【完結済】氷の貴公子の前世は平社員〜不器用な恋の行方〜

キノア9g

プロローグ


 ◇ユリウス ◆ゼノン



 雪のように白い指先が、銀縁眼鏡のブリッジを滑る。そっと、押し上げた。


 精緻な所作。完璧に整えられたその一つ一つが、ユリウス・グレンジャーという男の全てを物語っていた。グレンジャー公爵家の嫡男。若干二十歳で当主代行を務める彼は、王宮の執務室でも一切の綻びを許さない。


 羽根ペンが羊皮紙を滑る音。書類の頁が翻る微かな摩擦音。


 静謐な空間に、全てが彼の意思に従うかのように溶け込んでいく。


「ユリウス様は、本当に完璧な方だ」


「ええ。まさに氷の貴公子……我々など足元にも及びません」


 廊下を通り過ぎる若手貴族たちの囁きが、微かに耳を撫でた。ユリウスは内心で苦い笑みを噛み殺す。


 完璧。


 その一言が、どれほど長い間、彼を縛り続けてきたことか。幼い頃から叩き込まれた帝王学と名門公爵家の重圧。それらが彼を「完璧」という名の透明な檻に閉じ込めた。感情を表に出すことは許されず、常に論理と合理性のみを求められる。結果、周囲は彼を畏敬するばかり。心を通わせる者など、ほとんどいない。


 しかし──そんなユリウスにも、唯一心惹かれる存在がいた。


「……ゼノン」


 書類の山から顔を上げ、窓の外に広がる王宮の庭園を見る。午後の陽光が石畳を照らし、庭師たちが薔薇の手入れに勤しんでいる。彼がそこにいるはずもないのに。自然と目で追ってしまう自分の愚かさに、ため息をつく。


 ゼノン・シュヴァルツ。黒髪に深い緑の瞳を宿す硬派な近衛騎士。彼の姿を見つけた瞬間、冷徹な仮面の下で、ユリウスの心臓だけが不規則なリズムを刻み始めていた。



 ◆


 ゼノンもまた、王宮の一室で寡黙に職務にあたっていた。研ぎ澄まされた剣のような佇まい。周囲の喧騒を寄せ付けることを知らない。革の手袋に包まれた手で書類を整理しながら、ふと視線を上へと向けた。


 そこには、いつもユリウスが執務に励む部屋がある。高い窓から差し込む光が、きっと今頃、彼の白い頬を照らしているのだろう。


(ユリウスは、今頃何をしているだろうか)


 シュヴァルツ伯爵家の次男として生を受けたゼノンは、幼い頃から騎士としての道を歩むことを運命づけられていた。感情を表に出さぬよう教育され、常に冷静沈着であることを求められる。けれど彼の胸の内には、幼馴染であるユリウスへの特別な感情が、深い湖底に沈む宝石のように静かに輝いていた。


「ゼノン殿、休憩なさっては?」


「いや、まだ」


 同僚の言葉に短く応じて、ゼノンは再び書類に目を落とす。ユリウスとは幼い頃、よく庭園で遊んだものだ。あの頃のユリウスは、もう少しだけ──感情豊かな子供だった気がする。しかし、ゼノンが本格的に騎士の道を志し、鍛錬に明け暮れるようになってから、二人の距離は少しずつ、確実に離れていった。


(俺は、ユリウスに嫌われている)


 いつからか、そう思うようになった。ユリウスの完璧主義な態度。彼から向けられる厳しい言葉の数々。それらに、ゼノンは自分が彼を不快にさせているのだと確信していた。それでも──王宮でユリウスの姿を見かけると、まるで癖のように吸い寄せられてしまう。



 ◇


 その日も、ユリウスは執務を終えて廊下を歩いていた。


 ふと、前方にゼノンの姿を見つける。近衛騎士の制服を纏い、背筋を伸ばして立つその姿は、いつ見ても彼の心をざわつかせた。


(いけない……また見てしまった)


 鼓動が速くなるのを感じながら、ユリウスはいつもの仮面を貼り付ける。


「シュヴァルツ卿」


 呼び止める声は、完璧な敬語と、どこか冷ややかな響きを含んでいた。ゼノンが振り返る。その無表情な顔からは、何を考えているのか読み取れない。


「ユリウス」


 ゼノンもまた、簡潔に返した。その声に、ユリウスは微かな硬さを感じ取る。


「そちらの報告書ですが……少々体裁が整っておりません。この程度の書類も完璧に仕上げられぬようでは、騎士としての職務にも支障をきたすのではございませんか?」


 内心では「昔のように話したい」「もっと近づきたい」と願っているというのに。口から出るのはいつも余計なことばかりだった。ゼノンの眉間に微かな皺が寄るのが見える。なぜこうも不器用なのだろう。


「申し訳ない。以後、気をつける」


 素直な返答なのに、どこか突き放されたような響き。ユリウスは胸が痛む。ゼノンは一礼すると、そのまま踵を返して去っていく。


(ああ……また嫌味を浴びせてしまった。もう、完全に嫌われてしまっただろう)


 俯いたユリウスの隣を通り過ぎていく貴族たちが、ひそひそと囁く。


「ユリウス様、またゼノン様を睨んでおられたな」


「いや、あれは睨んでいるのではないぞ。目で追っておられるのだ。まるで……好いているかのように」


「まさか! あの氷の貴公子が……」


 周囲の視線も、言葉も、ユリウスの耳には届かない。ただ、去っていくゼノンの背中を、悲しいほどに熱い視線で追い続けていた。


 彼は気づいていない。自分の恋心が、周囲にはとっくにバレていることに。

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