第8話 もう二度と、一人にしない―
雨が上がった翌朝。
寮の部屋には、まだ重たい空気が残っていた。
アネモネは櫻の方を見ないまま、
制服のボタンを留めている。
「ねぇ、アネモネさん」
「……なに」
「怒ってる?」
「怒ってない。
ただ……考えてるだけ」
「何を?」
「……もし、櫻がいなくなったらって」
「そんなこと――」
「あり得るでしょ」
静かに、しかし鋭い声。
彼女の瞳には薄く恐怖が滲んでいた。
授業後。
櫻は思い切って提案した。
「ちょっと散歩しない?
ゆっくり話したい」
アネモネは少し迷ったあと――
小さく頷いた。
二人は夕暮れ色の坂道を並んで歩く。
人目もなく、風の音だけが耳を撫でる。
「ねぇ櫻」
「うん」
「……笑わないでね」
「笑わないよ。絶対に」
「わたし、前の学校で嫌われてた」
アネモネの声が震えた。
「“アネモネ”って名前、
からかわれたの」
『毒の花』『呪いの名前』
『気取ってる』『偉そう』
「髪の色も、目の色も、
全部“普通じゃない”って」
「普通じゃないことって…
そんなに悪いのかな」
櫻の心臓がきゅっと縮む。
「何をしても嘲笑われた。
少しでも胸を張ったら
“生意気”って」
「だから私は、先に突き放した。
また傷つくのが怖いから」
風が止まった。
世界が二人だけになった気がした。
「……ごめん。
聞いてほしかったの」
「言ってくれてありがとう」
櫻はアネモネの手を握り、
そっと引き寄せた。
「アネモネさんの名前、好きだよ」
「……櫻」
「アネモネの花言葉、知ってる?」
「知らない」
櫻は、胸に刻んでいた言葉を紡ぐ。
「『あなたを愛します』」
「『君の面影』」
「『希望』」
アネモネは目を見開いた。
「そんな……綺麗な意味が……?」
「うん。
アネモネさんのこと、そのまま。」
「櫻……泣かせる気?」
「泣いていいよ」
「……やだ。
櫻に見られたくない」
「じゃあ、隠してあげる」
櫻はアネモネを抱きしめ、
肩にそっと顔を埋めさせた。
「ここにいて。
俺だけのところに」
「“俺”って」
「……言い間違えた」
「……可愛い」
小さく笑い合う。
でも涙は止まらない。
「アネモネさんは、普通じゃない」
「……やっぱり?」
「世界一特別だよ」
「っ……ずるい」
櫻の胸元を掴んだ手が震えている。
「櫻、お願い」
「なに?」
「絶対、どこにも行かないって言って」
「うん。行かない」
「何があっても?」
「何があっても」
「私を捨てない?」
「捨てないよ」
「むしろ私が、アネモネさんに捨てられたくない」
「捨てない。
だって……櫻しかいないから」
抱擁が、強くなる。
曲がった傷跡に触れられたとき、
はじめて救われる痛みがある。
その痛みを共有できるのは、
ただ一人。
二人の影は夕陽に溶け、
境界をなくしていった。
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