第17話 朝の気配と、歪み始めた床
横浜の街に、春の透き通った朝陽が差し込み始めた。
午前四時。
アラームもなく、安吾(方谷)の意識は急浮上した。昨夜の深い闇から引きあげられた彼の魂は即座に「山田方谷」としての思考回路を繋ぎ直す。
「……ふぅ。今朝はなんとも空気が重いのう」
方谷は布団の中で呟き、隣のベッドに目をやった。
そこには、昨夜と変わらぬ姿勢で眠り続けるイチロウの姿がある。だが、昨夜と違うのは、あの薄黄色の糸が朝の光の中でも消えていないこと、そして――部屋の空気そのものが、巨大な
「匂うな」
方谷が布団をめくり、起き上がった瞬間。
ミシッ。
嫌な音が床から響いた。
「……なんじゃ? 床が歪んどるんか」
見れば、イチロウが寝ているベッドの脚が、フローリングに
ゲイリーは布団の枕もとに置かれたハンカチの中から起きてきた。ふよふよと流れ方谷の肩にひょいと飛び乗った。
「おはよう、方谷。見てごらんよ、この重厚な空気。まるでディケンズの小説に出てくる、古い鉄鋼の街の朝のようだ。イチロウくんの中の『誰か』が、無意識のうちにこの部屋の重力場を書き換えているらしい」
ゲイリーはいつものように茶目っ気たっぷりに杖を振り回したが、その視線はイチロウの首から伸びる糸を鋭く観察していた。ほんのり光る糸は今、昨夜よりも太くなり、脈動の速度を上げている。
「ゲイリー。おぬしは、何が見えとるんなら……」
方谷はイチロウの額に手を当ててみた。熱はない。だが、その肌からは微かに「鉄」の匂いがする。
イチロウの身体を、そっと触り確認し、穏やかな呼吸が続いていることには安堵し、カーテンを開けた。
「ここから先は、禅なり」
そして布団を整え、静かに
••✼••
しばらくしてキッチンからは、ミドリがフライパンでソーセージを焼く、じゅうじゅうという小気味よい音と、甘いパンケーキの香りが漂ってきた。山田家の日常の音が、安吾の寝室の不気味な静寂を押し返そうとしている。
「お兄ちゃん、起きた? サキはもう顔洗ったよ! イチロウくんどう?」
隣の部屋からサキの元気な声が響く。
「レディ、今は彼を起こさない方がいい」
ゲイリーが飛び込んできたサキの気配を感じて、囁くように言った。
「イチロウくんは今、魂の深いところで、あちら側と綱引きをしている。僕たちが下手に引っ張れば、糸が切れて彼の心が壊れてしまうからね」
黙想していた方谷は、ゆっくりと眼を開いた。
••✼••
その頃、根岸の古い倉庫、イチロウが閉じ込められていたレンタルボックスとは別の一室。
高級なスーツに身を包んだ男が、デスクの上に置かれた端末を凝視していた。画面には、横浜の地図上に光る一点のポイント。
「……ターゲットは止まっているな。関内のマンションか。意外としぶとい『魚』だ」
男の背後では、白装束の数人が古い経典を読み上げ、大きな水晶体を通じてイチロウの糸を操作している。
「ボス、例の『器』の目覚めが近いです。このまま繋いでおけば、あちら側の重厚な経営資源をこちらの口座へ流し込めます」
「ああ、頼むぞ。せっかく手に入れた伝説の実業家の魂だ。経済ヤクザの神輿にするには、最高の一品だからな」
男は冷酷な笑みを浮かべ、山田家のある方向を睨みつけた。
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