第二話 捨てろ

 粗大ごみの回収日が近づいていたので、何か不要なものを捨ててしまおうと考えて押し入れを漁っていた北村光子は、押し入れの奥で埃にまみれた革張りのノートを見つけた。


 四十歳を過ぎ独身の光子は、狭いワンルームで淡々と暮らしていた。スーパーのレジ係として、客の顔も商品のバーコードも、機械的に流れる日々。部屋には不要なものがいくつか。古い棚、壊れた扇風機、きしむ椅子。いつも捨てようと思うたび、なぜか手が止まった。


 そんな中、ノートに触れたとき、光子は妙な心のざわめきを感じた。表紙は擦り切れ、最初の数ページが乱暴に破られている。なぜ破ったのか、記憶がない。このノートは何だろう? 光子は首を傾げ、ページをめくった。


 空白。インクの匂いが、かすかに漂う。その夜、衝動に駆られ、光子はペンを握った。日記を書く習慣などなかったのに、書かずにはいられなかった。「今日、粗大ごみを整理。古い日記帳を見つける。前のページ、破られている。考える。なぜ、捨てられないのか」


 短い文。胸に重さが残る。翌朝、日記を開くと、彼女の字ではない、ぎこちない文字が浮かんでいた。


「捨てろ」


 光子の心臓が跳ねた。誰だ? 大家か? いや、そんな冗談はしない。隣人のイタズラ? 鍵は閉めていた。震える手で日記を閉じ、仕事へ。レジを打ちながら、ノートに書かれていた「捨てろ」が頭を支配する。ピッ、ピッという電子音が、遠くに聞こえる。


 帰宅後、日記を開くと、新たな文字が記されていた。

「部屋にあるものを捨てろ」

 光子は部屋を見回した。視線が、きしむ椅子に止まる。昔、恋人と同棲していた頃、リサイクルショップで二人で選んだものだ。男はもういない。数年で別れ、連絡先も消えた。椅子だけが、なぜか残った。だが、まだ捨てる気にはなれない。


 翌朝、日記には新たな言葉。

「大きなものを捨てろ」

 光子の息が詰まった。部屋に大きなものは、椅子くらいしかない。日記は、それを知っているのか? 夜、ページをめくる。ノートの表紙裏に、鉛筆で書いて消された文字の痕跡を見つけた。「愛してた」誰の字だ? 自分の? 記憶が曖昧だ。光子の指が、ギザギザの紙をなぞる。


 次の夜、日記の言葉が増えていた。

「昔を捨てろ」

 光子の頭に、電撃が走った。昔。同棲していた男との日々。笑い合い、喧嘩し、別れた時間。椅子。あのきしむ椅子は、恋人と選んだものだった。日記は、それを捨てろと言っている。光子は粗大ごみの申請書を握り、自治体の窓口へ。指定の日前日、椅子をアパート前に運び出す。重い。きしむ音が、耳に刺さる。アパートの入り口に置いた椅子が、まるでこちらを見ているような錯覚を覚えた。


 回収日、トラックが椅子を運び去り、光子は安堵した。だが、夜、日記を開くと、新たな文字。

「未来のないものを捨てろ」

 光子の手が震えた。未来? 自分に、未来はあるのか? レジを打ち、狭い部屋で独り寝る日々。考える。未来とは何か。翌夜、日記の言葉はさらに変わる。

「希望のないものを捨てろ」 


 光子は鏡を見た。疲れた顔。目尻のしわ。笑わなくなった口元。希望はどこにある? 日記は、まるで心を抉るように、言葉を突きつける。光子は考える。未来のないもの。希望のないもの。それは、自分自身ではないか? 胸の奥で、何かが軋む。


 きしむ椅子の音に似た、冷たい音。日記を開くたび、部屋が狭く感じる。壁が迫ってくる。夜、眠れない。考える。考える。考える。日記の言葉が、頭の中で反響する。「捨てろ」。光子は叫びそうになるが、声が出ない。代わりに、彼女はノートに書き込んだ。

「お前は何なの」


 翌朝、返事が待っていた。

「考える。俺は君の粗大ごみ。捨てられないもの」

その筋の通らない文章に光子は恐怖を感じた。粗大ごみ。椅子を捨てたはずなのに、部屋の隅にその影がちらつく。光子はノートを握りしめ、燃やそうとマッチを探す。


 だが、火をつけようとした瞬間、ノートが急に熱くなり、指が焼けるように痛む。慌てて手を離す。ノートは床に落ち、ページが勝手にめくれる。そこには、光子の過去が書かれていた。


「二十歳の夏、恋人と笑う。椅子に座り、愛を語る。別れる。考える。なぜ、捨てられないのか。三十歳、昇進を逃す。出世コースからは外れただろう。考える。捨てられないのか。四十歳、独り。捨てられないのか。考える」


 光子は叫んだ。部屋に響くのは、きしむ音だけ。日記は、彼女の思考を吸い取るように、ページを増やす。光子は考える。自分を捨てろ。日記の言葉が、頭に突き刺さる。未来のないもの。希望のないもの。光子の心は、ざらざらとした絶望で満たされる。考える。生きていても、しょうがない。日記は、そう言っている。


 光子の足は、勝手に動く。夜、日記を手に、マンションの屋上へ。冷たい風が、頬を刺す。光子は鉄柵を越え、屋上の端に立つ。眼下、街の灯りが遠い。光子の心は、暗い渦に飲み込まれる。考える。自分を捨てろ。日記の言葉が、頭の中で膨らむ。後ろ手に柵をつかむ。錆びた鉄が、指先に冷たい。光子の呼吸が浅くなる。考える。考える。考える。日記の言葉が、彼女を締め付ける。未来のないもの。希望のないもの。それは、私だ。風が強くなり、髪が乱れる。日記を握る手が震える。考える。飛び降りれば、終わる。捨てるのだ。光子は、ふともう一度日記をめくった。ページの間に、1枚の写真が挟まっていた。光子と、昔の恋人。二人とも笑っている。男の腕が、光子の肩に。光子の笑顔が、輝いている。


 記憶が、突然蘇る。これは、恋人との日々を記した日記だった。楽しかった時間。愛し合った日々。破られたのは、別れの痛みを忘れたかったからか?


 光子の目から、涙が零れた。

「こんなことも、あったっけ」

光子は呟き、鉄柵に寄りかかった。風が日記のページをめくる。空白のページに、彼女の字ではない文字が浮かぶ。「捨てろ」。光子の心が軋む。考える。捨てるべきは、自分自身だ。日記はそう言っている。だが、写真の笑顔が、頭に焼き付く。あの頃の自分は、希望に満ちていた。未来を信じていた。


 光子の足が再び鉄柵を越え、屋上に戻る。考える。捨てるべきは、本当に自分か?光子はしばらく沈黙し、そして笑った。冷たく、鋭く。


「お望み通り捨ててあげるわ。未来のないものをね」


 光子は日記をつまむと、ビルとビルの細い隙間へ落とした。ノートは、闇に吸い込まれる。落ちる音もせず、消えた。光子は振り返らず、屋上のドアへ向かう。扉を開け、マンションの階段を降りていった。

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