THE COMMISSIONER(ザ・コミッショナー)

@neko810

第1話 墓標に降る雨

1


 雨が降っていた。  それは慈悲ではない。ただ冷たく、ここに埋められたものを洗い流そうとしている雨だった。


 アレックス・ソーンは、傘もささずに錆びた金網越しにグラウンドを見下ろしていた。  かつてここは、ホットドッグの匂いとオルガンの音色、そして何万という歓声が渦を巻く「ボールパーク」だった。  いま残っているのは、雑草に侵食された内野と、黒ずんだマウンド、そして歯の抜けた老人の口のようなスタンドだけだ。


 ソーンの視線は、マウンドの一点に釘付けになっていた。  雨音に混じって、あの日の音が聞こえる気がした。


――ブチリ。


 人間の身体からしてはいけない、乾いた破裂音。


『すまない、あと1試合だ。あと1つ勝てれば、俺たちはポストシーズンに行ける』


 そう告げたのは、GMだった自分だ。  主力投手が次々と故障し、ブルペンが焼け野原となったあの夏。残された唯一の希望がマイケルだった。


 ソーンは自身のキャリアとチームの勝利のために、20歳の天才ルーキーの右腕を「燃料」として燃やし尽くした。


「……ひどい顔だぞ、アレックス」


 背後から声がした。振り返らずとも分かる。長年の右腕、ベンだ。


「亡霊でも見たか」


 ベンが隣に並び、安物のタバコに火をつけた。紫煙が雨に混じって消えていく。


「……ああ」


 ソーンは短く答えた。


「ここには、埋められた夢が多すぎる」


「オーナー連中は『不景気のせいで球団が死んだ』と言い訳してるがね」


「不景気? 笑わせるな」


 ソーンは冷ややかに吐き捨てた。


「これは『寿命』じゃない。『殺人』だ。奴らはコストを削るために、投資という餌を絶った。そうして、このチームをゆっくりと餓死させたんだ」


 投資を惜しみ、補強をケチり、ファンを裏切り続けた結果がこれだ。  そして、その「ケチなシステム」の末端で、現場の人間は勝利のために若手をすり潰すことを強要される。


 あの日、マイケルの右肘と一緒に、ソーンの中の何かも死んだ。


「それで? お前はその殺人犯たちに雇われるってわけか」


 ベンの言葉には、明確な軽蔑が混じっていた。


「大手コンサルタント様が、今さら泥船に乗って何をする気だ?」


 ソーンは濡れた髪をかき上げた。雨水が頬を伝う。


「毒を盛るには、まず皿まで近づかなきゃならない」


「……また物騒な比喩だな」


「比喩じゃないさ」


 ソーンの声に、温度はなかった。


2


 マンハッタンの高層ビル、最上階。  外の荒廃とは無縁の、空調の効いた重厚な会議室。


 マホガニーの巨大なテーブルの奥に、プレストン・スターリングは鎮座していた。  60代半ば。不動産王。そして、あの日、ソーンの球団に補強費を出さなかったオーナーグループの筆頭。


 彼が燻らせる葉巻の煙が、部屋の空気を淀ませている。


「座りたまえ、アレックス」


 スターリングは、まるで躾のなっていない犬を見るような目でソーンを見た。


 ソーンは無言で革張りの椅子に腰を下ろした。  胃の奥が焼けつくようだ。この男の喉元に食らいつきたい衝動を、理性の鎖で必死に繋ぎ止める。


「君が『ウォール・ストリート・ジャーナル』に寄稿したコラム、読んだよ」


 スターリングは手元のタブレットを指差した。


「『スタジアムにロマンは不要。必要なのは収益構造の最適化だ』……。素晴らしい考えだ。かつての野球少年も、現場での失敗を経て、ようやく大人のビジネスを知ったようだな」


 ソーンは表情一つ変えずに答えた。


「……恐縮です。負け続ければ、嫌でも数字の重みは覚えますよ」


 心の中では舌を出している。  あのコラムは、この男たちの歓心を買うためだけに書いた、吐き気がするような”作文”だ。  だが、その擬態カモフラージュは完璧に機能していた。


「単刀直入に言おう」


 スターリングは分厚いファイルをテーブルに滑らせた。


「次期コミッショナーの契約書だ。年俸は現在の5倍。……悪い話じゃないだろう?」


 ソーンは契約書に視線を落とすが、手は伸ばさない。


「なぜ私なんです? スターリングさん。他にも候補はいたはずだ」


 スターリングは鼻で笑った。


「フン。弁護士や政治家は使いにくい。だが君は現場を知り、その上でビジネスの論理ロジックに転向した。一番話が通じる」


 彼は身を乗り出し、爬虫類のような冷たい笑みを浮かべた。


「我々が必要としているのは、改革者ビジョナリーじゃない。……『清掃人ジャニター』だ」


「清掃人、ですか」


「そうだ。うるさいマスコミを黙らせ、生意気な選手会を適当になだめ、我々の財布を守る。それが君の仕事だ」


 スターリングは葉巻の灰を、クリスタルの灰皿に乱暴に叩き落とした。


「余計なことは考えるな。ただ、我々の番犬になればいい」


 ソーンは沈黙した。  脳裏に、ベンチ裏で泣き崩れるマイケルの姿がフラッシュバックする。


『痛い、痛いです、GM……腕が……』


 あの時、この男がわずか数億円の補強費さえ出していれば。


 いや、それを言い訳にして若手を壊した自分こそが、誰よりも罪深い。


 スーツを着た死神。それが今の自分だ。  だからこそ、この連鎖を終わらせなければならない。


 ソーンはゆっくりと顔を上げ、完璧なコンサルタントの仮面を被った。


「……分かりました。謹んで、お受けします」


「賢い選択だ」


 ソーンは胸ポケットから万年筆を取り出した。  ペン先が紙に触れる瞬間、彼は心の中で誓った。


(これが、お前たちの死亡診断書だ)


3


 会議室を出ると、夜景が広がっていた。  摩天楼の光の一つ一つが、金に見えた。オーナーたちが独占し、決して吐き出そうとしない金。


「サインしたのか」


 地下駐車場で待っていたベンが、運転席から尋ねた。


「ああ。魂を売ってきたよ」


 ソーンは助手席に滑り込み、ネクタイを少し緩めた。


「正気か? あいつらは骨の髄まで腐ってる。番犬として使い潰されるのがオチだぞ」


「ベン」


 ソーンの声のトーンが変わった。低く、鋭く、獲物を狙う捕食者の響き。


「奴らは勘違いしている。番犬を雇ったつもりだろうが……家に招き入れたのは『狼』だ」


 ベンが眉をひそめる。「狼?」


「奴らには致命的な弱点がある。分かるか?」


「うーん……強欲さ? いや、それしかねえか」


「正解だ」


 ソーンは窓ガラスに映る自分の顔を見つめた。  そこにはもう、従順な「清掃人」の顔はなかった。


 あるのは、この数年間、敵の懐事情を調べ上げ、破滅へのシナリオを書き続けてきた冷徹な策略家の顔だ。


「奴らは金のためなら、どんな罠にも食いつく。たとえその先に断崖絶壁があろうともな」


「おい、まさか……何を企んでる?」


 ソーンは口の端を歪めた。


「まずは餌を撒く。とびきり甘くて、猛毒の入った餌をな」


「毒餌?」


「『球団拡張エクスパンション』だ」


 ベンが息を呑んだ。「球団を増やすだって? 選手会が黙ってないぞ。日程も過密になる」


「黙らせるさ。だが、まずはオーナーだ。  いいかベン、今のMLBの放映権バブルは弾ける寸前だ。オーナーたちは内心、将来にビビってる。  そこに、俺がこう囁くんだ」


 ソーンは指を弾いた。


「『新規参入する2球団から、過去最高額の加盟料を徴収します』とな」


「……いくらだ?」


 ソーンは短く答えた。


「60億ドルだ」


 ベンが咳き込んだ。


「ろ、60億ドル……!? いくらなんでも高すぎやしないか? 誰が払うんだ」


「払うさ。ナッシュビル、ソルトレイク……。カジノ王やIT長者が列をなして待ってる。MLBの会員権は、それだけ価値があるプラチナチケットなんだよ。……俺が試算した」


 ソーンは自嘲気味に付け加えた。


「退屈な二年間の、唯一の仕事だ」


「そして、この60億ドルは、リーグの収益じゃない。『加盟料』だ。つまり、既存の30人のオーナーだけで山分けできる」


「待てよ……単純計算で……」


「一人あたり、2億ドルの臨時ボーナスだ」


 車内に重い沈黙が流れた。雨音だけが響く。


「2億……」ベンが呻くように言った。「全球団の、去年の純利益の平均を知ってるか?」


「ああ。コストカットしまくって、やっと2000万ドルってとこだ」


「つまり……」


「何もしなくても、向こう10年分の利益が、来月一括で振り込まれる」


 ソーンは捕食者の笑みを浮かべた。


「明日死ぬかもしれない老人たちだ。『10年かけてコツコツ稼ぐ』のと、『今すぐ現金で2億もらう』の。……どっちを選ぶと思う?」


 ベンは身震いした。


「……断れるわけがねえ。涎を垂らして飛びつくぞ」


「そうだ。奴らが理性を失って、その金に食らいついた瞬間……」


 ソーンは握りしめた拳を、ゆっくりと窓ガラスに押し当てた。ガラスの向こうで、摩天楼が歪んで見える。


「罠の蓋が閉まる。  奴らが愛したその金で、奴ら自身の首を絞め上げてやるんだ」


 車が走り出す。テールランプが雨に濡れたアスファルトに赤い尾を引いた。


 闇の中へ消えていく光を見つめながら、ソーンは呟いた。


「戦争の始まりだ」


 そう呟いたあと、ソーンは短く目を閉じた。  雨音の向こうで、マイケルの悲鳴がよみがえる。


「……遅すぎた反撃だがな」


 ハンドルを握るベンの手が、ほんのわずかに震えたように見えた。


(第1話 完)

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