3章 紅華入会試験

第9話 紅華入会試験(1)

 その日の放課後も、わたしはイスカちゃんと共に学園指定の紅色ジャージに着替え、グラウンドに向かっていた。


 指令台前にたむろする生徒たちは、みんな自警組織【紅華べにばな】の新規入会希望者だ。

 しかし初日に五十人以上いた希望者は、わずか一週間ほどで十人以上がリタイアしている。この感じだと昨日から更に数人離脱してしまったようだ。


 引き締まった体付きの女子生徒が現れた途端、駄弁っていた一年生たちは揃って口を閉じ、背筋を伸ばして前を向いた。

 統制されたその動きたるや、まるで軍隊だ。


「時間だ、始めるぞ!」


 わたしたちの前に立つ三年生は、紅華のもう一人の副会長、火虎ひどらアカネ

 百八十センチに迫る高身長と、ウルフカットの凛々しい出で立ちは、それだけで圧倒的な強者のオーラを感じさせる。

 外見のみならず口調もお嬢様とは程遠い勇ましさだが、それゆえに輝知会長とは別ベクトルで生徒たちの人気を博す、いわゆる王子様系の女子だ。


 彼女の左腕には、六枚の真紅の花弁が描かれた腕章が巻かれている。

 紅華の正会員を示すシンボルマークに、誰もが羨望の眼差しを注いでいる。

 火虎ひどら先輩は後ろ手を組み、よく響くハスキーボイスで言った。


「紅華の訓示!」

「気高く、優雅に、したたかに!」


 火虎先輩の号令に合わせ、わたしたちは大声を張り上げる。

 頷いた火虎先輩は、負けず劣らずの声量で宣言した。


「よし、それでは今日の活動内容を発表する! グラウンド十周、基礎筋トレ五セット、障害物パルクール五周、その後にグラウンド十周! 終わった者から帰ってよし!」


 初日から変わり映えのない活動内容に、新入生組の面々から露骨な不満の気配が漏れた。

 それでも、この入会試験を達成しなければ紅華の一員としては認められない。わたしたちはあくまで候補生の身で、他の上級生とトレーニングできる立場ですらないのだ。

 結局新入生からは文句の一つも出ないまま、全員がきびきびとグラウンドへと駆け出した。


 ちなみに基礎筋トレというのは、腕立て伏せ・上体起こし・スクワットを30回ずつ行うというものだ。

 それを五セットだから、都合150回ずつ行うことになる。はっきり言ってこれだけでも相当きつい。


 障害物パルクールというのは、地下グラウンドの更に下層に用意された舞台で、反り立つ壁や狭い足場、断崖、空中ロープといった障害物を乗り越えていくものだ。

 SASUKEみたいでワクワクしたのも今は昔、ランニングと基礎筋トレ後の消耗した体では、最初の反り立つ壁を乗り越えることすらままならない。

 もちろん怪我をしないようにクッションや水が張られているけれど、それでも幾度となく落下すれば全身はそれなりに痛む。

 正直、本当に軍隊の特訓を受けているのではないかと思うほど過酷だ。


 適度に手を抜く考えを全く抱かなかったわけじゃなかったけど、いずれにせよその選択肢は早々に消えた。

 三日目、訓練を観察していた火虎先輩が、とある新入生に詰め寄ったのがその原因だ。


「お前、基礎筋トレセットをサボったな。半分しかやっていないだろ」

「そ、そんなことは! その、うっかり回数を間違ってしまったのかも……」


 今にも泣き出しそうな彼女に、火虎先輩は取り付く島もない。


「何がうっかりだ。お前、昨日からきっかり三回ずつ回数を減らしていただろ」

「なっ、何で……!?」


 息を呑む彼女の表情は、その指摘が事実であることを雄弁に物語っている。

 火虎先輩は呆れ顔で溜息を吐き、追い払うように手を振った。


「姑息な真似しやがって、俺を騙せると思ったのか? お前は失格クビだ、もう帰れ。信用できない奴も、この程度で音を上げる奴も、紅華には必要ない」


 容赦のない宣告に、わたしたちは心底震え上がった。

 即刻クビを突き付けた非情さは言わずもがな、火虎先輩はいつもわたしたちと同じメニューのトレーニングをこなしていたのだ。

 五十人もの新入生に気を配る余裕なんてないはずなのに、彼女は的確にサボりの生徒を見抜いてみせた。人間離れした視野の広さと勘の鋭さだ。


 一週間続けた甲斐あってみんな要領は掴めてきたようだが、仕上げのグラウンド十周に差し掛かると、スピードに露骨な差が出てくる。

 紅華の訓練を受けている時だけは、弥勒寺みろくじさんを含めた全てのお嬢様がいつもの優雅な態度を崩し、歯を食いしばって取り組んでいる。

 この世の全てを手にしたような彼女たちもこんなに必死になるんだと、わたしは内心でびっくりしていた。


 一足早く走り終えた火虎先輩は、膝に手を付いて立ち止まった弥勒寺さんに歩み寄り、厳しい言葉を浴びせた。


「ほら、足が止まってるぞ! そんなザマで本当に紅華でやっていけると本気で思っているのか!?」


 弥勒寺さんは顔を上げるや、火虎先輩を睨みつけた。


「お言葉ですが、いつまでこんなことを続けさせるおつもりですか!」


 弥勒寺さんの物言いに、一足早くトレーニングを終えた生徒も、走り込み中の生徒も、揃って彼女に視線を集中させた。

 副会長の火虎先輩に物申すなんて、クビになってもおかしくない。

 固唾を呑んで見守るわたしたちの前で、弥勒寺さんは語気を強めて火虎先輩に迫った。


「わたくしは陸上部に入ったつもりはありませんの! 一刻も早く紅華の一員として戦えるようにご指導を頂きたいものですが! わたくし、合気道を学んでおりますから、既に実力は紅華のメンバーにも引けを取らない自負がありますの!」


 火虎先輩は顎に指を当て、品定めするように弥勒寺さんを眺める。


「弥勒寺銀行の一人娘だったか。お前、戦いに一番必要なものが何か分かっているのか?」

「当然ですわ! 相手を問答無用に屈服させる圧倒的な力! 権力然り、財力然り、そして腕力然り! この世の不変にして普遍的な理ですわ!」


 弥勒寺さんは胸元に手を当て、得意げに即答した。

 火虎先輩はそれに対し、厳格な面持ちのまま問いを重ねる。


「なるほどな、いかにも挫折を味わったことがない強者らしい論理だ。ならば、相手が自分よりも強かった場合、或いは多勢だった場合はどうなる?」


 想定外の質問だったらしく、弥勒寺さんは目に見えて狼狽した。

 いつもの自信満々な態度はどこへやら、落ち着きなく視線を彷徨わせて曖昧に答える。


「そ、それは……ですから、そうならないために鍛えるのでしょう? 知略を尽くして、どうにか活路を見出して……」

「どれほど鍛えたところで、例外は必ず発生する。『気合いがあれば勝てる』なんてのは、これまで運よく負けなかった奴の典型的な思い上がりだ」


 火虎先輩は弥勒寺さんの意見をばっさり切り捨て、続けて断言した。


「戦いに一番必要なもの、それは『勝てない相手から確実に逃げるための体力』だ」

「……に、逃げるですってぇ……?」


 弥勒寺さんは目に見えて不服そうな表情となり、わなわなと全身を震わせる。

 そんな弥勒寺さんを見下ろす火虎先輩の眼差しは、一貫して真剣そのものだ。


「『逃げる』と言うと聞こえが悪いかもしれないがな、最も基本的で効果的な護身術だ。距離を置けば敵は自分を傷付けられない。安全を確保して救援を呼ぶことも策を練り直すこともできる。ロケーションが変わることで不利状況を覆せることもあるだろう。それを実現するための体力、これが無いと何も始まらない」


 遠巻きに成り行きを見守るわたしたちを横目で見遣り、火虎先輩は朗々と話し続ける。


「人はな、中途半端な力を付けると勘違いするんだ。生半可な格闘術を教えたせいで思い上がった間抜けが、無謀な戦いを挑んでボロ布のようになった姿を、俺たちはこれまで何人も見てきたよ。だから俺たちは選別の意味も込めてこの訓練を取り入れているんだ。身の程を知り、力を正しく使えるようにするためにな」


 そして火虎先輩は、疲労困憊の弥勒寺さんを改めて見据え、口角を吊り上げて言い放った。


「紅華の一員に引けを取らない? 笑わせるな。この程度の基礎体力作りで音を上げるような奴、紅華の正会員には一人もいないよ。文句があるならお家に帰って合気道のお稽古でもしてな」


 弥勒寺さんの顔が、怒りと羞恥の朱に染まった。

 憤慨しつつも反論できず、歯ぎしりしかできない弥勒寺さんを尻目に、火虎先輩は軽妙に付け加えた。


「ただまぁ、野心家なのは嫌いじゃないよ。曲がりなりにも今日まで付いて来られている実力も認めよう。続ければ【三花弁さんかべん】に食い込めるかもな、俺が卒業した後に」


 話が一段落したその時、グラウンドの外で見学していた大勢の生徒が黄色い声を上げた。


「茜様ー! こっち見てー!」

「火虎せんぱーい! 明日のお昼ご飯は是非ご一緒させてくださーい!」


 火虎先輩が軽く手を振って相好を崩すと、空気を劈くような歓声が上がった。イケメンアイドルに熱狂するのはお嬢様も変わらない。

 火虎先輩はわたしたちに向き直り、苦笑交じりに言った。


「悪いな、子猫ちゃんたちが呼んでいるから、俺はここで失礼するよ。お前たちも走り終わったら早いところ帰れ。休むことも戦いだ」


 そう断りを入れるや否や、足早にファンの元に向かっていく。

 ハードトレーニング直後でもキラキラ笑顔のファンサービスを欠かさない火虎先輩に対し、疲弊したわたしたちは、ゾンビのような顔を見合わせるばかりだった。

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