カナーン島滞在記 ~冒険皇女の英雄譚~

鈴木えんぺら@『ガリ勉くんと裏アカさん』

第1章

第1話 波打ち際

 アスティリシアは振り向きざまに剣を抜き放った。

 南海の太陽のもとでキラキラ煌めく黄金の髪、波打つその隙間から突き込まれた光を反射的に迎え撃つ。

 腕に伝わる重い衝撃。

 空気を切り裂く鋭い音色に、硬質で不快な金属音が続く。

 ひとつ、ふたつ、みっつ……続けざまの刺突を、同じ数だけ剣で受け流した。


――疾いッ!

 これじゃ、魔術を使う暇がない!


 防戦一方に追い込まれていた。

 帝国の騎士たちに勝るとも劣らない攻撃は絶え間がなく、アスティリシアに反撃の機会を与えない。

 槍だ。

 海の色に似た光を帯びた穂先が、幾度となくこちらを狙ってくる。

 

「調子に……のるなッ!」


 揺れる水面の底、砂地を掴む足の指に力を込める。

 裂帛の気合とともに大きく横に払った白刃は――むなしく空を切った。


「はあっ、はあっ」


 とりあえず、奇襲は凌いだ。

 両手で剣を構え直し、相対する魔物をキッと睨みつける。

 ずんぐりむっくりした体躯とは裏腹に機敏な動きを見せたその魔物は――魚に人間の手足が生えたような姿をしていた。


 サハギン。


 海域に生息する魔物の一種だ。

 名前と姿は知っていたが、刃を交えるのは初めてだ。

 ギョロリと飛び出した左右の目、横に大きく裂けた口に覗く鋭利な牙。

 ぬめりを帯びた白い腹、不気味な色合いに輝く鱗、刺々しい背びれや胸びれ、そして尾びれ。

 背丈はアスティリシアより頭ひとつ大きくて、その割には腕や脚が短かった。

 まさしく、半人半魚。


「見た目の割に……よく動く」


 アスティリシアは砂地を蹴って前に出ようとしたが、これが上手く行かない。

 ここは浜辺。砂と波に足を取られて思うように前進できない。

 機動力を生かせないのが、これほど苦しいとは。


――完全に油断してたわ……


 心の中で、盛大に舌打ちをひとつ。

 今朝、冒険者ギルドで薬草採取の依頼を受けた。

 薬草をむしっていたら……汗がボタボタと流れ落ちてきた。


『ふぅ……暑いわね』


 南洋に浮かぶこのカナーン島は常夏。

 北大陸生まれのアスティリシアにとっては、日差しがきつくて暑かった。

 ちょうど目の前に涼しげな大海原が広がっていて、ちょっと休憩とばかりに波間に身体を横たえていたところを、水中からサハギンに襲われた。

 つまり、今は下着同然の格好だ。

 防御は心もとない半面、動作は軽快……には、ならなかった。心もとない足元のせいでデメリットばかり押し付けられている。

 対するサハギンは何の苦も無くスルスルと近づいてきて――空気を貫く鋭い音が耳朶を弾く。


「させるものですかッ!」


 向かってくる刺突を剣で受ける。

 ギリギリと耳障りな音が波打ち際にこだました。

 サハギンはアスティリシアを押しつぶさんと巨体を傾けてくる。

 騎士たちに鍛えられてきたとはいえ、齢十七の乙女の細腕では力比べは分が悪い。


「んっ……陸地だったら、もっと踏ん張れるのに」


 陸地はサハギンの後背にあった。

 アスティリシアの背後には海が広がっている。

 後ろには退けない。そちらはサハギンに有利なフィールドだ。


――愚痴ってる場合じゃない、ここで押し返すわよ!


 胸の奥から魔力を汲み上げ、四肢の隅々まで行き渡らせる。

 身体強化。

 騎士にとってはごくありふれた戦技のひとつだ。

 生身のままでは力負けするところだが、幸いと言うべきかアスティリシアの魔力は人並み外れて多い。

 魔力の補助があれば魔物相手でもそうそう後れを取ることはない。

 不利な鍔迫り合いをじりじりと拮抗状態に押し返しかけた、ちょうどそのとき――鼻先を汚臭が掠めた。


――な、なんなの!?


 思わず顔をしかめるアスティリシア。

 開け放たれた胸元に、どろりとした感触が垂れ落ちる。

 すぐにその正体に思い至った。

 サハギンの牙だらけの口から零れたよだれだ。

 生暖かかくておぞましい澱みに肌を汚されて、背筋に震えが奔った。

 

「絶対に死なすッ!」


 怒りに任せて剣を薙ぐアスティリシア。

 魔力をまとった一撃は、またもや空を切った。


「なッ?」


 手ごたえがなかった。

 さっきと違って、目の前にサハギンの姿がない。

『なぜ?』と考えるより早く足首にぬめった感触が巻き付いて――宙に放り出された。


――しまった!?


 相手は半人半魚。

 人間のアスティリシアとは違って、サハギンには水に潜るという選択肢があった。

 身体をかがめて剣を避け、水中を這い寄り、足首を掴んで投げ飛ばしたのだと気が付いたときには、背中から海に叩きつけられていた。


「がはッ……」


 衝撃が、弾けるような痛みが全身を貫く。

 口から鼻から空気が泡となって水中に零れ、その向こうにボンヤリした影が見えた。


――離れなさいッ!


 無我夢中で突きを放った。

 固い感触があって、腕が痺れて震えが奔る。

 アスティリシアの刺突は、サハギンの頭部に弾かれてしまった。


――顔まで硬いなんて、ズルいわ!


 不平を鳴らす暇もなければ余裕もなかった。

 立ち上がるより早く、大きな影が陽光を遮って――空から光が降ってきた。


――ッ!?


 とっさに首を横にひねった。

 さっきまで頭があったところを何かが通り過ぎる。

 槍だ。

 間一髪で回避できた。

 鋭い穂先は、すぐ横の水底に突き刺さっている。


――これだわ!


 脳裏を閃光が駆け抜けた。

 考えるより早く手が伸びて、槍の柄を掴む。

 槍が引き抜かれるタイミングに合わせて水底を蹴り、空中に躍り出た。


「これでも、食らいなさいッ!」


 勢い任せにサハギンの側頭部へ膝を叩きこんだ。

 表面は硬い鱗に覆われていても、衝撃は内側に浸透する。

 巨体が揺らめき――濁りを帯びたその目がアスティリシアを捉えた。

 サハギンは嗤っていた。

 アスティリシアも笑った。


「まだよ、ここからッ!」


 細くて長い自慢の脚が延びる。

 サハギンの頭部を挟み込んで交差させ、その顎を捉えた。

 重みで身体を傾けると――サハギンは大きく背筋を反らせる体勢となった。

 むき出しになった背中は、鱗に覆われているとは言え隙だらけだ。


「これで……終わり!」


 至近距離から魔力をまとわせた剣を突き立てる。

 鱗の隙間にねじ込まれた切っ先が、身体を貫通して腹を突き破った。

 傷口から緑色の液体――血液があふれ出し、文字に書き記すことのできない絶叫がサハギンの口から迸った。

 浜辺に沈黙が落ちる。

 ほどなくして、その巨体は海に倒れ込んだ。

 大きな水しぶきが上がって――アスティリシアだけが立ちあがった。


「はあっ、はあっ……勝った?」


 問いに答えるものは、誰もいなかった。

 黄金の髪が貼りついた肌は、火照って薄く色づいていた。

 滑らかで魅惑的な曲線に沿って、幾筋もの海水が後から後から流れ落ちる。

 海面に浮かび上がったサハギンを睨み、油断することなく剣を構え呼吸を整えていたアスティリシアは――サハギンがピクリとも動かないことを確認して膝から崩れ落ちた。

 ぺたんと尻もち。

 再びの水しぶきで顔も身体もびしょ濡れになったが、まったく気にならなかった。

 

「~~~~~~ッ! 勝ったわ!」


 声に歓喜が滲んだ。

 相手は魔物だ。命を奪った罪悪感など欠片もない。

 身体の奥から込み上げてくる衝動のままに、アスティリシアは剣を掲げた。

 その小さくも大きな勝利を祝福するかのごとく、南国の陽光が少女の肢体に降り注いだ。

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