第4話 無職の天才と清貧のススメ

 山田安吾が倒れたのは、大学卒業を目前に控えた二十二歳の春だった。

 原因は分からないまま、彼は長い眠りについた。

 三年後、目覚めた彼は二十五歳。内定も消え、社会の線路から外れたまま、静かに目を開けた。


 そして、安吾の肉体に宇宙意識を名乗る山田方谷ほうこくが宿ったこの異変こそが、全てを凌駕する最大の出来事であり、山田家の新たなの始まりであった。方谷の身体の中で、穏やかに安吾の意識は眠り続けている。


 その戦場での最初の試練として、方谷の友人である川崎一郎の失踪事件が立ち上がることになる。


          ••✼••


「お兄ちゃん、今日も家にいるの?」

「ああ。ワシのことはええけん、サキは気をつけて学校へ言っておいで」

「いいなぁ。私も家に居たいかも」

「勉強がつまらんのか? 歴史を知れば面白いぞ。今度、今度ワシが教えちゃろうか?」

「……うん。ありがと、お兄ちゃん。行ってきます」

 サキは名残惜しそうに振り返り、カーキ色のランドセルを揺らして玄関を出ていった。

「いってらっしゃい」

 安吾の横で、ミドリも一緒に手を振った。


「本当に目が覚めてからのお兄ちゃんが、健康で良かったわぁ。お母さんは、お兄ちゃんが元気でいてくれるだけで嬉しいのよ」

「就職したいなら口を聞いてやるから、心配するな。面談に行ってみるか? 」

 濃いグレーのピンストライプの入ったスーツを着たソウセキは言う。


 安吾の肉体に宿った、方谷の意識は、公念を実践するため、就職活動を再開する気は毛頭なかった。


「私念を追う就職など、公念の敵じゃ。今はイチロウ殿の一大事があるゆえ、周囲の環境の観測とデータ収集が最優先じゃ」


 ソウセキは、安吾の再度の就職活動を望みやんわり促したが、ミドリが間に入った。


「そうよ、お父さん。お兄ちゃんはイチロウくんのために戻ってきたのよ。急いで働かせなくていいわ。まず一ヶ月くらい、この世界に慣れる期間にしましょう。体調も整えなきゃね」


 こうして、安吾(方谷)は療養中という名目で、家族の許可つきで無職在宅という自由な立場を得た。彼の清貧のススメは、家族が求めると一致したため、奇妙な形で受け入れられた。父の発言は、母により封じられた。


「そういえば、イチロウくんは、一昨日も昨日も来ていないな?」

「そうねえ」

「イチロウ殿は、大学で忙しいのじゃろう。ワシが倒れたことで毎日来てくれていたんじゃな。すっかり迷惑をかけてしもうた」

「毎日来てくれていたものね。昨日はサキが寂しがってたわ」


          ••✼••



 病室に通う日々が終わり、安吾が家へ戻ると、イチロウの心のなかにぽっかりと穴が空いたようだった。誰かに必要とされる場所だった病室も、今はもう彼を求めてはくれない。


「イチロウくん、すまないね。いつも見舞いに来てくれて」

 安吾の父親からそう言われるのが当たり前になっていた。もちろん母親も声をかけてくれる。

「もうすぐだから、待っててね。お兄ちゃん、きっと目が覚めるから。カードは全てを見ているの」


 そのこそばゆい気持ちを、偽善のように思いはじめ、ますます熱心に通ってしまっていたのだ。今は、安吾は不思議な言葉づかいをして、近くにいるのに自分の言葉は届かない。 

 優秀な兄として相談事を持ちかけ慕っていた安吾は、いなくなっていた。


「イチロウ殿、今日も来てくれてありがとうな」

「無理しない方がいいんだよね、また来るよ」


 イチロウは、療養中の安吾を気遣う優しさを見せた。

 家に帰れば、夕食の支度をし、父の帰りを待つ時間だけが流れていた。

 母の不在が染みついた部屋の静けさは、彼の心を冷たくした。

 空白を埋めるように、彼はサークルの灯りへ足を向けた。


 サークル棟の前の桜の木から、はらはらと花びらが降っていた。


 春先のサークル勧誘は、いつも熱心な学生で賑わっている。

 その中でひときわ眼を引くふたりがいた。髪を編み込んでおおらかに声を張り上げるユリエと、肩にさらさらのストレートロングを流し、黒縁メガネをかけて鼻筋が通り繊細そうな顔つきのハルカだった。

 イチロウの純粋さと誰かに必要とされたいという私念の結晶を瞬時に嗅ぎつけたユリエは、熱心に彼を勧誘した。


「ねえ。こないだの授業で今度遊びに来てって誘ったでしょ? お友達が退院したって聞いたよ。良かったねえ」

「ああ。そうなんだよ、すっかり元気みたいだ」

「イチロウくんって、本当に優しいよね。お友達のお見舞い、大変だったでしょう? うちのサークルは、人との繋がりをすごく大事にしてるの。一度来てみて」

 ハルカは言葉少なに、横でにこやかに佇んでいる。


 その桜の花びらの下のふたりは、まるで白色光に集まる蛾のように人を吸い寄せていた。



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