終末の血族
天津千里
序章:竜殺しの平野
第1話 竜殺しの平野I
私がこの世界に来る600年前。同じように世界を渡った少女がいた。
天宮美月〈アマミヤ・ミヅキ〉────勇者として称えられ、史書から消された彼女。しかし、その名をこの世界の人が知ることを彼女は望まないだろう。だから私はその名を真実とともに隠そう。いつか彼女を元の世界に帰そう。それが真実を知った私の誓い。
「ユリア、皆が待ってるよ、そろそろ行こう」
「ええ、わかったわ」
瑞希が声をかけてきた。そろそろ行かねばならない。
例えどれだけ細い希望の糸だろうと、必ずつかんでみせる。
そう改めて掠れた墓碑に誓う。
***
【帝国紀元1203年 秋 早朝】
【シルヴェルタ平野】
その日、二百年の血と炎が、ついに終焉へと転がり始めた。
焦げた鉄の匂いが霧に溶け、遠くで竜の咆哮がかすかに響く。200年に及ぶ戦乱が帝国を食い荒らし、黄金の玉座は砕け散り、血で染まった大地に都市は灰燼と化していた。帝国紀元1000年頃に始まったとされる戦乱も、もはやいつ始まり、なぜ始まったのか、誰が起こしたのか、何一つ正確な記録は残らず、わずかに残った語り継がれる歴史さえも戦火に埋もれ消えていっている。
この瞬間────シルヴェルタ平野に響く角笛の音が、全てを決することになる。
後の世の人々は、この地をこう呼ぶ──竜殺しの平野と。
やっと生まれた希望の灯を消さんとする者に屈すれば、帝国はもうその形を保つことはできないだろう。
東の新生帝国軍──二百年の混乱を終わらせ、新たな秩序を築かんとする者たち。
西の諸侯軍──過去の栄光にすがり、新たな希望を認めぬ者たち。
北西の王国軍──東の脅威を根絶やしにする者たち。
北の諸部族軍──故郷を焼いた帝国に牙を剥く者たち。
霧が薄らぎ始めた秋の朝。草葉に宿る露は、まもなく血に染まる。冷たい空気を裂いて響く鳥の声は、やがて戦の喧騒に消される。遠くで鳴る馬のいななき、風に揺れる旗の音、甲冑の軽やかな金属音────開戦前の緊張が、戦場を支配していた。
帝国中央部と西部の境界に広がるシルヴェルタ平野。その東端の高台に帝国軍が陣を敷く。南側は海岸に面し、北から西へと流れるシルヴェルタ川が、西部諸侯軍の陣営を迂回するように南に曲がって海に注いでいる。この高台からは平野全体を見渡すことができ、地形を活かした堅固な布陣を可能にしていた。南の海上には、帝国海軍のガレー船が数隻、後方警戒と退路確保のために展開している。
中央には後に〈建国帝〉と呼ばれることになるソリウス率いる本隊、西側にはブカレウス伯爵とカラディン伯爵、北西には老練なガゼリウム侯爵、北側にはティラヌス伯爵、その背後にはセレニウス伯爵の騎兵予備1万が控えている。これらの貴族家の名は後の史書にも記されるが、その記録の濃淡には差がある。個々の武勇は時代と共に薄れ、建国帝の栄光の影に霞んでいくのである。
一方、〈勇者〉ミヅキ・アマミヤの記録は奇妙にも断片的である。まるで意図的に詳細が削られたかのように。後の時代に残るのは称号と戦功の一部、そして「アマミヤ」という名跡だけである。
空高く、一羽の鷹が舞い踊る。その鳴き声が戦場に響き、まるで開戦の合図を待つかのように両軍を見下ろしているのである。
【同日 早朝】
【シルヴェルタ平野・帝国軍本陣】(ソリウス視点)
東の丘陵地に陣を敷く新生帝国軍の本陣。
ソリウス・エレクトゥスは鋼のような意志を宿した瞳で遥か前方を睨んでいた。後に〈建国帝〉と呼ばれることになる青年皇帝は、背が高く、簡素な軍装に身を包んだその姿から圧倒的な威圧感を放っている。彼の周りに集う若き貴族たちも、その存在感の前では影が薄い。
本陣の奥、誰もが畏敬の念を抱く一角に、もう一人の重要人物がいた。
〈勇者〉ミヅキ・アマミヤ。異界から現れ、勇者として選ばれた黒髪の少女は、静けさを纏っている。時折見せる遠い瞳には、この世界のものではない風景が映っているようだった。彼女が故郷に帰ることを願っているのは知っていても、それが世界を越えた先の異界となると想像もつかない郷愁の念だった。
ミヅキが戦場を見渡して呟いた。
「へえー、随分集まったのね」
戦場は、帝国軍を中心に三方から連合軍が襲いかかる包囲陣形となった。東の高台に帝国軍12万、それを取り囲むように西に8万、北西に6万、北に1万の敵軍15万。やや不利な状況だが、高台という地形を活かした堅固な布陣と良好な士気により、帝国軍の兵士たちに動揺の色は見えない。
「ミヅキか。そうだな。どいつもこいつも俺の前に立ちふさがりたいらしい」
「北に構えている部隊はバラバラね?」
ミヅキが北の湿地帯を見やる。
「ああ。帝国に恨みを持つ獣人の部族だな」
湿地帯に陣を敷く1万の多種族軍────獣人、竜人、ドワーフ。本来は相容れぬ種族たちが、共通の恨みで結束している。かつて帝国は獣人たちを迫害し、肥沃な平野部から山間部へと追いやっていた。帝国が混乱に陥って二百年が過ぎた今でも、数百年間続いた迫害の記憶は薄れることなく各部族の間で語り継がれている。
「その旗印も善し悪しね」
「ああ。帝国の名を継げば、恨みも継ぐ。おかげで王国も釣れたしな」
ミヅキの視線が北西に移る。
「北西にいるあの部隊ね……ヴァルステイン王国だっけ? たしか国境はかなり北西よね?」
シルヴェルタ川の対岸に陣を敷くヴァルステイン王国軍6万────重装歩兵を中核とした堅固な陣形。遠征軍総司令のヴェルナー将軍が率いる彼らの使命は、東の脅威の根絶であった。ヴァルステイン王国にとって、かつての帝国は長年にわたる宿敵であった。国境を巡る争いで圧迫され続けた記憶は、王国の貴族たちの心に深く刻まれている。帝国の復活は、再び西進政策が始まることを意味していた。
「で、あれが売国奴ね?」
ミヅキが西を睨む。西部諸侯がヴァルステイン王国軍を招き入れたことは、すでに掴んでいる情報だった。
「ろくでもないわね。そのトカゲと一緒にいる連中ってわけね」
「……そういうことだ。ミヅキ、あの竜を狩れるか?」
西の平野に展開する諸侯軍8万────アダリウム伯爵、アテナイス公爵、ブルグラニア侯爵といった帝国旧支配階級の名門が、失われた領地の奪還を賭けて最後の勝負に出ていた。
ソリウスが西方を指差す。そこには三頭の地竜が鉄鎖に繋がれ、太古の怒りを咆哮に込めて天地を震わせていた。かつて古代帝国によって討伐されたはずの伝説の存在が、今ここに蘇っている。
「ただのトカゲじゃない。私を止めるには三匹じゃ数が足りないわ」
ミヅキは淡々と言う。
「ミヅキにとってはあの地竜ですらトカゲか……」
その言葉に迷いはない。兵が震え上がる地竜を「匹」と呼び捨てる────その圧倒的な力への畏怖と、それに頼らざるを得ない自分への苦い自嘲が、ソリウスの胸を過った。
我々のもとに〈勇者〉がいる────その確信が、不屈の戦意を支えていた。
ソリウスは改めて戦場を見回した。
北の湿地帯では、ティラヌス伯爵が多種族軍と対峙している。湿地を挟んでの射撃戦になるが、逃がすと厄介だ。我慢強いティラヌスが上手く引き付けてくれれば、激烈なセレニウス伯爵の騎兵で一気に粉砕できる────そのタイミングを計らねば。
視線を北西に移す。シルヴェルタ川の対岸に構えるヴァルステイン王国軍。数で劣る分、川を防衛線にして凌いでもらおう。歴戦のガゼリウム侯爵なら、その老練な用兵で持ちこたえられるだろう。
そして西戦線────ソリウスの目が鋭くなる。
帝国の復興を阻む旧諸侯たち。彼らを完膚なきまでに叩かねばならない。そのためには引き付けて包囲する。地竜を先頭に突撃してくるなら、なおよい。ミヅキなら地竜を討てる。あとはその時機を見極めるだけだ──。
遠くから角笛の音が響いた。
「……来たか」
ソリウスの呟きと共に、西側で地竜を先頭にした諸侯軍の突撃が始まった。三頭の巨獣が地を蹴って駆け、草原を震わせる。その背後には、万を超える貴族軍の兵が槍を構えて続いている。
それを迎え撃つのは、落ち着いた黒茶の髪の武闘派カラディン伯爵と、燃えるような赤茶の髪の参謀ブカレウス伯爵の部隊による猛烈な魔法斉射と大型弩砲。魔法の火線が空を切り裂き、クロスボウの斉射がボルトの雨を降らせる。攻城戦でも使われる大型弩砲が、地を震わす轟音と共に巨大な矢を放った。
地竜の突撃は速い。その巨体からは想像できぬほどの速度で、草原を滑るように突っ込んでくる。兵の何人かが恐怖に駆られ、思わず後退しかけるが、周囲の号令と怒声によって陣形はなんとか保たれた。
衝突。
轟音と共に、大地が爆ぜた。地竜の爪と尾が帝国軍の前衛に襲いかかり、魔法で展開された光の防壁────魔導障壁が衝撃を軽減し、爆風を拡散させる。完全には防ぎきれず、衝撃波が陣営全体を揺るがせた。
「あれでかすり傷程度か……」
報告は正しかった。ソリウスは冷静に状況を見極める。竜鱗は生半可な攻撃を通さない。しかも傷は見る間に治り始めている。普通の武器では歯が立たない。攻城兵器でも持ち出さない限り、あの化け物を止めるのは難しい。
前線では地竜が暴れまわっている。矢も斬撃も無効とされる中、兵士たちは命がけで応戦しつつ、ひたすらに耐えていた。その巨大な爪と尻尾に翻弄され、隊列の一部に動揺が広がり始めている。
中央右軍から一騎の騎士が草原を駆けてくる。
ソリウスは目を疑った。
「カラディン! まさか、単騎で挑む気か!」
「伝令! カラディン伯爵に急いで伝えろ! 無理せず、あの客を通せ!」
「ハッ!」
鍛えられた肉体を鉄灰の甲冑に包んだカラディン伯爵が、先頭を駆ける地竜に立ち向かった。巨大な爪撃を身を低くして回避し、剣閃一筋で竜の脇腹を切り裂く────浅い傷がつくが、見る間に血が止まり、切り口が塞がっていく。
地竜の尻尾を身を翻してかわし、続けざまに襲いかかる爪撃を剣で受け流す。時にはその巨体の懐に潜り込んで攻撃を空振りさせ、反撃の一刀を鱗に叩き込む────今度もまた浅い切り傷。それもみるみるうちに回復していく。
それでも彼は一歩も退かず、地竜の注意を引き続けていた。
ソリウスは思わず呻いた。
「たしかに時間を稼げとは言ったが、お前自身で稼げとは言ってないぞ」
やがて伝令の声が届いたのか、騎士は緩やかに後退し、地竜も警戒しながら動きを変えていく。その間に奮戦を目にした兵たちは動揺を乗り越え、士気を取り戻していた。
ソリウスは肩の力を抜いた。あの武闘派が無事に戻ってくれたことに、ひとまず安堵する。
ソリウスは戦況に目を戻した。どの戦線も始まったばかり。今のところは計画通りだが、ここは我慢の時だ。
薄氷の上を歩くかのような作戦だが、それを実行できるだけの将兵がいる。彼らはソリウスを信じ、ついてきてくれている。これが決まれば帝国は再興を果たす。
あとはその機を見逃さないことだ……。
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