ブラックホールから「過去」をダウンロードしたら、「現在」の容量が足りなくなって世界が消え始めた――エントロピーの涙滴《ティア》
いぬがみとうま
第一章 事象の地平のほとりで
一
窓の外にあるのは闇ではない。それは光の墓場だった。
はくちょう座X‐1。地球から六千光年の彼方に鎮座するその特異点は、宇宙という織物に空いた巨大な虫食い穴のようだった。降着円盤(アクリーション・ディスク)が放つ青白い輝きは、死にゆく星の悲鳴そのものだ。物質が光速の九〇パーセントまで加速され、互いに擦れ合い、X線を撒き散らしながら事象の地平線へと落ちていく。その光景は、あまりにも暴力的で、かつ冒涜的なほどに美しかった。
エリアス・ノヴァクは、強化ガラスに額を押し付けるようにして、その深淵を見つめていた。
探査ステーション『アレクサンドリア』の艦橋は、人工重力発生装置の重低音と、冷却ファンの乾いた回転音に支配されている。空気は無機質で、リサイクルされた酸素特有の、焦げた金属のような匂いが鼻腔にこびりついて離れない。
「心拍数が上昇しています、博士」
無機質な声が鼓膜を震わせた。ステーション管理用AIのK(ケイ)だ。
エリアスは視線を漆黒の虚空から引き剥がし、手元のホログラムコンソールへと落とした。指先が震えている。恐怖からではない。これから触れる「過去」への渇望からだ。
「K、レンズの冷却状態は?」
「液体ヘリウム循環、正常。超伝導量子干渉計(SQUID)のノイズレベルは規定値以下。ムネモシュネ・レンズ、いつでも開眼可能です」
「よし」
エリアスは白衣のポケットから、古びた銀色のスキットルを取り出し、一口だけ喉に流し込んだ。安物の合成バーボンの刺激が、食道を焼きながら胃へと落ちる。
彼はコンソールの上に展開された無数のパラメータを、まるでピアノの鍵盤を叩くように操作した。
「座標固定。対象、事象の地平線表面、セクター四〇二。ホーキング放射のスペクトル解析を開始しろ。量子もつれのペアリング、接続」
Kの処理速度に合わせて、コンソールの光が奔流となってエリアスの顔を照らす。
この宇宙にある情報は、決して消滅しない。
たとえブラックホールに飲み込まれたとしても、その物質が持っていた情報は、事象の地平線という二次元の表面に「書き込み」保存される。これがホログラフィック原理だ。ブラックホールは破壊者ではない。宇宙最大のハードディスクなのだ。
そしてエリアスが作り上げた『ムネモシュネ・レンズ』は、そこから漏れ出る微弱な熱放射――ホーキング放射――のゆらぎを読み取り、暗号化された過去を三次元映像として復元する、神の目だった。
「デコード率、八〇パーセントを超えました」
「焦点を絞れ。ノイズフィルター最大。僕たちが見たいのは、数学的な確率雲じゃない。確固たる歴史だ」
艦橋の中央、直径五メートルの円形ステージに向けて、天井のプロジェクターからレーザーが照射された。
光の粒子が舞う。最初は砂嵐のような混沌だった。色彩のないノイズの塊が、空間を占有する。だが、エリアスが逆因果干渉計のツマミをミクロン単位で調整すると、世界は唐突に焦点を結んだ。
匂いがした。
潮の香りだ。金属とオゾンの匂いに満ちたステーション内に、あり得ないはずの、豊潤な生命の気配が満ちる。
ノイズの霧が晴れると、そこには海が広がっていた。
深い群青色の海面が、黄金色の陽光を浴びて煌めいている。波の音が、聴覚デバイスを経由せず、直接脳内に響くような錯覚を覚えた。視界の端には、白亜の石柱が並ぶ神殿。そして、色鮮やかな麻の衣をまとった人々が、市場を行き交っている。
「……紀元前三世紀、エジプト」
背後から、凛とした声が響いた。
振り返ると、エレナ・ラウリが立っていた。彼女のショートカットの髪が、投影された古代の光を受けて淡く輝いている。手には二つのマグカップを持っていた。
「アレクサンドリアの港ね。まさか、本当に見られるなんて」
「ああ。情報の欠損率はわずか〇・〇二パーセントだ。完璧だよ」
エリアスは彼女からマグカップを受け取った。中身は泥水のように濁った合成コーヒーだったが、今の彼には極上の美酒のように感じられた。
ホログラムの中では、一人の商人が果物を掲げて笑っていた。その果物の瑞々しさ、商人の汗、石畳の熱気までもが、恐ろしいほどの解像度で再現されている。彼らは二千年以上の時を超えて、今ここに「在る」。
「信じられないわ」
エレナはホログラムの子供が走り抜ける様を目で追いながら、ため息交じりに言った。
「彼らはもうとっくに塵になっているのに。光さえ脱出できない重力の牢獄の壁に、こんな鮮明な姿が張り付いていたなんて」
「本に書かれた文字と同じさ」
エリアスはマグカップの縁を指でなぞりながら、熱っぽく語った。
「本を閉じても、物語は消えない。ブラックホールの表面積は、飲み込んだ物質のエントロピーに比例する。つまり、質量が増えるたびに、この事象の地平線というキャンバスは広がり、より多くの情報を書き込めるようになるんだ」
「ロマンチストね、物理学者のくせに」
エレナは微笑み、マグカップをエリアスのそれに軽くぶつけた。乾いた音が、古代の港町の喧騒の中に溶けていく。
「成功おめでとう、エリアス。これで人類は、失われた歴史のすべてを取り戻せるわ。考古学の教科書はすべて書き直しね」
「……歴史、か」
エリアスは呟き、視線をホログラムの群衆から外した。
彼の網膜には、美しい古代都市の風景ではなく、その奥にある数値の羅列が映っていた。
このレンズは機能する。理論は実証された。
だが、彼の胸の奥で渦巻く渇きは、こんな教科書的な成功では癒やされなかった。
「どうしたの? 嬉しくなさそうね」
エレナが怪訝そうに眉を寄せる。彼女の鋭い観察眼は、医師としての職業病だ。エリアスは慌てて表情を取り繕い、肩をすくめた。
「いや、ただの疲労だよ。観測時の神経接続(ニューラル・リンク)は、脳のブドウ糖を大量に消費するからな」
「そうね。今日はもう休みましょう。K、データ保存を頼むわ」
「了解しました、ドクター・ラウリ。アーカイブ名『プトレマイオス朝の午後』として保存します」
Kの操作により、美しい港町の風景は粒子となって霧散し、再び無愛想な金属の壁が現れた。夢から覚めたような喪失感が、艦橋を包む。
「おやすみ、エリアス。あまり根を詰めないで」
エレナは心配そうに一度だけ振り返り、自動ドアの向こうへと消えていった。
ハッチが閉まる重い音が響くと、エリアスはふっと息を吐き出し、コンソールに崩れ落ちるように寄りかかった。
独りになった。
いや、正確にはKがいるが、このAIはエリアスの共犯者としてプログラムされている。
「K。今の観測で、時間崩壊(クロノ・デケイ)の兆候は?」
「ステーション外壁の第三層にて、マイクロクラック状の対消滅反応を検知。質量にして約〇・五グラムの炭素が消失しました。許容範囲内です」
たった〇・五グラム。だが、それは確実に「現在」が削り取られた証拠だった。過去を見る代償として、現在は質量を支払わなければならない。等価交換の原則は、情報の領域でも絶対だ。
だが、エリアスにとって、この宇宙の質量が多少減ることなど、些細な問題だった。
「ターゲット座標を変更する」
エリアスの声は、先ほどまでの学者としての冷静さを失い、粘着質な熱を帯びていた。
「対象時代、西暦二〇九五年。場所、北米大陸、ニューヘイブン」
それは五年前。彼が全てを失った年だ。
コンソール上の数値が目まぐるしく変動する。古代エジプトのゆったりとした時間の流れとは異なり、近過去の情報は圧縮率が高く、デコードには膨大なエネルギーを要する。シュワルツシルト半径ギリギリまでステーションを降下させる必要があった。
「博士、警告します。その座標へのアクセスは、心理衛生規定に抵触する恐れがあります。それに、近過去の観測は因果のフィードバックが強すぎます。観測者の精神状態が、量子の確定に影響を及ぼすリスクが――」
「黙れ、K」
エリアスは低く唸った。
「僕はただ、確認したいだけだ。あの時、本当に何が起きたのかを。事故報告書の活字じゃない。僕自身の目で」
彼はコンソールのエンターキーを、祈るように叩いた。
再びレーザーが舞う。今度は、美しい海ではない。
無機質な白い部屋。病院の集中治療室。
そして、ベッドに横たわる一人の女性の姿が、ノイズの向こうに浮かび上がった。
サラ。
その映像は不安定に揺らめいている。まるで、水底から水面を見上げているようだ。量子的な不確定性が、彼女の表情をぼかしている。
「そこにいるのか……」
エリアスは震える手を伸ばし、光の粒子でできた彼女の頬に触れようとした。指先が虚空を切り、ホログラムがわずかに歪む。
その瞬間、ステーション全体がごとり、と小さく揺れた。
重力波ではない。物理的な衝撃でもない。
それは、世界の解像度が落ちる感覚。まるで現実という映画のフィルムが、一コマだけ欠落したような不快感だった。
コンソールの隅で、赤い警告灯が明滅する。
『警告。局所的な因果律違反を検知。現在時刻の連続性に、〇・〇〇一秒のズレが生じました』
Kの警告を聞き流し、エリアスは亡き妻の幻影を見つめ続けた。
彼女はまだ、何も語らない。だが、レンズの焦点を合わせ続ければ、いずれ彼女の声も、最期の瞬間の鼓動も、すべて拾えるはずだ。
ブラックホールは何も消さない。すべての愛も、後悔も、罪も、あの事象の地平線に凍りついている。
それを取り戻すためなら、エリアスはこの『アレクサンドリア』ごと、自分を地獄へ突き落とす覚悟ができていた。
「待っていてくれ、サラ。必ず、君を見つけ出す」
暗闇の中で、はくちょう座X‐1の青白い光だけが、エリアスの狂気を静かに見下ろしていた。
――
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