第4話 崩れ落ちる家

闇は、思っていたよりも、近かった。


非常階段の非常灯が一斉に消えた瞬間、世界がぱちんと音を立てて切り替わったかのように、零(れい)の視界は真っ黒になった。


何も、見えない。


だが、闇の中で――


確かに「そこにあるはずのないもの」に、手が触れた。


冷たい金属の感触。指先に引っかかる、細い取っ手。


(点検口……?)


普段、非常階段を使うことなんてほとんどない。ましてや、壁のどこにこんな扉があるのかなど、意識したこともなかった。


けれど、今は確かにそこにある。


さっき耳の奥で聞こえた、「こっちだ」という誰かの囁きが、まだ鼓膜の奥に残っている気がした。


魔素酔いの幻聴だ、と自分に言い聞かせるには、あまりに生々しい。


「雪菜(ゆきな)、しっかりつかまってろ」


腕の中で震える妹の体を抱き締めながら、零は取っ手を力いっぱい引いた。


ガコン、と鈍い音がし、壁の一部が内側に開く。


中から、淀んだ空気がふわりと漏れ出した。ほこりっぽく、すすけた匂い。だが、外の階段で響いていた軍靴の足音よりは、ずっとましに思えた。


「れーにい……どこ、いくの……?」


「静かに」


耳元で囁き、零は身体を横にして、狭い穴の中へと滑り込んだ。


雪菜を胸に抱いたまま、足で扉を押し戻す。


金属が触れ合う小さな音とともに、再び暗闇が訪れた。



点検用の配管スペースらしきその中は、人一人がやっと膝を曲げて進める程度の幅しかなかった。


左右の壁には配線や細いパイプが這い、頭上すれすれに太いダクトが通っている。どこからか、空調の低い唸り音が聞こえた。


非常階段側の音が、壁一枚を隔てて鈍く響いてくる。


「十階の踊り場、確認! ……いない!」


「上から下まで洗え! 非常灯系、誰だ切ったのは!」


「システム誤作動だと? ふざけるな!」


男たちの怒鳴り声と、靴音。階段を駆け上り、駆け下りる音。


零は、妹の頭を自分の胸に押しつけた。


「シー……」


暗闇の中で、雪菜の小さな手が、零のシャツをぎゅっと掴んでいるのがわかる。震えが、直接肌に伝わってきた。


(ここ……どこまで続いてるんだ)


壁伝いに、そろそろと進む。


膝と肘が、ざらついたコンクリートに擦れて痛い。だが、後ろに戻るという選択肢はなかった。戻れば、そこには黒い影と銃口が待っている。


数メートル進むごとに、小さな分岐や機器が現れる。だが、どれも人が出入りできるほどのものではない。


息が詰まりそうになる。


(落ち着け……。父さんが言ってたろ。パニックになったら、それだけで負けだって)


昔、避難訓練のあとに、誠一がそんなことを言っていたのを思い出す。


『怖くてもいい。震えててもいい。でもな、足だけは止めるな。止まった瞬間、そこで終わりだ』


その言葉を、薄暗い配管スペースの中で反芻する。


どれくらい進んだだろうか。


時間の感覚が、徐々に曖昧になっていく。


その時、右手の先に、違和感が走った。


ざらりとしたコンクリートの感触ではない。金属の冷たさ。


また取っ手だ。


今度は、横開きではなく、縦に細長い扉の縁に指がかかる。


(もう一つ、点検口……)


ここがどの階に繋がっているのかはわからない。だが、これ以上この暗闇の中でじっとしているわけにもいかない。


零は、慎重に取っ手を引いた。


ギィ……と、小さな軋み音。


わずかな隙間から、薄い光が差し込んできた。


非常灯の、かすかな緑色の光。


目が眩むほど、まぶしかった。


「雪菜、目、ぎゅっとつぶってろ」


囁きながら、零はそっと扉を押し開けた。


そこは、三階の非常階段だった。


上の方からは、まだ怒号と足音が響いている。だが、この階の踊り場には、誰もいなかった。


非常灯は非常電源に切り替わっているのか、弱々しいながらも薄明かりを保っている。


遠くで、サイレンの音が続いていた。


ゲート側の異常か、それとも別の何かか。


今の零には、どちらでもよかった。


「行くぞ」


配管スペースから身を滑らせ、そっと踊り場に足を下ろす。


雪菜を抱え直しながら、息を殺して階段を覗き込む。


下の二階の踊り場には、人の影はない。


その下、一階の非常口扉の隙間から、外の光がかすかに漏れていた。


外に出られる。


だが――。


(あいつらが、外で待ってない保証は……ない)


考えるよりも、足が先に動いていた。


零は、雪菜を抱いたまま、階段を駆け下りる。


足音をできるだけ殺したつもりでも、コンクリートの階段は容赦なく音を反響させた。


二階を通過。


一階の踊り場にたどり着く。


非常出口のドアには、「非常時以外開放禁止」と書かれた赤いプレートがついていた。だが、今は非常時以外の何物でもない。


ドアノブをゆっくり回し、ほんの少しだけ隙間を開ける。


外の空気が流れ込んできた。アスファルトの匂いと、排気ガスの匂い。そして、かすかに焦げたような匂い。


耳を澄ませる。


すぐ近くには、人の気配はないように思えた。遠くで、誰かの怒鳴り声や、車のクラクションが混じり合っている。


「……今しかない」


零は、ドアを一気に開けた。



マンションの裏手に出た。


そこは、ゴミ集積所と駐輪場が並ぶ、住民以外はほとんど通らない細い通路だった。


頭上には非常階段の鉄製の骨組みが影を落としている。


零は、あたりを素早く見回した。


黒い車は、表側の道路に停まっているはずだ。この裏手の細い路地からなら、逆方向の住宅街へ抜けられる。


そう思った瞬間。


耳の奥で、低い声がした。


「後方、裏口からの移動反応。二つ」


無線だ。


どこかで、誰かがそう告げた。


次の瞬間、路地の角から、黒い影が二つ、ぬっと現れた。


「……ちっ」


零は、思わず舌打ちした。


黒い防弾ベスト。ヘルメット。顔の下半分を覆うマスク。


さっき玄関からなだれ込んできた連中と同じ格好だ。


一人は、扉のすぐ近くに立っていた。もう一人は、路地の奥側。退路を塞ぐように立っている。


完全に、挟まれていた。


「対象少年、発見」


近くの男が、無線に告げる。


「女児も一緒です」


「……ッ!」


体が、固まった。


逃げなきゃ、と頭ではわかっているのに、足が動かない。


雪菜の震えが、さらに強くなった。


「れーにい……」


零は、唇を噛みしめた。


(動け。動けよ)


父の叫びが、脳裏に蘇る。


――雪菜を連れて、逃げろ!


その言葉が、氷のように固まった足を、かろうじて動かした。


零は、咄嗟に、近くにいた男の方へと駆け出した。


逃げ道はふさがれている。なら、せめて――。


男が、意外そうに目を見開いた。


零が、自分たちに向かって突っ込んでくるなど、想定していなかったのだろう。


その一瞬の隙を、零は逃さなかった。


父譲りの、決して弱くはない体力と、体育の授業で鍛えた瞬発力。そのすべてを込めて、男の腰あたりにタックルをかける。


「うおっ――」


大人の重い体が、ぐらりと揺れた。


零は、雪菜をしっかりと抱えたまま、男の足を思い切り蹴った。


バランスを崩した男が、派手に尻もちをつく。


その隙に、零は路地の奥――もう一人の男がいる方へと走った。


「止まれ!」


怒鳴り声とともに、黒い影が動く。


零は、咄嗟に足を止めた。真正面からぶつかれば、今度はこちらが吹っ飛ばされる。


路地は狭い。左右には、高い塀とマンションの壁が続いている。逃げ道は――。


上だ。


鉄製の非常階段が、頭上を斜めに横切っている。その階段の支柱の一部が、路地から手の届く高さにむき出しになっていた。


零は、雪菜を片腕に抱え直し、もう片方の腕を支柱に伸ばした。


「しがみつけ!」


叫びながら、勢いよくジャンプする。


指が、冷たい鉄にかろうじてかかった。


全体重が、片手にのしかかる。


「っぐ――!」


腕の関節が悲鳴を上げた。


だが、落ちるわけにはいかなかった。


零は歯を食いしばり、もう一方の手も鉄骨に絡めた。足を壁に押し当て、身体をよじ登る。


目の前で、黒い男の腕が伸びてきた。


「捕まえ――」


指先が、零の足首をかすめる。


零は、咄嗟に壁を蹴った。


身体が横にずれ、その手をかろうじてかわす。


男の手は空を切り、その勢いを殺しきれずにバランスを崩した。


その隙に、零は雪菜を非常階段の踊り場に持ち上げる。


「のぼれ!」


「む、むり――」


「できる! ほら!」


雪菜の小さな体を、ほとんど放り投げるようにして上へ押し上げ、自分もそれに続いて駆け上がる。


だが、二階ぶんほど登ったところで――


頭上から鈍い音がした。


カンッ。


金属に何かが当たる音。


次の瞬間、真下の床に、銀色の円筒が転がってきた。


――グレネード。


零は、反射的に雪菜を庇って身を伏せた。


パァンッ!


破裂音とともに、強烈な閃光がほとばしる。


「っ――!」


世界が真っ白になった。


同時に、耳の奥を殴られたような衝撃。鼓膜が破れたんじゃないかと思うほどの爆音が頭蓋骨の中で反響する。


体のバランスが崩れ、足が踏み外した。


重力が、全身を下へと引きずり落とす。


「れーに――」


雪菜の悲鳴が、遠くで聞こえた気がした。


鉄骨に肩を打ちつけ、背中を壁に叩きつけられ、そのまま階段の段差にごつんごつんとぶつかりながら転げ落ちる。


視界がぐるぐると回る。


何度か跳ね返り、ようやく地面に背中から落ちた。


肺から空気が一気に押し出される。


「っは――」


息が、うまく吸えない。


目の前がちらちらとした光で満たされている。耳鳴りがひどく、遠くの音しか聞こえない。


朦朧とした意識の中で、誰かの影が覗き込んだ。


「少年確保」


感情のない声。


腕を掴まれ、乱暴に仰向けにされる。


冷たい何かが、首筋に当てられた。


ちくり、と小さな痛み。


同時に、皮膚の下に冷たい液体が流れ込んでくる感覚があった。


「……っ!」


体が、急速に重くなる。


視界の端で、非常階段の上に雪菜の小さな影が見えた。


彼女は、踊り場の手すりにつかまり、震えながらこちらを見下ろしている。


「れーにい!」


涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔。喉の奥からしぼり出されるような叫び声。


その横から、黒い手袋をした手が延びてきた。


「や、やだ! はなして――!」


雪菜の泣き声が、零の耳に直接突き刺さる。


だが、体はもう動かなかった。


筋肉が、自分のものではないかのように力を失っていく。


(やめろ――)


叫ぼうとしても、声にならない。


口の中がしびれ、舌が回らない。


ぼやけた視界の中で、男たちが雪菜の体を引き剥がし、乱暴に抱え上げるのが見えた。


「対象女児も確保」


「よし。『事故』に見せかける準備に入れ。周囲住民の避難状況は?」


「大半は室内待機中。一部、廊下に出てきた住民もいるが、『魔物漏出の可能性』を理由に室内退避を指示済みです」


「よくやった」


男たちの会話が、遠くに聞こえる。


その中に、聞き覚えのある声が混じった。


「――零!」


父の声だ。


顔を横に向けると、マンションの正面側の出入口の方に、数人の黒服たちとともに、誠一が引きずられていくのが見えた。


両手を後ろ手に縛られ、口にはガムテープが貼られている。それでも、喉の奥から絞るように声を出そうとしているのがわかった。


その顔には、殴られたような痣がいくつも浮かんでいた。


(父さん――)


伸ばそうとした手は、数センチ動いただけで、床にぺたりと落ちた。


麻酔か何かの薬が、全身の神経を鈍らせていく。


意識が、暗闇の縁に滑り落ちかけていた。


その中で、誰かが耳元で囁いた。


――守りたかったんだろう?


誰の声か、わからない。


自分自身の心の声か、闇の向こうから差し伸べられた手か。


零は、その問いかけに、必死に抗おうとした。


(当たり前だ……。守るって、約束……したのに)


雪菜の小さな指と指を絡めた、あの朝の記憶。


誠一が笑いながら、「勇気」と言ってくれた日の記憶。


茜が「名前を大事にしなさい」と言ってくれた、昨夜の記憶。


全部、指の隙間から零れ落ちていくような感覚。


黒い空が、視界いっぱいに広がる。


その中に、巨大な穴がぽっかりと開いた。


湾岸第七ゲートの映像と、重なる。


世界が、そこからゆっくりと飲み込まれていく。


零の意識もまた、その穴へと引きずり込まれていった。



耳に、低い振動音が戻ってきたのは、どれくらい経ってからだっただろう。


ゴウン、ゴウン、と一定のリズムで揺れる感覚。


硬い床と、金属の壁。


鼻をつく、消毒液とゴムの匂い。


瞼を開けようとして、まぶたが重いことに気づく。


「……う……」


かすかな唸り声が漏れた。


すぐ近くで、低い声がした。


「起きたか」


知らない男の声。


瞼を、なんとか持ち上げる。


視界が、ぼやけたままゆっくりと焦点を結んでいく。


そこは、薄暗い車内だった。


天井が低く、窓はすべて金属板でふさがれている。


左右の壁にはベンチ状の座席があり、零はその一つに横向きに寝かされていた。手首と足首には、硬いプラスチック製の拘束具が嵌められている。


目の前の座席には、黒い服の男が一人、こちらをじっと見て座っていた。


ヘルメットとマスクは外している。短髪に無精ひげ。三十代半ばくらいに見える。


目は、海のように冷たかった。


「……どこ、だよ、ここ」


声が掠れていた。


喉がからからだ。


「移送車両の中だ。君は、保護されている」


男は、感情のない声で言った。


「保護、だと……?」


零は、乾いた笑いを漏らした。


「さっきのが、『保護』って言うのかよ……」


「状況が状況だ。手段を選んでいる余裕はない」


男は、わずかに肩をすくめた。


「君の家族は、魔物関連の『重大事件』に巻き込まれた。だから我々が保護し、安全な場所へと移送している」


「ウソだ」


零は、即座に言い切った。


その言葉に、男の眉がわずかに動く。


「どうして、そう思う?」


「父さんなら……絶対、自分で迎えに来る。知らないおっさんに、家族任せたりしない」


息を整えながら、一語一語を絞り出す。


「それに、『魔物が出た』って言いながら、あんたらの服には血も傷も、何にもなかった。銃も、魔物用じゃない。人間相手の武器だ」


父の職場の関係で、魔物対策用の武器や装備の話は、何度か耳にしたことがある。鋭い刃や、魔素をぶつける装置。さっきの男たちが持っていたのは、どう見ても「人間」に対するスタンガンや催涙グレネードだ。


「……ガキのくせに、よく見ている」


男は、目を細めた。


「だからこそ、君は選ばれたのかもしれんが」


「選ばれた……?」


嫌な予感が、背筋を這い上がる。


「どこに、連れていくんだよ。父さんと、母さんと、雪菜はどこだ」


「それは、着いてからのお楽しみだな」


男は、つまらなさそうに言った。


「安心しろ。少なくとも、すぐに殺したりはしない」


その「安心させる」文句は、まるで反対の効果しか持っていなかった。


零の胸に、氷の塊のような恐怖が沈殿する。


「雪菜に、何かしたら……殺すからな」


自分でも驚くほど、低い声が出た。


男は、少しだけ目を丸くしたあと、ふっと笑った。


「ほう。殺す、か」


「……ああ」


「いい目をしている」


男は、面白そうに零を眺めた。


「君のような目をした子どもは、何人も見てきた。大抵は、途中で折れるか、壊れるか、狂うかのどれかだが」


零は、睨み返した。


男は、ポケットから小さな装置を取り出した。スマートフォンほどの大きさの、黒い機械。


画面に、いくつかの数字とグラフが表示されている。


「なあ、坊主。好奇心はあるか?」


「……」


「これは、魔素適性簡易検査機ってやつだ。君ら庶民にはまだあまり出回ってないがな」


男は、装置を軽く振ってみせる。


「人間の血中や細胞内にどれだけ魔素を取り込めるか、その耐性や適応性の指標を、ざっくりと見てくれる優れものだ。ハンター候補のスクリーニングにも使われている」


「……だから、なんだよ」


「いやなに。暇つぶしだ」


男は、零の手首に装置の端子を押し当てた。


「やめろ!」


零が抵抗しようとすると、すかさず男のもう一方の手が肩を押さえつける。


「力を抜け。痛くもしない」


そう言いながら、装置のボタンを押す。


画面に、いくつかのバーグラフが現れた。


男は、それを見て、目を細める。


「……なるほど」


「なに、だよ」


「平均より、やや高い程度だな。今のままなら、そこそこのDランクハンターくらいにはなれるかもしれん」


男は、つまらなさそうに言った。


「だが――」


画面をスライドさせ、別の表示を出す。


「耐性値が、異様に高い。これは珍しい」


「たいせい……?」


「魔素や、異物の侵入に対する身体の『しぶとさ』みたいなもんだ。毒や病気にも関係してくる」


男は、薄く笑った。


「君は、壊れにくい体をしている」


ぞくり、と背筋が冷える。


「それって……」


「心配するな。ちゃんと『有効活用』してやる」


男は、装置をしまい込み、立ち上がった。


「眠っていた方が、着いたとき楽だぞ」


そう言って、零の顔のすぐ近くに、小さなスプレーボトルを近づける。


「やめ――」


言い終わる前に、冷たい霧が顔に吹きかけられた。


鼻腔に、薬品の匂いが強く入り込んでくる。


意識が、またもや遠のいていった。


最後に見えたのは、男の冷たい瞳と、その奥にかすかに映った自分の顔だった。


少年の顔。


まだ何も知らない、弱い人間の顔。


(――ちくしょう)


零は、闇に飲み込まれながら、心の中で呟いた。


この時の彼はまだ知らない。


この先、自分の身体が「壊れにくさ」どころか、「壊れないこと」を強要される檻の中へと投げ込まれることを。


そして、守れなかったという罪悪感だけが、唯一壊れてくれないものとして、永遠に彼の心に刺さり続けることを――。



移送車両の先頭車両。


運転席の隣で、先ほどの黒服の男がインカムに向かって短く報告する。


「対象家族、三名確保。成人女性、一時的な痙攣のみ。成人男性、軽微な骨折と打撲。少年、女児ともに麻酔で眠らせた。これより指定ルートで湾岸第七管理区・深層搬入口へ向かう」


『了解』


インカムの向こうから、くぐもった声が返ってくる。


『事後処理班は?』


「マンションの爆破準備を完了しています。湾岸第七ゲートの『魔素暴走による副次的被害』として処理される予定です」


『いいだろう。周囲の監視カメラ映像と、ネット上の目撃情報もすでに処理済みだ』


「さすがですな、桐生先生」


男は、口元にわずかな皮肉を浮かべた。


『お前たちは、ただ現場で粛々と任務をこなしていればいい』


インカム越しの声――衆議院議員・桐生の声は、穏やかでありながら、決して逆らうことを許さない圧を帯びていた。


『我々カウンシルが描いた「新世界」の青写真。その礎になれるのだ。誇りに思え』


「はっ」


男は、形だけの敬礼をしてインカムを切った。


フロントガラスの向こうには、暗い湾岸道路が続いている。


遠くに、黒い穴のような湾岸第七ゲートが、赤紫の光を鈍く放っていた。


車列は、その闇の中心へと向かっていく。


その後部車両の中で、四つの命が静かに揺られていた。


一つは、これから「人間兵器」として地獄を生き抜くことになる少年。


一つは、その少年の「最後の砦」となる、幼い妹。


そして二つは――その少年の人間性を根こそぎ奪い去るための、「贄」としての両親。


家族という、小さな、ささやかな世界。


それが今、巨大な闇の中へと丸ごと呑み込まれようとしていた。


零のまぶたの裏には、まだ、昨日までの「普通の」朝の光景が薄く焼きついていた。


焼き鮭の匂い。


妹の笑い声。


父と母の、他愛のないやり取り。


――もう二度と戻らない日常。


その残像だけを抱えたまま、少年の意識は、深い深い闇の底へと沈んでいった。

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