灰鏡記

kono

第1話 七日七夜の祈祷

日出処ひいづるところに倭光わこうという国があった。

貴族や寺院は奴婢ぬひを多く抱え、家畜以下で働かせていた。

税は重く人は疲れ、土地は血で穢れていた。

祈りは、国家安寧のためだけにあり、

仏の光は決して民には届かなかったーー

そんな時代の物語である。



女帝が倭光を治めていた。


謙華天皇けんかてんのうと仰せられる。 天災、疫病、度重なる内乱に精神を擦り減らし、 もともとお身体は強くなかった方である。 とうとう病に倒れてしまった。


祈祷師を連れてきては祈らせたが、 日に日に悪くなるばかりで、 もう女帝はお隠れになるだろう── 宮中ではそう囁かれていた。 次の皇太子は、まだ立てられていなかった。


──非常に、まずい。

左大臣・藤浦押衡ふじうらおしひらも、焦る男の一人であった。

押衡は、朝廷内での権力掌握や派閥争いの処理には長け、左大臣まで上り詰めた男であった。


しかし、近ごろの押衡は 満足できなくなっていた。 さらに上を、さらに強い力を── その望みは、やがて女帝の猜疑さいぎを招き、 ふたりの関係は冷えていくばかりであった。



大釜皇子おおがまのおうじを、次の皇太子に立てるまでは…… 女帝様には死んでいただくわけにはいかぬ」


大釜皇子は押衡の娘を娶っており、 押衡にとっては義理の息子である。

優しいが、頼りなく、扱いやすい。 押衡はそこを気に入っていた。

大釜皇子を皇太子にし、いずれ天皇に── 自らは外戚となり、藤浦家を盤石にする。

押衡はその未来を確かなものにしたかった。


だがもし、皇太子不在のまま 謙華天皇が崩御されれば、 貴族たちはこぞって自分に都合の良い皇子を推し立て、 都は大混乱に陥るだろう。

我が藤浦家から天皇を輩出する。 押衡は血眼になって、都中に祈祷師を探させた。


そんな中、押衡の耳にひとつの噂が届いた。


──数多くいる祈祷師の中に、ただ一人だけ、 “本物” がいる。


名は天鏡てんきょう。流れの旅僧であるという。


貴族たちはその僧に加持祈祷をさせ、

病が和らいだ、悪霊が去った、

家屋の闇が一夜で晴れたなど──

数々の“奇跡”を目の当たりにした、と囁き合っていた。


荒唐無稽と笑い捨てる余裕は、もはや押衡にはなかった。


藁にもすがる思いで、

押衡は天鏡を探し出すよう家人に命じた。




押衡は貴族のつてを頼り、ようやく天鏡を自らの屋敷に呼び寄せた。

夜、蝋燭の淡い光がゆらめく客間に、雲水風情の二人組が姿を現す。


長い後髪うしろがみを一つに結んだ、堂々たる体躯の黒衣の男が、線の細い、白磁のような髪を持つ少年を伴って現れた。

その身なりは質素ながら乱れなく、貴族の屋敷にもはばからず入れるほどに整っている。


「お前が、天鏡と申すものか?」


押衡がいくつか問いかけるたびに、男はわずかに眉を動かすだけで、

「はぁ、左様でござりまするか」

と繰り返すばかり。どこか人を食ったような物言いで、要領を得ぬ。


女帝に最も近い臣下としての自負をもつ押衡にとって、その態度は不遜に映った。

だが、それ以上に癪に障ることがあった。


ーー顔が良い。


僧侶のくせに、顔が良すぎるのである。

押衡も若き日には容姿端麗で名を馳せ、女帝の寵愛も受けた。

しかし、その押衡でさえ、嫉妬を覚えるほどに天鏡は美しかった。


この男の美貌は、国を傾けるかもしれぬ。


押衡は一瞬、女帝に会わせることをためらった。

だがそれ以上に、「自らの権勢の維持と藤浦家の安泰」がその迷いを僅かに上回った。


「貴様、噂によれば朝廷の許しなく大陸へ渡ったというな。

 そればかりか、各地で勝手に祓いを行っているとも聞く。」


押し黙る天鏡を前に、押衡は声を低くして重ねる。


「もし、謙華天皇の病を平癒せしめたならば、そのすべての罪、問わぬものとする。

 ーーよいか。」


「⋯御意。」


天鏡は静かに頭を垂れ、その声は闇に沈む蝋燭の灯よりもなお、低く、澄んでいた。



翌日、天鏡は身を清め、

女帝が伏せられた御殿へ参内した。


列座する僧は皆、都に名の知れた高徳の者たち。

その中で、藤浦押衡の推薦を受けた男として

天鏡は異彩を放っていた。


祈祷が始まったーー

押衡は御簾の此方から、

想像を絶する光景に息を呑んだ。


七日七夜なのかななや、不眠不休で経を唱え続けるという、

常人には到底耐え得ぬ修法。

火を絶やさぬ灯の下、経の声が波のようにうねり、夜と昼の境を溶かしてゆく。


やがて一人、また一人と声が途絶えていく。

疲労に耐えきれず退席する者、

錯乱し幻を見だす者、

その場に崩れ落ちる者さえいた。


ただ一人、最後まで経を途切らせなかった者がいた。

ーー天鏡である。


七日目の夜、身体を弟子の浄人きよひとに支えられ

血を吐きながら天鏡は、絞り出すように祈りを捧げたーー


朦朧とする意識の中、謙華天皇は

命を削りながら、自分のために祈る男を

ただただ、じっと見つめ続けた。


翌朝、熱は下がっていた。

女帝はその僧の名を問うた。

「天鏡と申します」

その名を口にした瞬間、彼女は悟った——もう、この男を手放すことはできぬと。



天鏡は深く頭を垂れ、静かに御前に立つ。

その動作を目にした押衡は、何かが音もなく崩れるのを感じた。

権力の均衡も、計画の行方も、

すべてが、わずかに揺らぎ始めたように思えたのだ。


押衡の胸中に、得体の知れぬ焦燥と恐怖が渦巻く。

だが、それと同時に、誰も知らぬ力が都の闇で動き始めていることを、まだ誰も知らない。


天鏡を中心に、運命の歯車がゆっくりと回り出した。

嵐の前の静けさのように――何もかもが、この都に新たな歴史を刻もうとしていた。







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