『ワースブレイド─双メイスの修道士─』
あちゅ和尚
第1話 炎の神の修道士、もうひとりの俺
鈍い衝撃と、砕けるガラスの音がした。
ブレーキを踏む間もなく、視界が白く弾ける。
(あ、やった――)
大型トラックのハンドルを握ったまま、飯塚敦はそこで自分の五十年分の疲れを、一気に思い知った。
夜勤明け。
無理なシフト。
「まあ何とかなるやろ」と笑って、眠気をごまかしてきた結果がこれだ。
(やっぱ、どっかでちゃんと止まらなあかんかったよな……)
悔いるには遅すぎる、どうしようもない後悔。
それと一緒に、なぜか頭の片隅に蘇っていたのは――
高校一年のころ、友達と囲んだテーブルトークRPG『ワースブレイド』の卓だった。
『じゃ、カルバラ教修道士の君には、次の奇跡の試練が下る――』
あのころ、何度も聞いたゲームマスターの声。
炎の神カルバラ。
奇跡の試練。
死者蘇生まで到達した、若い天才修道士のキャラクターシート。
(ああ、そういや……あいつ、三十五歳って設定やったな――)
そこで、世界がぷつりと途切れた。
◆
冷たい石の感触が、背中にあった。
硬い。
トラックの運転席とは、似ても似つかない。
敦はゆっくりと目を開けた。
石造りの天井。
ひび割れた梁に、乾いた藁のにおい。
そこは、見慣れた日本の病院でも、車の中でもなかった。
(……は?)
思わず体を起こす。
その動きが、あまりにも軽かった。
腹も、腰も、肩も痛くない。
数年前から悩まされていた鈍い腰痛も、こわばった膝の違和感もない。
視界の端で、何かが揺れた。
濃い赤茶色のローブ。
胸元には、炎を模した紋章の刺繍。
自分の両手を見下ろす。
太く、節くれだった指。
鍛えられた前腕には、革の腕当て。
肌は陽に焼け、五十の中年男にはありえない張りを取り戻していた。
「……三十五ぐらい、か?」
思わず、独り言が漏れた。
声も違う。
トラック運転手として酷使した喉ではなく、よく通る低い声だった。
壁にもたれかかっていたのは、二本の棍棒――いや、違う。
一目で分かる。
片手用のメイス。
人の上半身ほどの長さの柄に、鈍く光る打撃頭。
柄の根元には、それぞれ細かな聖刻文字が刻まれている。
一方には《OVERTAKER》、もう一方には《UNDERTAKER》。
英語読みに慣れた目には、あまりにも懐かしい綴りだった。
(オーバーテイカーと、アンダーテイカー……)
近づいて見て、そこで気づく。
二本の柄の端には、かみ合わせのできる金具がついていた。
一方には穴、もう一方には突起。
差し込み、ひねれば、一本の長い棍になる構造。
両端にメイスヘッドを持つ、三メートル近い“打撃の棒”。
(そうそう。馬の上から振り回す用に、こういう仕様にしたんやったな……)
敦――いや、この体の本来の持ち主の記憶が、そこで一気に頭の中に流れ込んできた。
◆
カルバラ教。
炎の神を奉じる宗教。
貧しい村の三男坊として生まれた少年は、寺院に預けられ、修道士として育てられた。
祈りを学び、奇跡を学び、
いくつもの試練を越えるたびに、炎は彼に応えて力を貸してくれた。
小さな傷を癒す奇跡。
火傷を和らげる奇跡。
炎から身を守る加護。
そして極めつきは、
“死者をひとり、生き返らせる”奇跡。
神から与えられる「試練」は、どれも過酷だった。
魔物に襲われた村を救うこと。
闇に呑まれかけた聖地を、炎で照らし続けること。
自分の大切な誰かを、選んで切り捨てねばならない場面もあった。
それでも彼は、すべてをくぐり抜けた。
若くして、ほとんどの奇跡を使いこなす修道士。
炎の神に愛された男。
名前は――
「……カイ、・ヴァルナード」
口が、勝手にそう名乗った。
同時に、別の記憶がその名前を追いかける。
高校一年の夏。
友達と囲んだ『ワースブレイド』の卓で、敦が作ったキャラクターの名前も、たしか同じだった。
カルバラ教修道士、カイ・ヴァルナード。
遺跡で見つけた二本のメイス――オーバーテイカーとアンダーテイカー。
ほとんどの奇跡の試練をクリアし、人を生き返らせるほどの力を持つ天才修道士。
(……おいおい。
これ、完全に“俺が昔やってたキャラ”じゃないか)
頭の奥が、じんじんと痛む。
五十年分の「飯塚敦」の記憶と、
三十五年分の「カイ・ヴァルナード」の記憶が、同じ場所を奪い合っているようだった。
けれど、不思議と吐き気はこない。
ふたつの人生は、最初からそういうものだったかのように、
ゆっくりと一つの流れにまとまり始める。
「ここは、ワースの世界……か」
口に出してみると、妙にしっくりきた。
石の天井。
粗末だがよく手入れされた聖堂の床。
壁際には、カルバラの炎を刻んだ石盤と、小さな祠。
そして――
外から聞こえてくる、馬のいななき。
◆
聖堂の扉を押し開けると、ひんやりとした夜気が頬を撫でた。
外は、もう薄暗い。
小さな集落のはずれに建つ巡礼用の小聖堂。
その前の土の広場に、一頭の馬が繋がれていた。
黒に近い濃い栗毛に、白い鼻筋。
筋肉のよく発達した軍馬だ。
名前を呼ぶ前に、体が勝手に近づいていく。
「……よし、いい子だ」
首筋を撫でてやると、馬は鼻を鳴らして顔を寄せてきた。
長い付き合いの相棒に対する、当たり前の反応。
「お前は、マツカゼ、だったな」
高校のころ、敦はこの馬に「松風」と名付けた。
聖刻世界には似合わない、日本の古い名。
だが、カイの記憶の中では、いつの間にかそれが「マツカゼ」という音の名に変わっている。
馬がまた鼻を鳴らした。
肯定とも、呆れともつかない反応だ。
(――本当に、ワースの中に来ちまったんだな)
信じがたいが、否定する材料もなかった。
手を握りしめれば、筋肉はそれに応えてくれる。
メイスを持てば、重さもバランスも、昔キャラクターシートに書いた通りだと分かる。
炎の紋章に触れれば、胸の奥で、
カルバラの名を呼ぶ祈りの形が自然と組み上がる。
わざわざ「これは夢です」と言ってくる親切な声がない以上、
目の前の現実を受け入れるしかない。
「――さて」
そこで、ようやく「今」の状況に意識が戻ってきた。
この聖堂に来た理由。
この地方に派遣されたわけ。
カイ・ヴァルナードとしての直近の記憶が、ゆっくりと浮かんでくる。
最近、この辺りの街道で、旅人の失踪が相次いでいる。
山賊か、魔獣か。
あるいは、別の何かか。
カルバラ教の本寺から、
「炎を携え、調べよ」と命じられたのがカイだった。
聖堂は、そのための拠点だ。
今夜はここで一泊し、明日から本格的に街道沿いの村々を見て回る――はずだった。
だが。
◆
耳に、嫌な音が飛び込んできた。
遠くで、鐘が鳴っている。
乾いた、金属を叩き鳴らす警鐘の音。
夜に叩かれるそれは、決まってろくでもない知らせだ。
マツカゼが、神経質そうに耳を伏せた。
街道の先。
小さな村がひとつあるのを、カイは知っている。
そこで、最初の聞き取りをするつもりだった場所だ。
「……間が悪いな」
思わずため息が漏れる。
五十年のトラック運転手としての癖と、
三十五年の修道士としての習慣が、同じ感想を選んでいた。
苦笑しながらも、カイは迷わずメイスを取る。
二本を手に取り、柄の端同士をかみ合わせる。
差し込み、ひねる。
金具が小さく鳴り、
オーバーテイカーとアンダーテイカーは一本の長い棍になった。
両端に、重いメイスヘッド。
馬上からでも敵を薙ぎ払える、長さと重さ。
ローブの下には、簡素な鎖帷子。
腰のポーチには、油の入った小瓶と、
カルバラの紋章を刻んだ小さな護符。
装備を整える間にも、鐘の音はやまない。
何度も何度も、短く、重ねて叩かれている。
あれは、火事でも魔獣でもない。
「街道から何か来た」とき、村人たちが叩く合図だ。
「よし、マツカゼ」
手綱を握ると、マツカゼは小さくいななき、大人しく首を差し出した。
カイはひらりと背に飛び乗る。
若い体は、想像以上に素直に動いた。
五十の身体では、こうは行くまい。
(――二度目の人生、か)
口に出すことはない。
だが、心のどこかで、
飯塚敦としての自分が苦笑しているのを感じた。
マツカゼの腹を軽く蹴る。
軍馬は素直に街道へと駆け出した。
◆
夕闇に沈みかけた丘を越えると、
目指していた村が見えた。
つつましい木の柵。
数十戸ほどの小さな家々。
その入り口付近で、火の光が乱れている。
悲鳴。
怒号。
獣の吠え声。
「魔獣か、山賊か……」
カイは無意識に、手の中の棍――二本のメイスをつないだ武器に力を込めていた。
柵の手前でマツカゼを止める。
状況を一瞬で見て取る。
村の入り口に、三つの影。
粗末な鎧に身を包んだ男たちが、
村の若者と思しき数人を蹴散らしている。
その背後では、
黒い毛並みの大きな犬のような魔獣が、柵を噛み砕いていた。
見慣れた光景だ。
街道沿いに湧く山賊崩れと、
どこかで仕入れた魔獣。
襲いやすい村を選び、
手当たり次第に略奪する連中。
(――やれやれ。時代も世界も違っても、やることは変わらないか)
荷を狙う連中も、守るものを踏みにじる連中も、本質は同じだ。
カイは、馬上で短く祈りの言葉を口にした。
「炎のカルバラよ。
我が腕に、守るべき者のための力を」
胸元の護符が、かすかに熱を帯びる。
両端のメイスヘッドに、
薄い炎の紋様が浮かび上がった。
金属が赤く染まり、
打ち込んだ先にだけ、鋭い熱を残す。
爆発するような火球ではない。
だが、狙った場所を確実に砕くには十分な力だった。
「カルバラ教修道士、カイ・ヴァルナードだ!」
声を張る。
山賊たちが、こちらを振り向いた。
その一瞬の隙を逃さず、カイはマツカゼの腹を蹴った。
軍馬が、短距離を一気に駆け抜ける。
最初の山賊が、驚いて剣を構えた。
「な、なんだお前――」
「炎に焼かれて眠れ」
返事代わりに、カイは長棍を横薙ぎに振り抜いた。
両端のメイスヘッドのうち、手前側が男の剣ごと胴を打ち据える。
金属が軋み、骨が砕ける感触。
宿った炎が、男の鎧に走った。
燃え上がるのではなく、
内側に向かって、熱だけを叩き込む。
叫びをあげる暇もなく、男は地面に崩れ落ちた。
マツカゼをその場で回転させ、
勢いを殺さずにもう一度振るう。
反対側のメイスヘッドが、
別の山賊の肩口を上から叩き落とした。
人間相手なら、一撃で十分だ。
残る一人が、青ざめた顔で後ずさる。
背後から、魔獣の唸り声が響いた。
大きな犬にも似たそれは、
目だけが不自然なほど赤く光っている。
何か、刻まれている。
カルバラ修道士としての目が、それを見逃さなかった。
(……呪刻か。
どこかの工呪師が、余計な真似をしたな)
完全な野生の魔獣ではない。
誰かの手で刻まれた呪印が、その行動を方向づけている。
つまり――
「お前らの後ろには、誰がいる?」
カイは、棍を構えたまま問いかけた。
山賊は、恐怖に顔を歪める。
「し、知らねえよ! ただ、ここを焼けって――」
そこまで言いかけた瞬間、
魔獣が山賊の背中に飛びついた。
牙が、喉を噛み千切る。
血飛沫と悲鳴。
それをかき消すように、魔獣の目がさらに赤く輝いた。
「……なるほど」
カイは、短く息を吐いた。
「口封じ込み、か。
手の込んだ真似をする」
マツカゼの頭を軽く撫で、前に出る。
魔獣がこちらを見た。
その目には、知性のかけらもない。
ただ、「焼け、壊せ、喰え」という命令だけが詰め込まれている。
それでも。
「悪いが――」
カイはマツカゼから飛び降りた。
地面に着地した勢いを利用して、棍の中央に手をかける。
金具をひねる。
かちり、と小さな音がして、
一本だった武器が、ふたつに分かれた。
右手にオーバーテイカー。
左手にアンダーテイカー。
両手に一本ずつ構えると、体の重心が自然と落ち着いた。
「ここから先は、歩きの仕事だ」
炎の紋章が、胸で熱を増した。
カルバラの名が、自然と口をついて出る。
「炎の神よ。
この村を、今夜だけでも照らし守れ」
魔獣が飛びかかってくる。
カイもまた、その動きに合わせて踏み込んだ。
現実感のある土の感触と、
重量を乗せたメイスの振り抜き。
そのすべてが、五十歳のトラック運転手だった頃には、
決して味わえなかった種類の“生”だった。
(――さて。
二度目の人生、
この世界では、どう線を引き直してやるか)
アンダーテイカーが、魔獣の顎を下から跳ね上げる。
オーバーテイカーが、その首筋を横から叩き折る。
炎の加護が、呪刻を焼き払う。
夜の村に、
ようやく鐘の音以外の声――安堵の叫びが、少しずつ戻り始めた。
それは、
炎の神カルバラの修道士としての旅路と、
飯塚敦としての二度目の人生が、
ゆっくりと動き出した瞬間でもあった。
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