鏡写しのサンタクロース

6月流雨空

プロローグ 逆夢のサンタクロース

 宵闇の空に白い羽が舞い落ちた。


 私は窓を開け、息を吸う。


 肺に入り込んだ冷えた空気がカチ、コチ、と音を立てて私の体を中から凍らせていくようだった。


 白い羽は今年初めての雪だった。


 気づけば一月も後半に差し掛かり、初雪としては遅いくらいの季節なんだろう。


 しかし、私にしてみれば、もう永遠にこのまま時間が止まってほしいと願うような差し迫った季節だ。


 受験生。その言葉が私の体を地面に縫い付けてしまうほど重くのしかかる。

 重圧というものは重力よりも重い。


「あなたなら大丈夫よ」


 母は言う。私の両肩を押さえつけ、勉強机に縫い付けながら。


「お前の兄さんは名前も知られていないような三流の大学なんかに行くから、就職先すら碌に見つからん。もう人生は終わったようなもんだ」


 父はイヤホンで耳をふさぐ兄さんの前で言い放つ。


 兄さんとはもう二年間、まともに話をしていない。


 この家はすっかりこの夜のように宵闇に包まれてしまった。


 私は両親にとって淡く舞い散る雪のようにまっさらで、まだ真っ白い存在なのだろう。


 地に落ちれば泥にまみれて汚く踏みつぶされ、やがては溶けて土と変わらないものとなる。


 まるで、落ちろ、落ちろ、土にまみれて汚く溶けて消えてしまえ! そう言われているような重圧を日々感じていた。


 そしてその重さは日増しに重みを増していき、やがては解放を願い、祈りへと変わる。




 ☆☆☆


 街路樹の立ち並ぶ道角でおかしな格好をしたお兄さんに出会った。


 目を合わせちゃいけないと思いつつ、その姿に思わず視線が吸い寄せられる。


「どうした、お嬢ちゃん。怪しい男には近づくなと教わらなかったか?」


 案の定、煙草をふかしていたサンタクロースの格好をしたお兄さんに声をかけられてしまった。


「……今、一月ですよね……?」


「ああ、それな。俺は慌てなかった方のサンタクロースなのさ」


 それはつまり、遅刻したサンタクロースなんだろうか。


「なんかクリスマスに良いことあったか?」


 どうだろう。自分でもあれが良いことなのか、残念なことなのかよくわからないでいた。


 ただなんとなく、道角のサンタクロースには話してもいいような気がした。


 それは彼の瞳の中に街路樹の緑が差し込み柔らかな光が揺蕩っていたからか。

 おとぎ話と同じ、彼の髪の色が雪のように真っ白だったからなのかもしれない。


 彼の中に家を包み込むような宵闇の暗さを感じなかったのだ。 


「十二月二十四日に夢を見たんです。夢の中ですけど、目が覚めたら春になっていて、どこの大学かわかりませんけど、新しい生活が始まっていて、新しい友達もたくさんいて」


 照れくさそうに話す私の姿を、お兄さんは穏やかな微笑みを浮かべながら静かに聞いていてくれた。


「念願だった一人暮らしも始めていて。私これで自由なんだって、やっと解放されたんだって思ったら、涙が出るほどうれしくて……!」


 馬鹿みたいに感極まって、私は夢の中の解放感を思い出しながら、気づけば頬を濡らしていた。


 お兄さんはふわふわの袖口で私の頬を優しくなでると、サンタクロースには似合わない仕草で懐を漁りだす。


 見つけた煙草に火をつけると、紫煙を吐き出しながら街路樹に背を預けて私に聞いた。


「つまり、お嬢ちゃんはプレゼントに自由が欲しいと願って正夢になったわけか」


 涙を自分のハンカチーフですべてぬぐった私はそんなわけないでしょうと言った。


「サンタクロースさん、春はまだ早いですよ」


「春はじきにやってくる。君の夢も、願いも、祈りも、じきに叶うよ。プレゼントはじきに届く。サンタクロースはクリスマスの間はよい子にプレゼントを配るんだ。じきにね」


 じきに。随分と曖昧な言葉だなと思った。


 けれどまぁ、クリスマスに遅刻してしまうようなサンタクロースは時計を持ち合わせていないのだろう。


「聞いてくれてありがとうございます。少し気持ちが軽くなりました。私もじきに解放されると信じてもう少し頑張ってみようと思います」


 お兄さんにお辞儀をして踵を返した。


 後ろから追いかけるわけでもなく、ただ、そこに置いておくだけの言葉が残された。


「季節は巡る。クリスマスは毎年来る。プレゼントはじきに届く。君のもとにも、じきにね」


 時間と約束に曖昧なサンタクロースとはそれきり会わなかった。


 だが、お兄さんの言葉は正しい。季節は巡る。クリスマスは毎年来る。


 大学生になったある年のクリスマスの夜、お兄さんと再び出会った──家の中で。


 今夜──クリスマスの夜はとにかくおかしなことばかりだった。


 同じ道を歩いている。


 もう何度も同じ道角に行き当たった。


 行き止まりではない。それがかえって不気味だった。


 ここが終点であれば、囲いに覆われて、これ以上先がないというなら、誰だって諦められるだろう。


 しかし、大通りに面した道角では道の先にまだ道があるから、永遠に迷ってしまう。


 牢屋よりも堅牢な出口のない迷路に迷い込んだようで、先ほどから胸の中がざわついていた。


 そもそも友人たちと予約した店はこんなに入り組んだ道にあるようなレストランではなかった。──そもそも必死になるほど行きたい場所なんだろうか。


 サークル同士で寄せ集まった軽い合コンをクリスマスパーティーという素敵な包装紙で呼び名を変えただけの集まりだ。


 試しに遅れていることを詫びるために友人の一人に電話を入れたら、もうパーティーは恙なく行われていた。


 最初から数合わせの私が行かなくても滞りなく開催されるクリスマスパーティー。


 私はサンタクロースではない。ましてやプレゼントなどという大層なものには到底及ばない。


 真っ赤でどろりとした液体が胃の中をボトリと落ちていった。


 ナビでも道角で途切れた地図は、家に帰るための駅までの道のりは正確に示しだした。


 画面が赤い字で埋まるようだった。帰れ──帰れ帰れ帰れ。お前には相応しくない。


 スマホから伝わるメッセージは帰宅を促すもの。重圧からの解放を許さない警告音が鳴り響く。


 自分でも似合わないことをしたなと、ため息を白い息と一緒に吐き出した。


 けれど、自宅に帰ってからもおかしなことは続いた。


「高級肉の詰め合わせが贈られてきたのよ」


 母が上機嫌に笑う。


 真っ赤な花が敷き詰められたかのように、桐の箱の中でそれは咲いているように視えた。


 送り状を視れば高級デパートの名前が刻印されている。


 家族のだれもお得意様ではない。私もデパートで売られている高級なコスメティックの一つや二つは化粧ポーチに忍ばせているけれど、この店で買ったわけではない。


 おかしくはないかと言う私に父まで上機嫌にビールをあおりながら豪快に笑った。


「クリスマスなんだ。サンタクロースからのプレゼントだろう」


 サンタクロースと聞いて思い出すのは、道角で出会ったお兄さんだ。


 私にはいつまでたっても、お兄さんの言う“じきに”という時期は来ないようだけど。


 砂粒を飲み込んだように喉の奥がざらざらとする。


 唐突に嗅ぎなれない椿の香りを嗅いだせいだろう。


 振り返れば兄さんが風呂から上がってきたところだった。


「兄さん、シャンプーを変えたの?」


 ふいと、相変わらず何も答えずに兄さんはイヤホンを耳にはめると自室に向かった。


「ふん、花の香りのシャンプーなど色気づきおって。まさかろくでなしのくせに女でもできたか」


「あら、でもあなた、いい香りよ。あなたも晩酌を始める前に入ってきたら」


 高級な肉のさしを目を細めて見る父は、そうだなと舌なめずりをして風呂へ向かった。


 母は早速ステーキにすき焼きと、夕飯の準備を始めている。


 まさか今夜一晩で食べきるつもりなんだろうか。


 五人前はありそうな肉の詰め合わせを見ながら、私の舌は花を模した石を噛み砕いたかのように歯の隙間から血が流れ出るように感じた。


 こんなものを口に入れたら腹が裂けて内臓が飛び出してしまうに違いない。


 わけのわからない不気味な贈答品に対して、私はなぜか拒否感と恐怖心をぬぐえないでいた。


「あなたも先にお風呂に入ってきなさい」


 黄金色のウジ虫がちょん切るように母の首元を這っている。


 高級なネックレスなんだろう。おそらくはこれも贈答品で──私にはウジ虫にしか視えない。


「──私は最期でいいわ」


 椿のように散ってしまうのなら、きっと一番最後がいい。


 高級な肉から滴り落ちる赤い血は斬首で弾け飛ぶ首の肉から飛び散ったものに視えた。


 出口はない。袋小路でもない。先はあるのに迷うのなら迷い続けて最期まで──


 おそらくナビは私の目的地など示せなかったのだろう。


 首からぞわぞわと赤い椿の花の泡が這い寄ってくる。


 この宵闇が終わるまで一番長く首をぶら下げているのは哀れな最初の犠牲者たち──花弁のような肉から滲み出す真っ赤なしみを視つめながら、そんなことを考えていた。


 無論、これはおかしな夜に狂わされた私の想像に過ぎない。


 けれど、やはりこの夜はどこかおかしかった。

 

 その夜は浴槽の中で聞きなれない木霊するような何かを削る音を聞いた。


 木を切るには遅すぎる時間帯。大体、家の中に生木など植えてはいない。


 それに、さすがに室内でバーベキューは母もメニューに入れていないだろう。


 なんだか不気味な感じがして温かな湯船の中で私の体は芯まで冷えてきた。


 ボトリ。


 椿の花が落ちるような音と、何かの潰れ落ちた真っ赤な色が天井から滴り落ちてきた。


 ぽた、ぽた、赤いしみが湯船に落ちると、ぴちゃん、と跳ねる。そしてじわっと広がっていく。まるで赤い花びらが咲き開くように、しみは湯船のお湯の中で広がっては溶けて消えていった。


 単なる想像が現実になっていくようで、カチ、コチ、と音を立てて歯が鳴った。


 ──あんな狂ったことを私が想像したから……?


 落ちろ! 雪のように土にまみれ汚く溶けていなくなれ! と、視えない重圧がまた私に押し寄せるようだ。


 赤いしみのように最初から色はついていなくても、私も落ちれば汚く土くれとまみれて踏みつぶされていく。


 どくん、どくん、と鼓動が脈打つ。ギコ、ギコ、ギコ、ギコと家の中では重圧の音が響く。


 その時、声が聞こえた。


 兄さんはイヤホンを外していたのだろうか。珍しく大きな声で遠くへ、はるか遠くへ──叫びにも嬌声にも似た響きが宵闇の向こうへ運ばれていく。


 けれど、家を包む宵闇は兄さんの声も弦を切るようにピタリと止めてしまう。


 冬の夜の静寂へと音は吸い込まれて、くちゃくちゃに嚙み砕かれて消えていった。


 後に残る音は、ぴちゃ、ぴちゃ、ぴちゃ、ぴちゃ、水が跳ねるようで、赤いしぶきが飛び散って──


 思わず叫び声を上げそうになった。


 これ以上、浴槽に沈んでいても鳥肌が立つだけだ。


 浴槽から上がり、最後にシャンプーをしながら、こんなものは妄想に過ぎないと頭の中で何度も何度も自分に言い聞かせた。


 花の香りが私を包み込む。音は次第に止んでいく。


 家族は全員居るはずなのに、私はまた、おかしなことを考え出す。


 ──この家に誰かいるの……?


 浴室に狂おしいほど椿の香りが立ち込める。


 湯気が曇らせた鏡に、ぼやけた姿の私が映し出された。


 鏡に映る白い泡を見つめて思い出す。──今夜はクリスマスだった。


 すとんと胸の中にその姿が収まった。


 ──なにも可笑しくなかった。


 ──今夜はサンタクロースがやってくる。


 着替えている間に私の震えも止まった。


 鈴かな足音でリビングへ足を踏み入れた。


 鎖で繋がれた宵闇はいつのまにか解き放たれ、真っ赤な壇上の幕は降ろされた。


 日常という劇はクリスマスの夜に限り、悪夢も奇跡と見紛うような魔法にかかるのだろう。


 それはきっと、サンタクロースが気まぐれに届けてくれる的外れなプレゼントによって。


 惨劇の跡──リビングの中央に立ち、私を見つめるサンタクロース。


 先の見える道角でくゆる紫煙と赤い立ち姿──街路樹の気配を纏ったまま。


 けれど──真っ白だった髪の先まで真っ赤に染まったお兄さんの指の先まで真っ赤な血で濡れていた。


 肩に背負うバスケットボールをごろごろと詰め込んだような真っ白い布袋。

 白い布から香は椿。


「今年は間に合ったよ」


 お兄さんはそう言って、街路樹を映しこんだような瞳を細めて微笑む。


 自身の頭髪から香るシャンプーは椿のようであり、されど、それが泡としても、香りとしても、単なる石鹸であったとしても、重圧から香るサンタクロースのようであり──お兄さんはそれが当然のように私に手を伸ばす。


 まっさらで真っ白い袋の中から、恨めしい顔をした椿が並んで私を見つめているようだ。


 わからないかなぁ──


 踏み潰すは赤い花。汚れ落ちるは雪のひとひら。


 先が見えても迷わない。


 私も舞い散る間は鮮やかなまま白く淡く──あるがままに。


 真っ白なあなたと二人、赤く染まるのなら──夢のような包みを開けていく。


 私は手を差し出して微笑む──それが悪夢でも、たとえこれが逆夢としても。


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