序章 【少女と凶夢。】

【落下。】


少女は夢を見ていた。

暗い暗い穴の底へ、どこまでも堕ちていく夢を。


底はなく、落下は永遠のように続いた。服の袖は風に巻き上げられ、ゴォォ……ッと耳を切り裂く轟音が世界を満たす。時おり、耳を押さえつけられたようなキィィンとした密閉音が混じり、

何が上で何が下なのかさえ曖昧になる。


自分が落ちているんだと気づいた瞬間、少女の胸に湧いたのは——

“死”への本能的な恐怖と、

”この底はどこに繋がっているのか”という、幼い好奇心。その2つが奇妙に溶け合った、名の無い感情だった。


やがて、視界に無数の光の粒が生まれ、上下に漂い始めた。

その光が最も激しく脈打った時に少女は悟った。


——ああ、これが自分の始まりなのだと。








          2、





【着地。】


ドサッと鈍い音を立てて少女の体は地面に叩きつけられた。

耳鳴りが世界を覆う。

キィーン…………ザザザッザザッザ………ザッ

手足の感覚は無く、瞼ばかりが開いては閉じ、

霞む視界に入り込む光を必死に追う。


ようやく体に重さが戻ったのは、前のめりになるように動いた瞬間だった。

顎から地面へ崩れ落ち、思わず「い……痛っ」

と声が漏れる、じんとした感覚が神経を通る。


視界がはっきりしてくる。

少女——アリスは自分の細白い指を見つめた。

青みがかった銀髪が顔にかかり、微かな風にふわりと揺れる。


「……あれ?見える………」


そこでようやく自分が森の中の草原に転がっていることに気づいた。

葉擦れの音、”スズムシの鳴き声”草の匂い——

そして、鼻を掠めるどこか懐かしい香り


「この匂い……前にも嗅いだことがある。」


周囲には木々が鬱蒼と生い茂り、薄暗く、どこか得体の知れない気配が漂っていた。


「可愛く無いな……ここは”不気味の森だ”。」


アリスは小さく呟いた。

銀髪が肩で揺れ、透き通った群青色の瞳が、森を見上げる。空が澄み、風がサワサワと木々を鳴らした。


その瞬間、世界が息を呑むほど美しく見えた。

光が葉の隙間から、差し込み、アリスの髪を揺らし、頬を淡く照らす。


川の水音。遠くで跳ねる小動物の影。

だが——次の瞬間。

「ピトッ」小さな虫が頬にくっついた。


「ひっ……!!」


アリスの顔がみるみる青ざめていく。

バタバタと手を振り回してその場で暴れ、虫は弾かれて飛んで行った。アリスは”ムスッ”とした頬を膨らませる。


「………やっぱり不気味の森だよ…。」


そう言って深呼吸し、ゆっくりと立ち上がる。

草の感触を足裏に確かめ、森の出口へと視線を向けた。


息を整えて、決意を胸にほんの少し顎を上げる。


——そしてアリスは森の入り口へと一歩足を踏み出して行った。









          3。






【可愛い動物……】


森を抜けようと、アリスは慎重に草むらをかき分けて歩いていた。風はなく、空気は酷く乾いて、

どこか”止まった世界”のように感じられた。

やがて、耳に微かな水音が触れた。小河だ。

その手前に——それは”いた”


川辺はまるで、時間そのものが、固まったように動かない、中国神話に出てくる”麒麟”のような、生き物が、置物のようにたたずんでいた。

長い四肢、しなやかな体躯、神秘を纏う気配。

なのに、瞳は異様なほど大きく開かれ、瞬き一つもしない。まるで泥で作った人形に、命だけを無理やり流し込んだような、そんな不気味な静止。


アリスはゆっくりと近づき、震える手で体を確かめた。

——心臓が、動いていない。


ぞくり、と背筋を何か冷たいものがなぞったその瞬間だった。

麒麟の口元が、わずかに動いた気がした。


カチッ…カチッ…カチッコチッ…。


女が歯を鳴らすかの様な、湿った骨のぶつかる音

それが、不可解なほど静かに、

”耳元で囁くように” 聞こえた。


「……えっ?」


アリスが顔をあげたその瞬間、その生き物の瞳が———

横目で彼女を見た——


ニヤァァ…と、避けるほど口角が歪み、笑った。 


アリスの顔は強張り、瞼を大きく開いた。

喉から息が溢れる、恐怖に引き攣った表情の

まま、体が固まった。


目が合ったまま時間がゆっくり流れる。


次の刹那


ドンッ——。


アリスの右腕が衝撃と共に吹き飛び、遠くの草むらに転がった。

痛みが遅れて襲い、アリスの膝が地面に落ちる。


「あっ………っっ、……つ……!」


呼吸が乱れ、視界が滲む。

うつむく彼女の前で、怪物は微動だにしないまま、冷たく、凍った人形の様な瞳で見下ろしている。

その目には温度がない。ただ、人間という存在を

——いや、「弱いもの」を静かに、淡々と

——見下しているようだった。


にもかかわらず、この怪物の周囲にはどこか神聖めいた空気が漂っている。

恐怖と荘厳が同居した、理解の及ばない、


”異界の呼吸”


アリスは震える指先で地面を掴み、顔をあげた。

見上げた瞬間、怪物はまた——ゆっくりと、

裂けるほどの笑みを浮かた。


アリスは震える足でジリジリと後退した。

生き物の瞳から、決して瞬きを許されることのない氷の光がこちらを差し続ける。

その目は生者を見下す神の彫刻の様に冷たく。

しかし、同時に底の見えない深淵の悪意を湛えていた。


———逃げないと殺される。


アリスは痛みで震える体を引きずる様にして逃げだした。

けれど走りながら分かってしまう。あの怪物は追ってきていない。なのに、逃げれば、逃げるほど

背中に”確実に届く気配”だけが重くのしかかる。

逃げても無意味だと、誰かに囁かれているような。


勇気ではなく、本能に突き動かされ、アリスは

ふと後ろを振り返った。


そこにはまだ、ポツンと佇む怪物。

“一歩も動いていない”

だが、その首はありえない角度——九十度に、

ゆっくりと傾いていた。

まるで首の関節という概念が存在しないかの様に

その口は笑っている、生きてもないくせに。

裂けた口元がさらに開かれ、呪文めいたものをブツブツと呟いていた。


「……いや……いやだ…」

まるで止まっていた時計の秒針がカチリと動き出すようだった。


背後からただならぬ禍々しい殺気がアリスの背中に押し寄せた。


—————“来るっ”


“音”もしない。”足音”がない。


それでも確実に、背後は迫っている気配がする。

足を動かさなくても、この世界を滑るように

移動しているのが分かる。


「あっ………くっ…」


とうとう足をくじき、地面へ棒倒しに崩れ落ちた

振り返ると、あの怪物がすぐそこにいた。

前足がアリスの肩を押しつぶすようにして踏みつける。

見上げるアリスの視界に入ったのは———

首は真上を向いたまま、目だけが”下”を覗き込んでくる不気味さ。


そして、


「あは……っ、あは……っ」


乾いた、人間みたいな笑い。次の瞬間。


「アリス………アリス……」


低い、男の声で、怪物が自分を呼んでいた。


「いやっ……やだっ……っ!」


背筋を切り裂く恐怖が、喉から悲鳴を引きちぎろうとした、

殺される。殺される。嫌だっ………


その瞬間——。









          4、






【目覚め】


「っっっ!いやっ!」


「アリス?」


跳ね起きようとした頭が、勢いよく何かにぶつかる。ゴチッ。


「いったぁぁぁぁぁ、くぅぅ………………………

アリスのタックル、効くなぁ。」


メアリーがベッドの端から窓際までごろごろと、

転がっていった。


アリスは急いで駆け寄り、手を差し伸べる。

朝日が差し込み、青みがかった銀髪を淡く透かし、風がそっと部屋を抜けた。


光を受けたアリスの瞳見て、メアリーは思わず、息を呑む。


【まさしく”この孤児院”。

いや、ロンドン一美しい孤児だろう。

……もしかしたらそれ以上かもしれない。】


差し伸べられた手を掴んだ瞬間、アリスが勢いよく引き寄せたので。

二人はまたしても揃ってベッドにドサッと倒れ込む。


枕の羽がボフッと舞う。

しばし天井を見つめてから、お互いの顔があった瞬間——笑いが弾けた。


アリスはメアリーに頬を寄せてぎゅと抱きしめる


「ちょっ、ちょと……ど、どうしたの急に?

だ、大丈夫?」


メアリーが驚いた声で尋ねると、アリスは小さく目元を拭った。


「……ううん。なんでもない。」


その声は夢から解き放たれたばかりの安堵に満ちていた。

窓の外では朝の風が森を揺らし、鳥の声が新しい

一日の始まりを告げていた。



——そしてアリスはまだ知らない。

あの”夢”が、現実へと深く根を下ろし始めていることを。



【次章へ続く。】












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