第7話 地獄のオリエンテーション
次に目を覚ましたとき、天井は昨日と同じ、何の表情もない白さでそこにあった。
けれど、身体の中だけが、昨日の自分とは違っている。
(……暑い)
額には汗。喉はからからに乾いているのに、胃の奥だけがじわじわと熱を放っている。
昨夜、無理やり飲み込んだ魔物の肉。
それが、まだ体内で何かを燃やし続けているような感覚だった。
普通なら「気持ち悪い」で終わるはずだ。
だが、不思議と――
(体が、軽い……?)
ベッドから体を起こしてみて、零は自分でも驚いた。
筋肉は確かにだるい。重い。けれど、その奥に変な「張り」がある。
拳を握ると、指先にこもる力が、昨日までとは明らかに違っていた。
視界も、少しだけ鮮明だ。
白い壁の薄い汚れ。天井の小さなヒビ。ガラスドア越しに漂う埃の粒まで、やけにくっきり見える。
『起床時間です』
機械的な合成音声が、天井のスピーカーから流れた。
『Aブロック被験者は、15分以内に起床・洗面を完了し、ブロック前集合エリアに整列してください』
同時に、白い蛍光灯がぱちりと点く。
青白い非常灯よりも冷たい、真っ白な光が部屋を満たした。
廊下の向こうから、子どもたちのざわめきが聞こえてくる。
「……頭いてぇ……」
「まだお腹、変な感じする……」
「おい起きろって! また首輪鳴らされるぞ!」
零も、ベッドから足を下ろし、洗面台へ向かった。
蛇口をひねると、冷たい水が勢いよく噴き出す。
両手ですくって顔にかけると、一瞬だけ昨夜の悪夢が遠のいた。
鏡はない。
それでも、水面に揺れる自分の顔を覗き込み、零はわずかな違和感を覚える。
(……目つき、悪くなったか?)
自分でもわかるくらい、瞳の奥が暗い。
眠れていないせいかもしれないし、魔素のせいかもしれない。
首元に触れると、冷たく硬い輪の感触。
隷属の環。
こいつだけは、どれだけ顔を洗っても、何も変わらない。
顔を拭き終えたころ、ガラスドアのロックが外れる音がした。
カチリ。
『ドアを開放します。Aブロック被験者は、速やかに廊下に出て、番号順に整列してください』
零は、深く息を吸ってから、ドアを押し開けた。
◇
Aブロック前の広いスペースに、灰色の服を着た子どもたちがずらりと並んでいた。
胸にはそれぞれ「001」から「250」までの番号。
顔ぶれは様々だ。
小学校高学年くらいに見える子もいれば、高校生手前くらいの少年もいる。男子が多いが、女子もちらほら混じっていた。
皆、同じ灰色の服と、同じ黒い首輪。
昨日までどんな暮らしをしていたのか、その痕跡はどこにもなかった。
「おい、001!」
聞き慣れた声がして、零はそちらを振り向いた。
037の少年が、手をひらひら振っている。
ぼさぼさの茶髪に、寝不足でうっすらとクマの浮いた目。
けれど、その瞳には、まだ消え切っていない生の光があった。
「生きてたな」
「そっちこそ」
零が短く返すと、037は「はは」と乾いた笑いを漏らす。
「昨日の肉、マジでやべーな。腹の中でずっとボーボー燃えてて、何回トイレで吐きそうになったか」
「吐いたのか?」
「ギリギリ耐えた。隣のやつは吐いて、すぐ首輪鳴らされてたけどな」
037は、少しだけ顔を曇らせた。
「……A-14、だっけ。あいつ、もういねーのかな」
零の胸に、昨夜の悲鳴が蘇る。
「帰せよ!」と叫んだ声。
そして、首輪の音。断末魔。
合成音声が、「生体反応停止」とあっさり告げたあの瞬間。
「……さぁな」
答えはわかっている。
けれど、それを口に出す気にはなれなかった。
前方で、金属バットをコンクリートに叩きつけるような音がした。
「整列!」
低く、よく通る声。
子どもたちの視線が、一斉にそちらを向く。
そこに立っていたのは、真っ黒な戦闘服を着た男だった。
黒服たちよりもいくぶん軽装だが、体つきは明らかに軍人か、それに近い。
30代後半くらい。短く刈り込まれた髪、鋭い目。
胸には「訓練教官・相良」と書かれたプレート。
「番号順に1列! 前が001、最後が250だ!」
怒鳴り声が、狭い空間に反響する。
零は、自動的に列の先頭に立たされた。
左隣に「002」、その向こうに「003」。
背中には、何十人分もの息遣いが重く圧し掛かってくる。
「……マジで、先頭かよ」
037が、だいぶ後ろの方からぼそりと呟いた。
番号が後ろの方であることを、今だけは少しだけありがたく思っているようだった。
「いいか、ガキ共」
相良は、こちらを一瞥して鼻で笑った。
「お前らは今日から――『兵器候補』だ」
ざわっ、と列が揺れる。
誰かが小さく「兵器……?」と呟いた。
「世界は今、魔界に半分以上食われてる」
相良の声は、よく通る。言い慣れているのだろう。
「テレビのニュースくらい見てただろ。浸食率52%とかなんとか。あと10年もすれば、人間様の住む場所なんざ、ほとんど残っちゃいねぇ」
その数字の現実味は、ここに連れてこられた今の方が、ずっと重く感じられた。
「ハンターだの軍隊だのが頑張ってるが、相手は魔王だ。今のままじゃ、負けるのは時間の問題だ」
魔王。
ゲームやアニメの中の単語が、ここではごく当たり前の「敵」として語られている。
「そこで、頭のいい大人たちは考えた」
相良は、肩をすくめた。
「『魔王に勝てる怪物』を、人間の側で用意すりゃいいってな」
乾いた笑いが、彼自身の口から漏れる。
「その実験が、プロジェクト0だ。お前らは、その『材料』ってわけだ」
千人から1人。
父が見たモニターに映っていた言葉が、零の頭の中で重なる。
(本物の……蟲毒)
瓶の中に毒虫を大量に入れ、最後に生き残った1匹だけを取り出す古い呪術。
それを、人間でやろうとしている。
「ビビってションベン漏らしてるヤツもいるかもしれねぇが、安心しろ」
相良は、にやりと笑った。
「すぐに、そんな余裕もなくなる」
そう言うと、彼は腰のホルスターから薄い端末を取り出した。
リモコンのような形。中央にいくつかボタンが並んでいる。
「例えば――」
相良がボタンを1つ押した。
ビィィッ……。
低い振動音。
列の中ほど、「118」とプリントされた少年が、突然膝から崩れ落ちた。
「っああああああああ!!」
全身を激しく痙攣させ、床の上でのたうち回る。
周囲から悲鳴が上がった。
「な、なにしてんだよ!」
「やめろよ!」
「黙れ」
相良の一喝が、悲鳴を一瞬でかき消す。
彼は倒れている118のところまで歩いていき、しゃがみ込んだ。
「今のは、軽いお仕置きだ」
118の首輪が、うっすらと赤く光っている。
「お前、さっき『ここから逃げてやる』って考えただろ」
相良は、面白がるように目を細めた。
「ここではな、『考え』も監視されてる」
118の瞳に、恐怖と驚愕が同時に浮かんだ。
「……嘘、だろ……」
「首輪はな、心拍や脳波も読んでる。一定以上の攻撃的な意図や、『自殺』とか『脱走』の意思が強く出ると、自動的に警告を入れるんだとよ」
相良は、首輪を指先で小さく弾いた。
「今のは警告レベル1。次はもっとキツいのが来る。3回連続でやらかしたら――どうなるかは、昨日聞いたろ?」
A-14のことだ。
列の空気が、一気に冷え込んだ。
「いいか、ガキ共」
相良は立ち上がり、全体を見渡す。
「ここで生き残りてぇなら、2つ覚えろ」
左手の指を2本立てる。
「1つ。命令には逆らうな」
彼は、指を1本折りたたんだ。
「『嫌だ』『やりたくない』は、ここじゃゴミだ。口に出したら痛い目を見る。頭の中で何度繰り返しても、首輪にバレる」
昨日、神代に言われた言葉と、まったく同じだ。
「2つめ」
残った人差し指を、零たちに突きつける。
「自分以外は全員、敵だと思え」
列がざわつく。
「ちょ、ちょっと待てよ」
後方から、少年の声がした。
「俺たちみんなで協力して、その……魔王とか倒すんじゃねぇのかよ?」
相良は、心底呆れたように鼻を鳴らした。
「教科書的な正義感だな。気に入らねぇが、嫌いじゃねぇ」
だが、とすぐに口調を変える。
「千人から1人だって、さっき言ったろ。最後に生き残るのは1人だ。だったら、自分以外は全員、『自分の席を奪う可能性のある相手』だ」
相良は、足元の118を軽く蹴った。
118は小さく呻くだけで、もう声を上げることもできない。
「友達ごっこをしたいなら勝手にしろ。ただし、そいつが飢えた獣に変わった瞬間、お前の喉笛を噛み千切るかもしれねぇってことは忘れるな」
胸の中で、何かがぞわりと逆立つ。
昨日まで「友達は大事」と教えられてきた世界とは、あまりにも違いすぎた。
だが、この場所の「常識」は、こっち側だ。
嫌でも、それに適応させられる。
「……よし。ガキ共の幻想はだいたい壊れたな」
相良は、手を叩いて話を切り替えた。
「今日のメニューを説明する」
端末を見ながら、淡々と告げる。
「午前は、身体検査と魔素適性の詳細検査だ。身長体重、筋力、持久力、視力聴力、骨格チェック。それと、魔素に対する反応を調べる」
誰かが小さく唾を飲む音が聞こえた。
「午後は、体力テストと基礎格闘。走る、跳ぶ、殴る、蹴る。ケンカのやり方を教えてやる」
相良は、にやりと笑った。
「『殺さない程度』に、な」
◇
Aブロックの列は、いくつかのグループに分けられて順番に隣の区画へと移動した。
案内されたのは、「検査区画B」と書かれたエリアだ。
白い壁と、いかにも病院じみた匂い。
個別の診察室がずらりと並んでおり、呼ばれた番号から順にその中に入っていく。
「001、入れ」
看護師風の白衣を着た男に呼ばれ、零は小さな部屋に足を踏み入れた。
中には、ベッドといくつかの機械。
血圧計、心電図モニター、それから見慣れない円盤状の装置。
机の前には、昨日も見た研究主任の神代が座っていた。
「また会ったわね、001」
神代は、眼鏡の奥で目を細める。
「ベッドに横になって。胸と頭、それから手足にセンサーをつけるわ」
無言でベッドに寝転ぶと、無数の冷たい電極が肌に貼り付けられていく。
心拍数。脳波。筋電。
ゼロと1の世界に変換されていく自分の「生」。
「昨日の初回摂取のデータ、見たけど」
神代は、タブレットを軽くスクロールしながら言った。
「なかなか興味深い反応だったわ」
「……どういう意味だよ」
「普通の子どもなら、あの濃度でもっと高熱が出るの。40度近くね」
淡々と説明が続く。
「あなたは、37度台で安定してた。心拍は上がったけど、危険域にまでは達していない。魔素の取り込み効率も高い」
神代は、唇の端をわずかに上げた。
「――やっぱり、『素材』としては上等ね」
褒め言葉のようでいて、まるで褒められた気がしない。
「他にも何人か、『上等』なのはいるのか」
零が問うと、神代は肩をすくめた。
「日本枠だけで言えば、上位10人くらいかしら。でも、あなたは別格よ」
タブレットの画面を零に向けてくる。
そこには、棒グラフと曲線がいくつも並んでいた。
「魔素耐性」「魔素吸収率」「拒絶反応」「回復速度」。
よくわからない専門用語の横に、数値がびっしり。
その中で、「001」の欄だけが極端に跳ね上がっていた。
「耐性値AA。魔素適応指数120%以上。拒絶反応低。回復速度高」
神代は、指で項目をなぞる。
「簡単に言うと、『壊れにくい体』ってこと」
「……だから、壊させねぇってわけか」
「さあ、どうかしら」
神代は、くすりと笑った。
「実験っていうのは、壊れるギリギリを攻めるから面白いのよ」
その言葉に、背筋が冷たくなる。
「次は、魔素負荷テストよ」
神代が姿勢を正す。
「あなたの首輪と、神経系を通じて微弱な魔素を流す。感じたことを教えてちょうだい」
「感じたことって……」
「痛いとか、熱いとか、気持ち悪いとか。とにかく正直に答えること」
神代は、天井の方に視線を向けた。
「首輪、テストモードに移行」
無機質な合成音声が応じる。
『被験者001、魔素負荷テストモードに移行します』
次の瞬間――
冷たいものが、首から背骨に沿ってすうっと流れ落ちてきた。
ぞわり、と鳥肌が立つ。
氷水を浴びせられたような感覚と同時に、逆に内側からじんわりと熱が広がる奇妙な感覚。
「どう?」
神代の声が飛ぶ。
「……変な感じだ。冷たいのと、熱いのが、一緒に来る」
「痛みは?」
「まだない」
神代が、タブレットに何かを入力する。
負荷が、少しずつ上がっていく。
冷たさが強くなり、手足の指先が痺れだした。
同時に、胸の奥の熱も増す。
心臓が、ドクドクと早いリズムで動き始める。
「っ……」
「痛い?」
「ちょっとだけ……骨の中が、きしむ感じ」
「ふむ」
神代の顔には、実験データがうまく取れていることに対する純粋な興奮しかない。
「このくらいなら、日常的に浴びていても問題なさそうね」
「日常的って……」
零は、顔をしかめた。
「毎日これやんのかよ」
「おそらくね」
軽く頷きながら、神代は負荷を切る。
一気に体から力が抜ける。
首輪の冷たさも、骨の軋みも、ふっと消えた。
「はい、終わり」
神代は、電極を手早く外した。
「Aブロックの中でも、あなたは『最優先強化対象』になる」
タブレットの画面を閉じながら、淡々と言う。
「鍛え方も、負荷のかけ方も、他の子どもたちとは違うメニューになるはずよ。
光栄に思いなさい、001」
「……全然、思えねぇよ」
「そう言うと思った」
神代は、楽しそうに笑った。
「でもね。あなたがどれだけ嫌がろうと――」
彼女は、わざとゆっくりと言葉を区切る。
「あなたの『身体』は、もうここのものよ」
零は何も返さなかった。
返しても、意味がないとわかっていたからだ。
◇
午前中いっぱいかけての検査が終わったころ、Aブロック前集合エリアに再び子どもたちが集められた。
皆、ぐったりした顔をしている。
「血、取りすぎだろ……」
「変な機械に頭突っ込まされた……」
「目の前でピカピカ光って、気持ち悪かった……」
疲労と不安と、わずかな安堵。
少なくとも、検査そのものは「すぐに死ぬようなもの」ではなかったからだ。
昼食は、あっけないほど簡素だった。
部屋には戻らず、その場で支給される。
紙の容器に入った白粥と、薄いスープ。それに小さなパンのような固形物。
昨夜のような魔物の肉はなかった。
(さすがに、毎食あれじゃないか)
心の中で毒づきながらも、零は無言でスプーンを動かした。
周囲からは、誰かの小さな会話が聞こえてくる。
「なぁ……お前、どこから来たんだ?」
「オレ? 埼玉」
「俺、北海道」
名前を名乗りそうになった瞬間、誰かの首輪がピクリと光った。
「っ……!」
短い痺れに、少年が肩をすくめる。
「……いってぇ……」
すぐ近くで見ていた子が、青ざめた顔で呟いた。
「な、名前……言おうとすると、首輪、鳴る……」
零は、自分の首元を無意識に押さえた。
(名前も、奪うのかよ)
自分で「零だ」と名乗ることすら、ここでは許されない。
数字だけ。管理番号だけ。
仲間意識や連帯感を、根っこから断ち切る仕組み。
誰が、どこまで考えてこれを作ったのか。
想像するだけで、吐き気がした。
「おい、001」
037が、こっそりと肩を寄せてきた。
「さっき、言いかけてたよな。名前」
「……言ってねぇよ」
「オレの方な」
037は、わざとらしく咳払いする。
「オレさ――」
その瞬間、首輪が光ろうとした。
しかし、彼はすぐに口を閉じた。
光は、すぐに収まる。
「……っと。あっぶね」
037は、舌を出した。
「わかったろ? ここじゃ、『名前』は毒だ」
「なんで、そこまでして隠させる」
「決まってんだろ」
037は、パンの欠片を指でちぎりながら、ぼそりと呟いた。
「『大事なもん』があると、弱みになるからだよ」
その言葉は、誰よりも零に刺さった。
雪菜。
父と母。
自分の名前。
全部、「大事なもの」だ。
だからこそ、全部、奪われようとしている。
◇
午後。
Aブロックの被験者たちは、体育館のような広い空間に連れて行かれた。
高い天井。コンクリートの床。壁には、鉄骨がむき出しになっている。
「訓練区画E」と書かれたプレート。
相良が、腕を組んで中央に立っていた。
「よし。じゃあまずは、体力のベースを見せてもらう」
彼は、手元の端末を操作する。
「全員、100m走、反復横跳び、腕立て伏せ、懸垂。
数字は全部記録するから、サボったらバレるぞ」
天井付近のカメラが、ゆっくりと動く。
モニターがどこかで見ている。
数字が、またどこかで自分を「評価」していく。
100m走。
スタートラインに並ぶと、隣の少年の息遣いがやけに近く聞こえた。
「位置について――よーい」
電子音とともに、スタート。
コンクリートの床を蹴る感触は、学校のグラウンドとはまるで違う。
硬い。滑りやすい。
それでも、零の足は軽かった。
風を切る。呼吸が早くなる。
体は、思っていた以上に言うことを聞いた。
(息が……上がりにくい)
昨日までなら、全力で走ればすぐに胸が苦しくなっていた。
今は、それが来ない。
胸の中の熱が、むしろエンジンのように身体を押し出している感覚。
「タイム、14秒3」
端末を見た相良が読み上げる。
「悪くねぇな、001。普通の中坊なら十分早い方だ」
横で走っていた「002」は、少し遅れてゴールした。
肩で息をしている。
他の子どもたちのタイムは、11〜18秒台とバラバラだった。
元々運動部だったらしい少年は早く、引きこもりっぽい子は遅い。
だが、ここでは「元々何をやっていたか」なんて、せいぜい最初の数日分の差にしかならない。
「走りが遅いからといって、死ぬわけじゃねぇ」
相良は、ぼそりと言い添えた。
「ただ、遅い奴から先に『食われる』だけだ」
腕立て伏せ。懸垂。反復横跳び。
次々とテストが続く。
零は、どれも「平均より少し上」程度の結果を出した。
運動神経が特別良いわけではない。
体育は嫌いではなかったが、得意でもなかった。
ただ、魔素による身体機能の底上げが、明らかに効いている。
筋肉の疲労回復が早い。
息が整うのも早い。
それが、怖くもあり、どこか安心でもあった。
(これが、あいつらの言う『強化』かよ)
自分の体が、自分のものでなくなっていくような感覚。
それでも、その「借り物の強さ」にすがらなければ、この場所では生きていけない。
「よし。最後に、軽く殴り合ってもらう」
相良が、手を叩いた。
「スパーリングだ。もちろん、今は『殺し合い』じゃねぇ。
ただし、本気で殴れ。手加減したら、それも全部記録される」
ざわ、と空気がざわめく。
「ペアはランダム。端末で決める」
相良が画面をタップする。
「001、相手は……037だな」
零と037が、名前を呼ばれた。
2人は、中央に出るように指示される。
「マジかよ、オレらか」
037が、苦笑いを浮かべた。
「よろしくな、001」
「殺すなよ」
「お互いにな」
冗談めかして言い合いながらも、2人の表情は硬い。
足元はコンクリート。周囲には、同じようにペアを組まされた子どもたちが円を作って見ている。
「ルールは簡単だ」
相良が説明する。
「顔面への打撃はOK。ただし、目と喉は狙うな。
関節技は禁止。骨折ったりすると、医療班が面倒くさがる」
そこかよ、と誰かが心の中でツッコんだ。
「時間は1分。より多く『有効打』を入れた方が勝ち。途中で逃げ出したり、戦意喪失したら負け」
勝ったからといって、何か良いことがあるわけではないだろう。
だが、「勝てなかった」というレッテルは、この先ずっとついて回るかもしれない。
零は、037と向かい合って構えを取った。
ケンカの正式なやり方なんて知らない。
ただ、体育でやった護身術や、テレビの格闘技の真似事くらいはできる。
それがどこまで通用するのか。
「始め!」
相良の合図と同時に、037が先に動いた。
一直線に突っ込んでくる。
零は、反射的にガードを上げた。
ドンッ。
腕越しに、意外と重い衝撃。
(思ってたより、力強い……!)
すぐに距離を取り直す。
037の動きは荒いが、勢いがある。
肩で息をしながら、何度も前に出てくる。
零は、半歩ずつ横にずれながら、有効打を狙った。
顎とボディ。ガードの隙間。
拳が当たるたび、皮膚の上を鈍い痛みが走る。
だが、どこかで冷静に「カウント」している自分がいた。
(今ので1発。こっちが2発。――3発目)
殴るたびに、零の中で何かが削れていく。
それでも、止められない。
止めたら、負ける。
負け続けた先に待っているのが、どんな未来か。
昨日、嫌というほど見せられた。
「……っ、くそっ!」
037が、唇を切りながらも笑う。
「やるじゃねぇか、001……!」
「お前も、だろ」
息を弾ませながら言い返す。
本気で殴り合っているのに、どこかで「会話」が続いている。
それが、逆に怖かった。
拳が当たるたび、顔が歪む。
血の味が口の中に広がる。
それでも、最後まで「殺すつもり」で殴ることはできなかった。
「そこまで!」
1分が過ぎ、相良の声が響いた。
「有効打、001が7、037が5。勝者、001」
周囲から、小さなどよめき。
勝ったはずなのに、胸の中には、何とも言えないざらつきだけが残った。
「悪ぃな」
零が、小さく呟く。
037は、鼻血を拭いながら笑った。
「何が」
「好きで殴ってるわけじゃねぇし」
「お前な……」
037は、少しだけ目を細めた。
「ここじゃ、『好きで』とか言ってる余裕、そのうち消えるぞ」
その言葉は、冗談でも脅しでもなく、ただの予言のように聞こえた。
◇
夕方。
訓練区画から居住区に戻るころには、零の身体は完全に悲鳴を上げていた。
筋肉痛。打撲の痛み。全身のだるさ。
それでも、魔素のせいか、回復は「常識よりは」早い。
それが、また腹立たしい。
(どこまでも、こいつらの思い通りかよ……)
部屋に戻ると、再びトレイがスリットから押し込まれた。
白粥、スープ、パン、そして――昨夜より一回り小さい、黒い肉の欠片。
まただ。
喉が、自動的に拒絶しようとする。
だが、零は、ためらいなくそれを掴んで口に運んだ。
嫌悪も、吐き気も、確かにある。
けれど、それ以上に「慣れ」が勝っていた。
1日で、人はここまで「順応」できてしまうのか。
自分自身に、うっすらとした恐怖を覚える。
『居室001。摂取確認』
神代の声が、スピーカー越しに響いた。
「……仕事熱心だな、あんたも」
『あなたが壊れるかどうか、私の評価にも関わるからね』
さらりと返される。
『安心して。あなたはきっと、簡単には壊れないわ』
「その『安心』が、1番安心できねぇんだよ」
『ふふっ』
小さな笑い声が、ノイズ交じりに聞こえた。
消灯。
青白い非常灯が点き、部屋がぼんやりと染まる。
ベッドに横たわりながら、零は天井を見つめた。
体は疲れ切っているのに、頭だけが妙に冴えている。
昼間見たもの、聞いた言葉、殴り合った感触。
全部が頭の中でぐるぐる回って、うまく整理できない。
(父さんと、母さん……)
思い出そうとすると、胸が痛くなる。
あの2人の死を、「序章」なんて言った神代の顔が、また浮かぶ。
(雪菜……)
心の中で、そっと名前を呼ぶ。
Sと呼ばれ、別の区画に連れていかれた妹。
今、どこで何をされているのかもわからない。
怖がっているだろう。泣いているだろう。
助けに行きたくても、行けない。
今の自分には、何もできない。
その無力さに、歯が軋む。
(絶対に、待ってろよ)
拳を、シーツの上でぎゅっと握りしめた。
(ここで死んだら、お前、本当に1人になる)
たとえ、自分の心がどれだけ削られても。
どれだけ「怪物」に近づけられても。
最後の1本だけは、残しておきたい。
雪菜と、自分を繋ぐ糸。
それが切れたとき、自分はきっと完全に「兵器」になる。
それだけは、させない。
深い疲労が、ようやく意識を沈め始める。
瞼が重くなり、視界が滲む。
最後にもう一度だけ、心の中で雪菜の名前を呼んで――
零は、2日目の夜を、深い闇の中へと沈んでいった。
深淵の檻は、まだ序章に過ぎない。
だが、その序章だけでさえ、12歳の少年にとっては十分すぎるほどの地獄だった。
この先5年間、その地獄がどれほどのものになるのかを、今の零はまだ知らない。
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