第1章 第2話 観測の副作用

調査自体は、予定より早く終わった。


 内部不正の痕跡は、別のログからあっさりと見つかった。権限のないユーザによる夜間のアクセス、二つのアカウントを経由した迂回的な操作、管理テーブルの改ざん。

 証拠として十分なログを抽出し、報告書にまとめるのに、さほど時間はかからなかった。


 依頼元の会議室で、数名の役員が顔色を変えていくのを、静真はどこか他人事のように眺めていた。

 自分の仕事は、事実を提示するところまでだ。


「こちらの詳細は、添付の技術資料にすべて記載しています。質問があればメールでどうぞ」


 契約通りの丁寧さでそれだけ告げ、ビルを出る。

 午後の日差しは柔らかく、秋の空気は乾いていた。


 帰路、彼はいつも寄る喫茶店に立ち寄った。

 渋谷と新宿の中間あたりにある、小さなチェーン店だ。

 窓際の席を確保し、ノートPCを開く。

 サーバルームで記録したメモと、自分の体験を照らし合わせながら、思考を整理していく。


「三秒の欠落は、三つのレイヤーで観測された」


 彼は、ノートアプリに箇条書きしていった。


 一つ、システムログ上の空白として。

 二つ、監視映像の乱れとして。

 三つ、自身の体感として。


「ログと映像は、外部観測。体感は内部観測。……どちらも『三秒』と整合している」


 ならば、それは単純な認知の錯覚ではない。

 少なくとも、何かが連続性を持って「三秒」という単位で世界を切断している。


 カップに入ったコーヒーの表面が、エアコンの微かな風で揺れた。

 店内のBGMは、最近流行しているらしい洋楽のプレイリストに切り替わっている。


 静真は、腕時計にちらりと視線を落とした。

 午後三時一分三十二秒。


 ――サーバのログで見た値と同じ数字が、一瞬だけ頭をよぎる。


 次の瞬間、音が消えた。


 前兆は、ほとんどなかった。

 耳鳴りも、鼓動の高鳴りも。

 すべては気づいた瞬間には、すでに「起きてしまっていた」。


 バリスタがミルクピッチャーを傾ける動作の途中で止まり、隣の席の会社員らしき男が笑い声を上げかけた姿勢のまま固定されている。

 窓の外を走る車のタイヤが、地面との摩擦で生じた水しぶきの形を保ったまま、動かない。


 店内に差し込む光が、空中の塵を照らし、その粒がすべて静止している。


 時間の流れが、また、歪んだ。


 今度は、サーバルームのときよりも、明確に分かった。

 あの時の静止感覚が、脳のどこかにパターンとして残っていたのだろう。


 久世静真は、椅子から立ち上がりはしなかった。

 代わりに、テーブルの上のスプーンに指先を伸ばした。


 触れた。

 金属の冷たさも、重さも、通常と変わらない。

 ただ、その影だけが、テーブルの木目に貼り付いたまま動かない。


 彼はスプーンを数センチ持ち上げ、テーブルから離した。

 持ち上がったスプーンの下に、影が残る。


 ――世界の側が、取り残されている。


 そんな印象だった。


 彼は、視線をスプーンから、窓の外の景色へと移した。

 交差点を曲がりかけたタクシーのタイヤが、道路からわずかに浮いている。

 街路樹の葉が、風に揺れる途中で止まっている。


 時間の連続性は、彼の周囲だけでなく、店外にも及んでいるらしい。


 ある種の冷静さが、その光景を「興味深い」と評価した。


 ――どこまでが、止まっている?


 試しに、視線を遠くのビル群に向ける。

 そこに取り付けられた大型ビジョンの広告映像も、途中のフレームでフリーズしていた。

 ただ、文字の一部が正しく表示されていない。

 ノイズのように乱れたピクセルが、画面の端に三秒分だけ滞留している。


 この現象は、個別の機器ではなく、より上位のレイヤーで時間を扱っている何かが、局所的に乱れた結果なのだろう。


 どれくらい観測していたのか、自分でも正確には分からなかった。

 ただ、耳鳴りが戻り、空気が一瞬揺れたと思ったときには、世界は再び動き出していた。


 スプーンの影が、ほんのわずかに位置を変える。

 バリスタが、途中だったラテアートを描き終える。

 隣席の笑い声が、途切れることなく流れ出す。


 腕時計の秒針は、午後三時一分三十五秒を指していた。


「……三秒、か」


 偶然として片付けるには、あまりに数字が揃いすぎている。


 彼は、カップのコーヒーを一口飲み、ノートPCを閉じた。

 急いで帰宅する必要はない。

 だが、自宅の環境のほうが、実験には向いている。


     ◇


 夜。

 渋谷と新宿の中間あたり、少しだけ奥まった住宅地のマンションの一室。


 白とグレーを基調としたワンルームの中央に、静真は自分のスマートフォンを床に置いた。

 室内の時計は、二十三時を少し回ったところだ。


「実験一回目。対象は、スマートフォン。目的は、現象の再現と、自己の関与の有無の確認」


 タブレットの録音アプリを起動しながら、淡々と状況を口に出していく。

 馬鹿げていると思う感覚は、最初から切り捨てていた。


 もしこれが単なる認知の異常なら、今のうちに判別しておいたほうがいい。

 そうでないなら――仕事柄、扱う価値のある「事実」だ。


 サーバルーム、喫茶店。

 二度の現象発生時の感覚を、可能な限り細かく思い出す。

 耳鳴り。心拍数。空気圧の微妙な増減。


 そして、自分の意識の向け方。


 あのとき、自分は「違和感」を正面から見据えていた。


 ならば、その「見方」そのものに、何らかのトリガーがあるのかもしれない。


 静真は、深く一度息を吐き、室内の音をすべて意識から外した。

 冷蔵庫の低い音も、外の車の走行音も。


 自分の呼吸と、鼓動だけを基準にする。


 ――世界の連続性に、割れ目があると仮定する。


 その割れ目に、視線を合わせるイメージで、床に置いたスマートフォンを見下ろした。


 世界が、軋んだ。


 照明の光が、ほんのわずかに粘度を増したかのように重くなる。

 時計の秒針が、動きを鈍らせる。

 耳鳴りが、今度ははっきりと聞こえた。


 時間の流れが、変質する。


 静真は、右手を伸ばし、スマートフォンを持ち上げた。

 その動作は、喫茶店のときと同じように、違和感のないものだった。

 ただ、物の影だけが遅れてついてくる。


 彼は、スマートフォンを肩の高さまで上げ、手を離した。


 通常なら、一秒もかからず床に落ちるはずのそれが、

 ゆっくりと、粘性の高い液体の中を沈んでいくような速度で落下し――途中で、止まった。


 空中に浮いたまま、スマートフォンが静止している。


「……」


 驚愕というより、計測対象を得たとき特有の静かな興奮が、胸の奥をかすめた。


 視線を、掛け時計へ向ける。

 針は、二十三時〇一分一二秒を指したまま、動かない。


 世界の時間は、ほぼ止まっている。

 その中で、彼だけが動いている。


 ――少なくとも、自分の主観は、そう認識している。


 耳鳴りが強くなった。

頭蓋骨の内側を、何かがこすれるような不快感。


「限界は、近いな」


 独り言を吐き出した瞬間、膜が破れた。


 スマートフォンが床に落ち、鈍い音が部屋に響く。

 針は二十三時〇一分一三秒へ進んでいた。


 タブレットの録音を再生すると、「実験一回目」という言葉の直後に、突然スマートフォンの落下音だけが記録されている。

 その間には、何の音も挟まっていなかった。


 世界の時間軸上では、一秒しか経過していない。

 だが、彼の主観は、明らかに五秒以上の連続した経験を保持している。


「……観測が、外側に滑った?」


 言葉にしてみると、意外なほどしっくりきた。

 サーバルームで見た「三秒の抜け」を、単なる異常値ではなく、構造そのものとして解析しようとした瞬間――

 自分の認識が、世界の“補正レイヤー”に触れたのだと直感する。

 意図的に能力を得たわけではない。ただ、観測の密度が閾値を超え、その反動として時間の外側が覗けるようになっただけだ。


 自分だけが“時間の外側”に出たのか、

 あるいは、自分の周囲だけ“時間の密度”が変わったのか。


 どちらにせよ、あのサーバルームと喫茶店で起きた現象が、単なる偶然ではないことだけは確かだった。


 彼は、ソファに腰を下ろし、額を押さえた。

 鈍い頭痛が、じわじわと広がっていく。


「副作用、か」


 観測の負荷。

 あるいは、世界側の“補正”の反動。


 利得とコストを天秤にかけるのは、彼にとって自然な思考の流れだった。


 この能力――と仮に呼ぶ――が、どこまで制御可能か。

 そして、それを使う価値があるかどうか。


 その判断を下す前に、もう一つ、確認すべきことがあった。


 なぜ、自分だけがこれを知覚しているのか。


 その疑問に対する答えは、思ったより早く届いた。


 玄関のポストに、差出人のない白い封筒が投げ込まれたのは、その翌日のことだった。

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