第八話:本能寺の火種は、五歳児が蒔きました。
今、私が織田軍の軍議に参加しようとしている理由は、浅井を取り返すため。
土地を返せって泣いても、返ってこない。
人間はお願いされても動かない。得だと思ったときだけ動く。
だから私は、織田に"得"を置きに来た。
浅井茶々、五歳。
本日、発言権を買いに来ました。
──とはいえ。
軍議って、普通は、五歳が来る場所じゃない。
座敷の襖の向こうで、家臣がどんどん集まってくる音がする。
鎧がこすれる音、刀の鞘が当たる音、そして何より「空気が重くなる音」。
うわ。これ、マジのやつだ。
私は膝の上で手をきゅっと握った。
横では江が、昨日もらったお菓子をもぐもぐ食べてる。
(あれ、昨日は「お菓子食べなさい」って言っても食べなかったのに)
("お菓子あるよ〜"って置いといたら、勝手に食べ始めた……)
人間って、変。
そこへ、襖がガラッと開いて──
「三姉妹! なぜここにいる! 軍議ぞ! 即刻去ね!」
信長が来た。
いつもの、ズッコケる信長じゃない。
声が低い。目が笑ってない。背中の毛が逆立つ感じがする。
(あ、これが"怖い方"の信長……)
初が、私の後ろで小さく息を吸った。
江は、意味わからんほどニコニコしている。こわい。
「帰らない」私は言った。
「帰れ」
「帰らない」
「帰れ!!」
信長の声が一段落ちる。
「茶々。これは遊びじゃない。今日の議題は"長島"だ」
(長島。出た。)
*
長島は、川と泥。
人も馬も、沈む。
そこに強い坊主がいっぱいいる。反則。
で、織田がやりたいのは海から回って包む作戦。
陸は沈むから。理屈は五歳でも分かる。
……のに。
「地元の会合衆(えごうしゅう)が首を縦に振らん」
信長が吐き捨てるように言った。
会合衆。地元の有力者。自治組織。
武将の首は落とせても、地元の首は縦に曲がらない。
(戦国って、武だけじゃなく"根回し"が一番強いのでは?)
*
「だから、私が来た」
「は?」
信長が目を細める。
「浅井を取り返すのに、私は"織田が困ってる問題"を解く必要がある」
「泣いても無理。脅しても無理。お願いは、きかない」
「得だと思わせないと、人は動かない」
座敷が、静かになった。
家臣たちが入ってくる。
勝家が咳払いをした。
そして──男が現れた。
背筋は一直線。鎧は塵一つない。
前髪は角度ゼロで完璧。
明智光秀。
(真面目の化身だ……天地がひっくり返っても、私と合わないタイプ)
その光秀が口を開いた。
「姫様。軍議は、幼子の席ではありません」
正論。まっすぐ。刺さる。
でも私は五歳なので、刺さっても引き抜かない。
「じゃあ質問」私は言った。
「会合衆って、"お願い"されたら動く?」
「動きません」
「でしょ」
私は頷いた。
「じゃあ、損じゃない形にする」
「どうするんだ」
信長が言う。
私は指を一本立てた。
「ねえ、みんなさ」
全員の目がこっちを向く。
向いたまま、誰も笑わない。
軍議の目だ。
「"お願い"してるけど、全然聞いてくれないんでしょ?」
信長が眉を寄せる。
「……ああ」
「じゃあさ、お願いやめたら?」
座敷が一ミリだけ冷える。
「……は?」
光秀が低い声を出す。
「だってさ」
私は首をかしげる。
「"お願い"されると、やりたくなくなるじゃん」
「"やって"って言われると、"やだ"って言いたくなるじゃん」
家臣の誰かが、ごくりと唾を飲んだ。
「だから……」
私は言葉を探す。
「お願いじゃなくて……えっと……」
「向こうが"やりたい"って思う形にする?」
沈黙。
信長が低い声で言う。
「……どういうことだ」
「えっとね」
私は膝の上で手をもじもじさせる。
「江、今お菓子食べてるでしょ」
「この子ね、“食べなさい”って言うと食べないの」
「でも、置いとくと勝手に食べるの」
「……会合衆も、たぶんそれ」
──瞬間。
座敷が、止まった。
家臣たちが固まる。
信長が固まる。
光秀が固まる。
そして──
「「「あぁぁぁぁぁぁ!!!!」」」
全員が頭を抱えた。
「そういうことかァァァ!!!」
勝家が叫ぶ。
「……我々は……!!」
光秀が膝を叩く。
「会合衆を動かすために……!!」
「“お願いの文章”を三百十七種類……!!」
「“頭を下げる速度”を四段階……!!」
「“視線の角度”を七段階……!!」
「角度!?」
私は聞き返した。
「はい……!!」
家臣が泣く。
「主には土下座の角度を……微調整しておりました……!!」
「やめろ!!言うな!!」
信長が叫ぶ。
(え……マジで……?)
(この人たち……戦国武将だよね……?)
初が、影みたいな声で言う。
「……大人は……難しく言うほど……賢くなった気がする……」
「……だが実際は……何も進んでいない……」
「初ォォォ!!まとめが刺さるゥゥゥ!!」
信長が崩れ落ちる。
江がにこにこしながら、ボソッと言った。
「のぶおじ〜“花”持たせたれ〜 ほな向こうから“手ぇ貸す”言うでぇ〜」
「おい!!一歳が“貸し借り”の話するな!! この城のどこに何がある!!」
信長が叫ぶ。
私は咳払いした。
「とにかく、私が言いたいのは……"お願い"じゃなくて……
えっと……向こうが選ぶ形?こっちの味方して、って言うんじゃなくて、
『あっちの道は泥だらけだけど、こっちの道はピカピカ。どっち通る?』って聞くの」
光秀がゆっくり言う。
「……つまり、姫様は」
「会合衆に"選択の余地"を与えよ、と」
「うん! そう!」
私は嬉しそうに続ける。
「江のお菓子みたいに」
「"やって"じゃなくて、"あるよ"」
「そしたら向こうが勝手に選ぶ」
信長がふっと息を吐いた。
笑いではない。計算の呼吸だ。
「……江のお菓子、か」
信長が呟く。
「……言い方は子供だが、本質は鋭い」
(なに急にカッコつけてんの?この、うつけ)
空気が動いた。
家臣たちがざわつく。
「殿……?」
「姫様の意見を……?」
信長が手を上げて、静かにさせる。
「茶々。お前、浅井復興のために、織田に得を置きに来たと言ったな」
「うん」
信長の声が低いまま、静かに落ちる。
「なら、最後まで見ろ。戦は"結果"がすべてだ」
(ひっ)
一瞬で足が冷える。
これだ。これが信長の怖さ。
ふざけてるようで、平気で人の未来を踏み潰す目。
私は気を逸らしたくて、光秀をまじまじ見た。
そして、純粋に思ったことが口から出た。
「光秀の髪、キンカンみたいで綺麗だね」
悪気はゼロ。
ビタミンもゼロ。
──瞬間。
座敷が凍った。
風が止まる。鳥が黙る。家臣の瞬きが止まる。
光秀のこめかみに血管が浮く。
目が笑ってない。世界で一番まっすぐな"無"だ。
「姫様……それは……」
光秀の声が、一オクターブ下がる。
「私の……頭を、果物に……例えられたということで……
よろしいでしょうか……?」
初が、影みたいな声で言った。
「……禁忌の果実……キンカン……」
「果実は合ってるが黙れ!!」
信長が怒鳴った。
江が光秀の前髪を指さして、真顔で言う。
「つやつや〜」
「そこは言うな!!」
信長が叫ぶ。
私は慌ててフォローしようとして、さらに踏む。
「冬に輝くよね、キンカン」
「踏み抜くなァァァ!!」
信長が泣いた。
「え!? なんで!?綺麗って意味で!」
*
そのとき。
──天井が鳴った。
ミシ、と。
全員が天井を見上げる。
次の瞬間──影が落ちた。
スタッ。
音もなく着地。
え? 忍者?
いや、この気配──
お市。
──母上だった。
(監視網どうした!? この城、穴だらけ!?)
母上は普通の声で言った。
「兄上ぇ……見ぃつけたぁ。 あら、織田家家臣の皆さんお久しぶり」
みんな一斉に油断した。
"普通に喋ってる市"は、幻のレア演出だから。
信長も一瞬だけ肩の力が抜けた。
母上が、さりげなく近づく。近づく。近づく。
そして──
信長の首に、木刀を突きつけた。
「っ!?」
人質。
一瞬で、人質。
母上、笑ってる。
「ねえ兄上。木刀でも首切れると思う?」
「普通は無理ですが、お市さんなら出来ると思います……!!!」
信長が青ざめる。
家臣たちが凍る。
「お市様……!」
「殿……!」
「止めろ、しかし止めたら噛まれる……」
母上が、目を見開いた。
「じゃあ試そうよォォォォォォォォォ!!」
狂気が"音"になる。
私は背中が冷たくなった。
(終わった。今日、軍議どころじゃない。首が飛ぶ。)
光秀が一歩出る。
「お市様。おやめください。これは──」
母上が即答する。
「あら?光秀久しぶり。どうしたの?
しばらく見ないうちにキンカンみたいになっちゃって?」
「……お市様。久しぶりの再会でございますが、
私の頭部は柑橘類ではありません。
……決して。断じて。」
光秀が初めて声を荒げた。その手はギリギリと扇子を握りしめている。
そこで、江がぽてぽて前に出た。
江は、母上を見上げて言った。
世界一どうでもいい声で。
「まま〜きょうの、ごはん、なに?」
母上が固まった。
「……え」
江は続ける。真顔で。
「おにく?」
「おさかな?」
「それとも……たまご?」
母上の目が、すっと正気に寄った。
信長の首の木刀が、ふっと緩む。
「……晩ご飯……」
信長が、ずるっと木刀から抜けた。
「た、助かった……!」
母上は、急に恥ずかしそうな顔をして、髪を直す。
「……そうね……今日は……」
「……鶏の料理をお願いしようかしら」
そして、何もなかったみたいに立ち去ろうとする。
くるっ。
母上が江を見て、にっこり笑う。
「江、鶏さん楽しみにしててね」
「うん〜とりさん〜」
母上は涼しい顔で去っていった。
天井の方へ、すっと。
シュン!!
(帰り方も天井なんだ……母上……江にだけ優しい……)
座敷に残ったのは、崩れた軍議と、汗だくの家臣と、首に木刀の跡が残る信長。
沈黙。
光秀が、ゆっくり私を見る。
目が、まだ死んでる。キンカンのせいで。
「……姫様」
「なに」
「以後、果物で人を例えるのは……控えていただけますか」
「ごめん」
信長が咳払いして、声を戻した。
怖い方の信長に、戻ったまま。
「よいか。軍議に戻る」
家臣たちが、青い顔で頷く。
信長が座り直して、私を見た。
「茶々。お前の意見、粗いが……筋は通っておる」
「うん」
「俺が肉付けする。結果が出たら、認めてやる」
私は頷いた。
(認めてもらえる……かもしれない)
私は思った。
(戦国って、怖い)
(でも、怖いだけじゃない。織田軍はバカ)
(根回しって、ほんとに強い)
(そしてキンカンは、たぶん禁忌)
初が、ぽそっと言った。
「……禁忌の果実……人の心を焼く……」
「初、黙れ」
江がにこっと笑う。
「きょう、とりにく!」
「一歳って、お肉噛めるっけ?」
(今日の勝者、江。全員の命を救って、晩ご飯を確定させた一歳。)
私は襟を正した。
(浅井復興のために、私は"得"を置きに来た)
(この城で、発言権を買う)
(まずは──生き延びる)
そして私は、光秀の前髪を二度とキンカンと呼ばないことを、心に誓った。
……たぶん。
そして──この日から、軍議の端に“子どもの席”が増えた。
あと、天井の見張りも増えた。
*
その舌が、ふいに呟いた言葉が。
歴史のどこかで、火種として転がり続けることになる。
「……キンカン」
本能寺は、まだ遠い。
でも火は、遠くからでも起こる。
(浅井は、もう「外」じゃない。)
(つづく)
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