この世の理』。それに従って、口から吐き出した微量の魔力は空を裂く風の刃となって、両手を固定していた布を破いた。

 威力は弱々しい限り。覚えたてだから無理もないと今なら分かる。もっとも、布さえ破れればよかったのだからそれで十分だったのだけれど。


 剣と盾を地面に投げ捨て、ヴィクトリアは後ろを向いて全力で走る。


「姫様、お待ちを。姫さ――」


 テオドリックの制止が遠ざかる。


 ――逃げろ逃げろ逃げろ。どこでもいい。この場でなければ。テオドリックがいないところならば……!


 とはいえ、ヴィクトリアが入って許されるところなど、広い王宮内にあってもそう多くはない。結局のところ自室と中庭以外に唯一許された書庫を選んでしまう辺りが、こうして見返していても子供の浅知恵である。


 ヴィクトリアは本棚の陰に隠れながら、耳をそばだてる。


「戻りましょう、姫様。まだ稽古は終わっておりません」


 テオドリックの足音が近づいてくる。声は淡々としていて、怒りは感じられない。そもそも彼は声を荒げて怒ったことなどない。よく通る低い声はいつも穏やかで、それだけに厳しさが余計に際立った。


 足音を殺しながらヴィクトリアは本棚の隙間を移動する。

と、あっさりと先回りされて、テオドリックが目の前に立ちふさがった。


「さ、姫様。こちらへ――」


 テオドリックが手を伸ばしたその瞬間、ヴィクトリアは衝動的に手近なところにあった本を掴み、思い切り投げつけた。それは狙い通りに彼の鼻先に命中する。本がずり落ち、ぱさりという紙の音が響いた。


「うあああああああああ!」


そのまま何冊も、何冊も、あらん限り、手に取れる限り。

 ヴィクトリアはひたすらに本を投げ続けた。


「なんでよ! なんでこんな辛いことしなくちゃならないの!」


 テオドリックは本の雨を身体に受けている。顔面に当たっても怯まず、表情を変えず。ただただされるがまま、投げ込まれるまま。

 そのあまりに静かな態度に、さらにヴィクトリアの頭に血が上った。重かったはずの両腕はもはや意思を越えて勝手に動き、本という本に手を伸ばしては、投げつける。その上で、足は一歩でもテオドリックと距離をとろうと後ずさっている。


「こんな辛い思いして……剣だとか、魔法だとか、こんなのになんの意味があるのよ!」


 溢れ出る涙で視界がにじむ。テオドリックの大きな身体は、まるで霧の中の大木だった。構うことなくヴィクトリアはそこにめがけてひたすらに本を投げ込んだ。


「馬鹿! 先生なんていらない! どうせ私なんて――」


 そこで背中が壁に当たり、これ以上後ろに下がれないという絶望を感じた。左右どちらに逃げようと無駄だということも、すぐに理解する。


 テオドリックはもう手の届く距離にまで近づいていた。ゆっくりと、その手が迫る。

 ぶたれると思ったヴィクトリアはぎゅっと目を瞑った。

 しかし、何も起きなかった。恐る恐る目を開けると、見えたのは跪いたテオドリックの柔らかい微笑だった。


「姫様。この私めが、陛下になり代わりそのご質問にお答え申し上げます」


 テオドリックはヴィクトリアを抱き寄せた。優しくて温かい、大きな手で頭を撫でられ、突然のことにヴィクトリアは目を見開く。


「せ、先生……?」


「姫様。あなたは――」


 そこで目が覚めた。

 ヴィクトリアはむくりと上体を起こし、ぐるりと周囲を見渡す。微かな緑色の光に彩られたむき出しの岩肌。目を落とせば毛布の下、自分は下着姿だ。


 静寂にきんと耳が鳴った気がした。まどろみに鈍くなっていた頭が徐々にはっきりしてきて、それと共にずきりとした痛みが全身を襲う。思わず首を指先で撫でると昼の出来事、その恐怖が蘇り、ヴィクトリアは顔をしかめた。


 ――そうだ、ここはケットシィの住処。カイの部屋……。


 隣のベッドはもぬけの殻だ。カイはどこに行ったのだろう。気を遣っているのだろうか。それとも食事だろうか。万が一にも素顔を見せられないということなのかもしれない。


――まだ、寝ていていい、のかしら?


 外が見えないから時間も分からない。出発まではまだ時間があるのだろうか。


 とりあえず身体を横たえ再び掛布団に包まると、意識がまた遠のいていく。

 自分でも分かる。相当に疲れている。カイのことは気がかりだが、夜明けには旅立つと言っていたから、きっと起こしてくれるはずだ。となれば、少しでも身体を休めるのが自分の役割だろう。そうに違いない。


 ――懐かしい夢……


 思わず口元に笑みが零れ、少しばかりの懐かしさとあの時の気持ちが蘇ってきた。不安と恐怖は薄らぎ、心が温まってくる。


 あの日。あの夢の続き。テオドリックはこう言ったのだ。


(姫様。あなたはこれから先、一人で生きていく力を身につけねばなりません。知識も、剣も、魔法も、なるほど窓の外を望み、己の境遇を恨み、ただ渡り鳥を羨むばかりであれば必要ないもの)


(しかし、そんな日々がこれからも続く保証はないのです。それはあなただけではありません。兄王子も、王宮の外で生きる民草の子らであっても同じ。行きつくところ、人は必ず一人なのです)


(その時に備え、強くおなりなさい。私はそのために、どこででも生き抜けるよう、あなたを鍛えます。疎まれても、恨まれても、決して投げ出しません。しかし――)


 ぎゅっと強く抱きしめられた感触を思い出し、ベッドの中でヴィクトリアは両肩を抱いた。

 記憶を辿る。その温もりを思い出すように。父からも、兄からも、もちろんエマからも、産みの母からでさえも――誰からも得られなかったあの安心感を、そっと蘇らせるように。


(矛盾したことを申し上げますが、そうして強さを得たあなたは一人ではありません。あなたは誰かの助けになれるからです。あなたが身につけられたその力で、誰かを助け、そしてその対価として誰かから助けを得ることが叶うのです)


(先ほど、どうしてこんな辛い思いをしなければならないのかと姫様は問われました。それは、姫様……すべてあなたが一人でも生きていられる術を身につけるためであり、また、あなたが一人で生きずともすむようにです)


 テオドリックはそう言ってヴィクトリアを抱きしめ、頭を撫でた。優しく、何度も。

 

 ヴィクトリアは泣いた。王宮であれほど泣いたのは、あの時が最初で最後だ。


(ですから、姫様。私なんてなどと、二度とご自分を卑下なさいますな。あなたがどこの生まれの何者であれ、私はあなたの教師。故に、私が全霊を持って必ず姫様をそういう者にしてみせます。このテオドリック、アゼルスタン陛下への友情と忠節にかけてお誓い申し上げます)


 ――先生。私、そういう者になれた? いえ、これからなれるのかしら……?


 そんな自問を思い浮かべてしばらくして、ヴィクトリアの意識は再び闇に沈んだ。

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