第9話 魔素の教室

昼休みは、ほとんど「休み」とは呼べないものだった。


檻に戻されてから配られた昼食は、朝とほとんど同じ灰色のゼリーと透明な液体。違うのは、ゼリーの上にわずかに茶色いソースのようなものがかかっていることくらいだ。


「お、今日は“味付き”だ」


向かいの檻で、023がスプーンを突き立てながら言った。


「やったね、豪華2日目コース」


「たいして変わらん」


017が、スプーンを動かしながらぼそりと返す。


零(れい)は、マットレスの上にトレーを置き、ゼリーをじっと見つめた。


――走って、殴られて、脅されて、そのあとがこれか。


疲れすぎて、食欲なんてほとんどなかった。だが、今朝017が言った言葉が頭に残っている。


『食うべき時に食えるやつは、そう簡単には死なねえ』


「……いただきます」


小さく呟いてから、ゼリーをひと口運ぶ。


朝より、ほんの少しだけマシな味がした。ソースに、薄い塩気がある。だが、それでも「美味い」とはとても言えない。


(母さんのカレー、食いたいな)


ふと、そんな考えが浮かんで、慌てて追い払った。


考えれば考えるほど、ここでの食事が余計に苦しくなる。


「そのうち慣れるよ」


023が、ガラス越しに笑ってみせた。


「ていうか、慣れないと“腹だけ”が反抗する」


「腹が反抗すると、首輪が怒る」


017が、つまらなさそうに付け足す。


「嘔吐や拒食が長引くと、“摂食補助”って名目で管を突っ込まれるからな」


「……聞かなきゃよかった」


零は、スプーンを口から離した。


想像してしまった。


口からか鼻からか知らないが、管を押し込まれて、無理やり栄養を送り込まれる自分の姿を。


(そんなの、絶対ごめんだ)


そう思うと、まずいゼリーも少しはマシに思えてくる。


ゼリーをかき込み、水で流し込む。


胃の奥が、じんわりと温かくなった。


身体は、正直だ。


どれだけ心が嫌がっても、細胞は栄養を欲しがっている。


「Aブロック、昼食時間終了まであと5分です」


天井のスピーカーが告げる。


「その後、午後プログラム“座学・魔素適応講義”を開始します」


「ほらね」


023が、空になった皿を振ってみせる。


「言ったでしょ。体育のあとは、ちゃんと“授業”があるんだよ」


「座学って、何やるんだ」


零が問うと、017は少しだけ眉をひそめた。


「“人類の歴史”とか、“魔界出現の経緯”とか、“お前たちは選ばれた希望です”とか、その手の話だ」


「プロパガンダ祭り」


023が肩をすくめる。


「でも、聞いといて損はないよ。たまに“本当のこと”も混じってるから」


「本当のこと?」


「嘘をつき続けるには、少しだけ真実を混ぜた方が楽なんだとさ」


023は、どこか達観した口調で言った。


零は、トレーをガラス下部のスリットに戻しながら、胸の奥に小さなざらつきを感じていた。


――ここで、何を教えようとしてくるのか。


そして、それに自分がどう反応するのか。


自分でも、少し気になっていた。



「被験者は整列しろ」


黒服たちが檻の前に並び、順番にロックを解除していく。


昼と同じように、首輪の簡易リードがつながれ、数人ずつ列を作らされる。


「まるで犬の散歩だな」


023が、ぼそりと呟いた。


「犬の方が、まだマシなもん食ってるかもな」


017が返す。


零は、自分の首から伸びた細いケーブルを見下ろした。


それは、透明な繊維でできている。外見上は頼りなく見えるが、引っ張ると首輪が内部から締め付ける構造なのだろう。


「行くぞ、001」


後ろについた黒服が、短く声をかける。


零は、列に従って歩き出した。


通路を曲がり、別のエレベーターに乗る。今度は、訓練場とは逆方向だ。


数字が変わる。


B9。B8。B7。


到着音とともに、ドアが開く。


そこに広がっていたのは――学校の教室を、極端に無機質にしたような空間だった。



長方形の部屋に、机が5列×5行で25台。天井からはプロジェクターらしき装置が吊り下がり、前方の壁一面が巨大なスクリーンになっている。


だが、机と椅子は床にしっかりと固定されていた。逃げ出せないように。


そして机には、一つ一つに金属製の環と細いケーブルが取り付けられている。


「お行儀よく、“お勉強”だ」


023が、皮肉っぽく笑った。


「被験者は、番号順に着席」


白衣の職員が、端末を見ながら指示を出す。


「001から025までが第1教室だ。残りは別フロアに振り分ける」


「……うわ、クラス分け」


023が、わざとらしく肩を落とした。


「でも、同じ教室でよかったじゃん、アタシたち」


「喜ぶほどのことでもない」


017が、淡々と返す。


零、017、023は、前から2列目・中央付近の席にそれぞれ案内された。


席に座ると、すぐに机の上の金属環が首輪の側面に接続される。カチリ、と小さな音。


首輪の内側が、ひやりと冷たくなった。


(また、何かされるのか)


零は、無意識に身体をこわばらせた。


「安心しろ」


隣の席に座らされた017が、小声で言う。


「ここでは、そう簡単には“痛み”は来ない」


「“そう簡単には”、ね」


「代わりに、“頭”を弄られる」


017の言葉の意味を、零はすぐには理解できなかった。


「これより、“人類継続プログラム・基礎講義1”を開始します」


天井のスピーカーから声が流れる。


同時に、前方の巨大スクリーンがふっと明るくなった。


世界地図が映し出される。


赤く染まった部分と、まだ青い部分。


『2015年、“審判の日”』


穏やかな女性のナレーションが始まった。


『この日、世界中に同時多発的に“魔界ゲート”が出現しました』


映像が切り替わる。


ニュース映像の編集版のような、避難する人々の姿。空に口を開けた巨大な黒い穴。そこから溢れ出す、黒い霧と、異形の影。


『従来の兵器は、魔物の完全な駆逐には向いていませんでした。軍は壊滅し、多くの都市が陥落しました』


数字が並ぶ。


犠牲者数。浸食率。


『そんな中、魔界から漏れ出した“魔素”によって、一部の人間が“覚醒”しました』


映像には、派手なエフェクトとともに魔物を倒すハンターたちの姿が、ヒーロードラマのように映し出される。


『彼らは“ハンター”と呼ばれ、人類の希望となりました』


零は、スクリーンを見つめながら、奇妙な違和感を覚えていた。


――どこかで、見たことのある映像だ。


ニュース。ドキュメンタリー。授業。


「外の学校でも、こういうの見せられた?」


017が、視線を前に向けたまま小声で聞いてくる。


「……似たようなのは」


「だろうな」


017は肩をすくめる。


『しかし、ハンターだけでは足りませんでした』


ナレーションが続く。


『魔界は進化し続けます。魔物は強くなり、賢くなりました。ゲートは増え続け、人類の居住可能領域は減り続けています』


地図の赤い部分が、じわじわと広がっていくアニメーション。


『このままでは、人類は滅びます』


言葉は淡々としていたが、その内容はあまりに重い。


『そこで、世界各国は考えました』


映像に、スーツを着た各国首脳たちの写真が映る。顔は一部モザイク処理されている。


『“最強の1を作る”』


ナレーションのトーンが、わずかに力を帯びる。


『1,000人の子どもから、1人の“最強”を生み出す計画』


零は、拳を握りしめた。


――プロジェクト0。


言葉にしなくても、映像がそれを示している。


『あなたたちは、“選ばれた存在”です』


スクリーンには、笑顔の子どもたちと、それを見つめる大人たちの写真が並ぶ。おそらく、どこかの避難所か学校か。


『魔物に食い殺されるためではなく、魔物を殺すために生まれた、特別な子どもたち』


「……ふざけんな」


誰かが、小さく吐き捨てた。


講義の声は、それを無視して続く。


『あなたたちの苦しみには、意味があります』


『あなたたちの痛みは、無駄ではありません』


『あなたたちがここで流す血と汗が、外の世界で生きる何億もの命を救うのです』


零は、唇を噛んだ。


――本当に、そうか?


自分の父と母と妹が、今どこでどうなっているのかもわからないのに。


自分の知っている「世界」は、あの狭いマンションの一室と、通学路と、学校と、保育園だけだった。


その小さな世界は、今――粉々に壊された。


『誇りを持ってください』


ナレーションが柔らかく言う。


『あなたたちは、人類の“礎”なのですから』


その瞬間、首輪の内側が、わずかに熱を帯びた。


心のどこかで沸き上がった怒りや反発が、まるで首輪に拾われたかのように。


(……やっぱり)


017が、小さく吐息を漏らした。


「何か“感じた”か?」


「……少し」


零は、眉をひそめる。


「ムカついた瞬間、首が熱くなった」


「それが、“第二層”の始まりだ」


017の声が、低くなる。


「第二層?」


「“絶望の囁き”って、説明にあっただろ」


017は、スクリーンを見つめたまま続ける。


「首輪は、身体だけじゃなく、感情にも干渉してくる」


「感情に……?」


「怒りすぎれば、抑えに来る。諦めそうになれば、逆に変な高揚感を流し込んでくる時もある」


017の目が、スクリーンに映るハンターたちの姿に重なる。


「ここに居続けると、“何に怒って、何に泣けばいいのか”わからなくなる」


零は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。


自分の心が、自分のものではなくなる。


それは、身体を操られること以上に、恐ろしい。


(守りたい、って気持ちまで、弄られるのかよ)


雪菜を想う心。父と母への感情。


それだけは、絶対に触れられたくなかった。


講義は、その後も続いた。


魔素の性質。


魔物の階級。


ハンターのランク。


そして、「プロジェクト0」の概要――もちろん、表向きの綺麗な言葉で。


『人間の可能性を極限まで引き出す実験』


『高位魔族の力を取り込んだ、新しい人類の進化』


『あなたたちは、その最前線にいるのです』


どの言葉にも、「死」や「殺し合い」といった直接的な表現は出てこない。


代わりに、「選別」「適性」「進化」といった、どこかぼかした単語が多用される。


(言い換えただけだろ)


零は、心の中で吐き捨てた。


――1,000人のうち、1人しか残らない。


それは、結果として、999人が「捨てられる」ことと同義だ。


そこに、どんな意味を付けようが。


どれほど綺麗な言葉を並べようが。


「お前は、ここで死ね」


そう言っていることに変わりはない。


「講義は以上です」


いつの間にか、ナレーションが終わり、別の生身の声がマイクを通して響いていた。


前方の扉の横に、白衣の男が一人、立っている。


天城(あまぎ)だった。


「質問がある者は――」


と言いかけたところで、数人の腕が同時に上がった。


零も、思わず手を上げそうになって、首輪の重みを思い出す。


――下手なことを言えば、またあの痛みが来る。


天城は、ちらりと天井を見上げてから、ため息をついた。


「今日は初日だからな。特別に、2つだけ質問を受け付けよう」


教室の空気が、少しざわつく。


真っ先に手を上げたのは、前の方の列に座っていた少年だった。


髪を短く刈り込み、痩せぎすの身体。瞳だけがギラギラと光っている。


「はい、そこの……022」


天城が指名する。


「俺たちが“最強”になったら、本当に魔界を全部ぶっ潰せるんですか」


少年――022の声には、恐怖よりも期待の色が強かった。


「そうだな」


天城は、少しだけ考えるふりをしてから答えた。


「“最強”がどこまで行けるかは、誰にもわからない。だが、少なくとも、今のハンターたちが届かない場所までは、届く可能性がある」


「なら……」


022は、拳を握りしめた。


「やってやりますよ、俺」


零は、その横顔を見つめた。


――そうか。こいつは、「それ」を本気で目指すつもりなんだ。


家族のためか。


自分のためか。


それとも、ただ「強くなりたい」からか。


理由はわからない。


だが、少なくとも、零とは違う方向に目を向けていることだけは、はっきりしていた。


「次」


天城が、教室を見回す。


今度は、少し後ろの席から手が上がった。


「はい、015」


指名されたのは、小柄な少女だった。顔色が悪く、手も小刻みに震えている。


「……わたしたちが、もし全部“失敗”したら」


彼女は、かすれた声で尋ねた。


「人類は、本当に終わっちゃうんですか」


教室の空気が、一瞬固まった。


天城は、その視線を正面から受け止めた。


「……可能性は、高い」


彼は、あくまで淡々と答える。


「プロジェクト0は、“最後の切り札”だ。これが失敗すれば、その先に打てる手はほとんどない」


「……そっか」


少女の肩が、わずかに震えた。


天城は、そこで言葉を切らずに続ける。


「だが」


その声に、ほんの少しだけ熱がこもる。


「“終わるかもしれない未来”を指をくわえて待つくらいなら、“終わらせないための未来”に賭けた方がいいと、俺は思っている」


零は、その言葉に、わずかに眉をひそめた。


――誰のための「賭け」だ。


ここに縛られた子どもたちのためか。


外で何も知らずに暮らしている誰かのためか。


それとも、自分の研究とキャリアのためか。


天城の本心は、零にはわからない。


ただ一つ、確かなのは。


「俺たちには、“降りる”選択肢がない」


ということだけだ。



座学が終わると、今度は「魔素適応プログラム」とやらに移された。


「適応室に入る前に、注意事項を伝える」


廊下で、白衣の職員が機械的に説明する。


「中では、魔素濃度が通常より数倍高く設定されている。呼吸が苦しくなったり、頭痛や吐き気が出たりする場合があるが、原則として外には出さない」


「原則として、って……」


023が、眉をしかめる。


「だからと言って、わざと暴れたり、苦しんでいるふりをしたりすれば――」


職員は、首輪の方をちらりと見る。


それだけで十分だった。


「時間は1回10分。初日は、それを2セット行う」


017が、小さく息を吐いた。


「また“あれ”か」


「“あれ”って、どんな感じなんだ」


零が尋ねると、017は少しだけ考えてから答えた。


「水の中に、ゆっくり沈められていく感じだ」


「水……?」


「苦しくて、重くて、でも、“どこか気持ちいい”ような感覚が、混ざる」


017の言葉に、零は背筋を強張らせた。


「気持ちいい、って……」


「それが、厄介なんだよ」


017は、首輪に触れないように拳を握る。


「“溺れかけてるのに、息を吸いたくなる”みたいなもんだ」


そんな感覚、想像したくもない。


だが、想像してしまった。


深い水の中で、肺が空気を求めて苦しんでいるのに、頭のどこかでは「このまま沈みたい」と思ってしまう自分。


(……気持ち悪い)


零は、喉を鳴らした。


「被験者001、017、023。3名1組で第2適応室へ」


職員が端末を見ながら告げる。


「順番に入室だ。1セット目終了後、10分休憩を挟んで2セット目」


「はいはい」


023が、わざとだるそうな返事をする。


鉄の扉が開く。


中から、かすかに湿った空気が流れ出てきた。



適応室の中は、小さな無人プールのようだった。


といっても、水はない。


床と壁と天井がすべて白く、中央に丸い目印が描かれているだけの、何もない部屋。


「中央に立て」


職員に促され、零たちはそれぞれマークの上に立った。


天井から、かすかに霧のようなものが降り注いでいるのが見えた。


目には見えないが、空気が微かに揺らいでいるのがわかる。


「魔素濃度上昇開始」


天井のスピーカーが告げる。


同時に、首輪の内側が、ひやりと冷たくなった。


「……っ」


零は、思わず息を短く吸い込んだ。


空気が、重い。


肺に入ってくるのは、酸素だけではない。


あの、地下通路で感じたざらついた感覚が、何倍にもなって押し寄せてくる。


頭の奥が、じんじんと痺れる。


耳鳴り。


皮膚の上を、細かい針でなぞられているような感覚。


(これが、“濃い魔素”……)


視界の端で、017が目を閉じて呼吸を整えているのが見えた。


023は、少し苦しそうに胸を押さえている。


「深呼吸しろ」


スピーカーの声が飛ぶ。


「浅い呼吸は、かえって苦しみを増す」


零は、言われた通り、できるだけゆっくりと息を吸い、吐いた。


吸うたびに、胸の奥に重しが乗せられていくような感覚。


吐くたびに、その重しがわずかに軽くなる――が、すぐにまた乗せられる。


繰り返し。


「……」


頭の中に、何かが流れ込んできた。


映像の断片。


燃える街。


黒い空。


笑っている誰かの顔。


泣いている誰かの声。


(これは――)


自分の記憶ではない。


だが、どこかで見たことがあるような光景。


――炎。


――悲鳴。


――血。


胸の奥が、熱くなる。


肺が苦しいはずなのに、どこかで甘い陶酔感のようなものがじわじわと広がっていく。


(やばい)


017の言葉が、頭の中で反芻される。


『溺れかけてるのに、息を吸いたくなる』


まさに、その感覚だった。


苦しい。


苦しいはずなのに、もう一度、深く吸い込みたくなる。


もっと、この重さを感じたくなる。


「……っ、あ、あぁ……!」


零の足元が、ぐらりと揺れた。


床は、動いていない。


揺れているのは、自分の身体だけだ。


首輪の内側で、何かがうごめく。


――混ざれ。


誰かの声。


あの、血液投与の時に聞こえたのと同じ、男とも女ともつかない、低い声。


――もっと、入れろ。


――もっと、飲み込め。


「やめろ……!」


零は、頭を振った。


声に出したのか、心の中だけだったのか、自分でもわからない。


だが、その瞬間、首輪が強く反応した。


「っ――!」


激痛。


さっきまでの甘い熱が、一瞬で冷水を浴びせられたように引き、代わりに鋭い針のような痛みが頭蓋の内側を走った。


「被験者001、脳波異常一時的上昇。隷属の環、第2層制御信号送出」


どこかで、そんな機械音声が流れた気がする。


痛い。


でも、その痛みが、さっきまでの「気持ちよさ」を一気に吹き飛ばしてくれた。


(……危ねえ)


零は、額に滲んだ汗を拭った。


自分が、ほんの少しの間、「そっち」に足を踏み入れかけていたことを、自覚してしまった。


――自分の身体の中にいる“何か”に、飲み込まれかけていた。


「001、呼吸を整えろ」


スピーカーの声が、淡々と指示を出す。


「この段階で意識を飛ばすな」


「……っ、はぁ……はぁ……」


零は、なんとか呼吸を整えた。


隣を見ると、017は額に汗を浮かべながらも、表情だけは意外なほど冷静だった。


023は、膝を震わせながらも、まだ立っている。


「……大丈夫か」


零が問うと、023は弱々しく笑った。


「へーき……これでも、ちょっとは慣れてきたし……」


「慣れたくねえ」


零は、心の底からそう思った。


「適応時間、残り1分」


スピーカーが告げる。


1分が、永遠のように長く感じられた。



「よし、そこまで」


魔素濃度がゆっくりと下がっていく。


空気が、少しずつ軽くなる。


肺に入ってくるのが、ただの空気に戻っていく感覚。


それだけで、世界が少しだけ色を取り戻した気がした。


「初回としては、悪くない」


適応室の外で、データを見ていた天城が呟く。


「被験者001、魔素侵襲時の脳波パターンに、一時的な“共鳴波”を確認」


「共鳴?」


隣にいた若い研究員が、画面を覗き込む。


「煉獄公の血液の反応と、被験者自身の神経活動が、一瞬だけ同期した」


天城は、グラフを指さす。


「だが、すぐに首輪の第2層が介入して、波を押さえ込んでいる」


「危険では?」


「今のところは、許容範囲だ」


天城は、腕を組んだ。


「むしろ、こういう“揺らぎ”がある方が、後々の進化の余地が大きい」


「なるほど」


研究員は、感心したように頷く。


天城は、モニター越しに、適応室の中で肩で息をする零の姿を見つめた。


(……お前は、どこまで行ける)


彼自身にも、答えはわからない。


ただ一つ、確かなのは。


――この少年だけが、“何か”を起こす可能性を持っている。


ということだ。


それが、人類にとっての希望になるのか。


それとも、取り返しのつかない災厄になるのか。


まだ、この時点では、誰にもわからなかった。



2セット目の適応を終えた頃には、零の身体も心も、完全にすり減っていた。


脚は鉛のように重く、頭はぼんやりとしている。


「……気持ち悪い」


023が、壁にもたれながら呻いた。


「これ、毎日やんの? マジで?」


「慣れるって言うと、また怒るか」


017が、少しだけ笑う。


「でも、実際そうなんだよな。人間って、どんな地獄にも慣れる」


「慣れたくないものまで、慣れちゃうからタチ悪いんだって」


023が、ふてくされたように言う。


零は、首輪の辺りを押さえながら、ゆっくりと歩いた。


(慣れたくない)


魔素の重さにも。


首輪の支配にも。


この施設の「当たり前」にも。


慣れてしまえば、それは自分の一部になってしまう。


(でも――)


生き残るためには、ある程度の「慣れ」は必要なのも、わかってしまっていた。


怖いものを、怖いまま。


苦しいものを、苦しいまま。


それでも、動けるようにならなければならない。


そうしなければ、この場所では一瞬で淘汰される。


「Aブロック被験者は、居住区に戻れ」


スピーカーの声が、帰路を促す。


零たちは、再び首輪につながれ、エレベーターへと向かった。


途中で、別のブロックの子どもたちとすれ違う。


彼らの首輪の色が、わずかに違うことに気づいた。


自分たちのは、真っ黒。


だが、すれ違った子どもたちの首輪には、縁に薄い青いラインが入っている。


「Bブロックか」


017が、小さく呟く。


「最初の選別で上に上がった連中だ」


「上に行くと、何か違うのか」


零が問うと、017は少しだけ口の端を歪めた。


「飯が少しマシになる。訓練の内容も“濃く”なる」


「良いんだか悪いんだか……」


023が、苦笑する。


青いラインの首輪の子どもたちの中に、見覚えのある顔があった。


昨日、通路ですれ違った時に、こちらを睨みつけていた少年だ。


頬に古い傷のある、その少年もまた、零たちに気づき、一瞬だけ目を細めた。


何か言いかけて――やめる。


代わりに、ただ無言で通り過ぎた。


「アイツも、そのうち“敵”になる」


017が、囁く。


「“そのうち”って?」


「最初の“本当の試験”が来たら、わかる」


零は、喉を鳴らした。


――まだ、始まっていない。


今までの訓練や適応は、すべて「準備」に過ぎない。


この施設の名にふさわしい、本当の「蟲毒」は、まだ壺の中で静かにうごめいているだけだ。


やがて、それが蓋を突き破って、牙をむく日が来る。


その時、自分は――


「……生き残る」


零は、誰にも聞こえないような声で呟いた。


雪菜のために。


父と母のために。


そして、何より、自分のために。


番号で呼ばれるだけの「被験者」ではなく、「零」として、この場所から出るために。


その決意だけが、首輪の重さと魔素のざらつきの中で、彼の心をかろうじて支えていた。

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