さて、或る日の事。此の日は男にとり、大切な日でありました。母の、命日。男の母は大変に病弱でした。街を包む黒煙に何時しか躰を蝕まれ、帰らぬ人となった男の母は、決して裕福とは言えぬ環境で、女手ひとつで男を育て上げたのでありました。其の母のお陰でしょうか、男は人一倍、優しく育ったのでありました。その母を、自分で看取る事も叶わなかったのですから、此の日に懸ける男の思いは、大変に大きなものでありました。

 汗水を垂らして働いた後、男は墓に供える花を探し、暗くなった街に出ました。煤汚れを其の侭に無精髭を撫でる彼は、街明かりに照されども黒く、まるで闇そのものの如く在りました。

 しかし花屋の、足下を見た値段付けに、ただの二ポンドぽちを握りしめた男は絶望に暮れました。又、不甲斐のないことも感じました。嗚呼、私は唯一人の肉親に花すら手向けられぬ、仕様のない男だ、と。

 此の様なナーヴァスを抱え、とぼとぼと歩いていた彼の前に、一人、花売りの女が現れました。そうして女は自分の手から提げた網籠から一輪、白い花を取り出して、男に渡して笑いかけたのです。

 男は、夢を見ているのだと感じました。天女が如く現れた女が男にした、この都合の良いことは、まるで現実には思われなかったのでありますが、それでも起ったに違いありませんでした。男は、花を受け取りました。氷が如く冷たく、雪像が如く白い手に、男は何か、親近感に近しいものを受け取りました。

 男は、有り難う、と言いました。女は、どう致しまして、と返しました。男は持ち合わせた二ポンドを籠に入れ、百メートル先に在る、教会の墓地へと向かいました。空には大きな黒い雲が差しておりました。


 向かう路の中で降りだした雪に凍えながら、男は花を替えました。花売りの女から貰った白い花を手向け、蝋燭を立て、亡き母を想いました。

 手を合わせ、目を瞑って暫く経った時、男の躰は奇妙な違和に襲われました。脚が痺れ、頭が朦朧とするのです─今にしてみれば此れは、其の日暮らしの生活が祟ったかに思われます─。

 気がついた頃、既に男の体は降り頻る雪の下に伏してしまっていました。


 目の覚めた男の先ず認めたのは、その高い天井でありました。シャンデリアが照している様を見るに、男は教会のベンチに横たわって仕舞っている様でした。むくりと起き上がると、一つ前の席には神父が座って居りました。

 目が覚めた哉、と問う神父に、ああ目が覚めた、私は一体どうして仕舞ったのだ、と返答をした。神父の言うには、私が思うに、君は墓参りをしていただろう、そこで気を失った君を私が見つけ運び込んだのだ、という事でありました。

 神父の出してくれたラテを口に含み、無精髭を撫でながら、男は、自身の不甲斐なき事を嘆き出しました。私は恵んでもらって尚、一人の足で立つこともままならぬ、弱い人間ですから、きっと亡き母も、私を恥だと思うに違いないのです、仕様のない屑だ、そうだ私は屑だ、と。

 神父はその間、男の弱音を、只、黙って聞いていたのでありました。男が再びラテを口にして落ち着きを孕んだ時、今度は神父が口を開きました。

 私は貴方の母を知らぬが、きっと彼女は必死に今を生きる我が子を恥に思う事は無い、況して我らが主が、きっと貴方に加護を与えて居られるのだから、自信を持って生きるのが宜しい、と。神父の言葉に、男は涙を流して、主の像へ額をも擦り付けたのでありました。


 去り際に神父は、男に傘を渡しました。何時かの墓守の忘れ物の、黒い傘でした。男は其れを受け取り、神父を抱擁しました。男の細い腕が神父のローブをしかと掴み、其の弱々しく強い事に神父は抱擁を仕返しました。

 降り頻る雪の中、空気は冷たかったのですが、男は何処か温かいことを感じて居ました。其れはきっと、傘のお陰と言うだけに留まらぬものでした。

 そうして男はまた、薄明の差し始めた街に戻っていったのでありました。

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