猫の掌 -手をつなぐ理由-

菊姫 新政

第1章 霞に差す影

第1話

 病院の正面でバスを降りると、近くで石焼き芋の音が聞こえた。案の定、バス通りから逸れた路地裏で石焼き芋屋の軽トラが歩いている。自分が果物も花束も持っていないことに気付き、村田は運転席に向かって手を振った。軽トラを停めて降りてきた店主に、小さいのを一本、と言いかけ、二本包んでもらうことにする。折角自分のために停まってくれたのに、小一本の売り上げでは昼飯代にもならないから申し訳ない、と思ったのだ。

 温かくていい匂いの新聞紙の包みを捧げ持ち、村田は病院の扉をくぐった。エレベーターの中を焼き芋の気配でいっぱいにしながら、病室へと向かう。ほんの少しだけ、罪悪感を覚える。

 村田が結理の入院を知ったのは先週のことだ。当初は、すぐに退院するから見舞い不要とのことだったが、思った以上に退屈で困ると言うので、こうしてのこのこやって来たわけである。

 病室の前の名札を確認して中を伺うと、ベッド周りのカーテンを開け放って窓の外を見ている結理の姿が見えた。

「やあ。元気?」

 どう挨拶したら良いか分からなかったので、村田はとりあえず片手を上げた。結理も、村田に気付いて同じように片手を上げた。

「やっほー。」

そうして、村田の抱える温かな宝物を凝視した。こころもち、鼻の穴も広がっている。いい匂いだから仕方ない。

「焼き芋?どうして。」

「そこで出会ったから。運命を感じた。」

 結理が早速食べると言うので、村田はベッドサイドの丸椅子に腰掛け、新聞紙を開いた。一本全部は多いので、半分に割って結理に渡す。芋の黄色い断面から、ほんわかとした湯気が立ち上る。村田と結理は、特に話すこともなく、もくもくと芋の皮をむいては口に芋を運んだ。今はやりのねっとり甘い芋ではなく、でんぷん質なホクホクとした芋だ。ちょっと喉に詰まる。村田はポットに入っていた入院患者用の薄くて味もそっけもないお茶をもらって、芋を流し込んだ。

「このお茶、人畜無害の境地にあるよね。ぬるさも、味も、色も。美味しくはないんだけど、敢えて批判するほどのものでもない。」

「私は結構好きだよ。何も考えずにぼんやりする時にはうってつけ。」

と結理は言った。

 確かにそうかもしれない。上等な玉露も、泥水のようなコーヒーも、飲む者にある種の緊張を強いる。この入院患者用のお茶は、何物でもないが故の貴重な価値がある。焼き芋の皮を新聞紙に包んで捨て、村田は黙ってお茶をすすった。

「どう、最近?」

 指を芋の焦げで黒く染めながら、結理が訊いた。

 村田が結理と離婚してから、五年が過ぎた。喧嘩別れした訳ではないので、今でも年に一、二度は喫茶店で無駄話をする程度の付き合いをしている。結理が再婚したら一切連絡を絶とう、と村田は決意していたのだが、今のところ、結婚どころか誰か想い人ができたという知らせすら聞かない。おかげで、古い友人のような曖昧な間柄がずっと続いている。

「どうもこうも、いつもどおりだよ。」

「仕事はつまんないし、私生活も潤わないし、ああ早く隠居したい、ですか。」

「まあ、そんなところ。家賃が安くなったから、お金の溜まるスピードも上がったし、隠居の日は近いよ。」

「家賃三万円ちょっとだっけ?安いよねえ。でも、今隠居して、残りの人生五十年どうするの。」

「何もしないよ。消え去る日を待つのみだ。」

「やっぱり。もう、そんなことばっかり言うんだからなあ。」

 結理は苦笑しながら、手をウェットティッシュで拭く。爪に入り込んだ芋のカスが取りづらそうだったので、村田はカバンの中からコンビニの箸袋を取り出した。箸はそのままに、爪楊枝だけを取り出して、結理に渡す。

「相変わらず、ドラえもんのポケットみたいな便利カバンだねえ。」

 礼を言って爪楊枝を受け取り、結理は嘆息した。村田のカバンはそう大きくないし、パンパンに膨れてもいないが、メジャーや、安全ピンなど、ちょっとした時に便利な道具が詰まっている。たまに思い出したように、その道具が役に立つ。そのくせ、ハンカチや鼻紙が入っていないことがしばしばあるので、片手落ちである。

「箸が一膳入っていると、便利だよ。弁当の箸を忘れた時とか、毛虫が服に落ちてきた時とか。」

「毛虫なんかそう滅多に降ってこないでしょうが。」

「あと、芋が爪に詰まった時とか。」

「はいはい、おかげさまですっきりしました。ありがとうございました。」

 そう言って、結理は笑った。検査入院であり、重い自覚症状も無い現在、結理は至極元気なのである。

 とはいえ、と村田は思う。男に聞かせたくないこともあろうから、細かいところを敢えて訊かないようにしていたが、どうやら婦人科系の不安があっての検査らしい。心中穏やかではないだろう。こんな時、母親や姉妹がいれば心強いのだろうが、結理にも村田にも姉妹はなく、母親も既に他界している。ジェンダーフリーだ、性的マイノリティの尊重だ、とは言うものの、嫌か応かに関わらず生まれ持った身体に基づく経験値は取り替えのきくものではない。そこには、乗り越えられない壁があるように感じる。壁を越えて触れて良いのか、いけないのか、その判断すら村田にはできない。

 前回、結理に会ったのは、半年ほど前だ。その時には、身体の不調があるとは一言も話していなかった。近い将来、結理に会うことはなくなるのだろうと常に考えてはいたが、それは結理が幸せな再スタートを切った時のことだと勝手に仮定していた。そうでなくて、何らかの不幸が結理を壊してしまうのであったら、どうしたら良いのだろう。

「何か、暗いこと考えてるでしょう。」

「え?」

 結理に突然指摘され、村田は顔を上げた。しばしの間、ぼんやりとしていたかもしれない。

「そういう顔してるよ。心ここにあらず、しかもどこか暗い淵の方にさまよってます、って顔。」

「どんな顔、それ。」

「今度気付いたら、スマホで撮ってあげる。待ち受けにするといいんじゃないかな。SNSのプロフ写真とか。」

「とんだ変態じゃないか。」

「だってねえ。お見舞いに来て、暗い顔して物思いにふけってるって、どうなのよ。辛気くさ。」

 それもそうか、と思い直し、村田は素直に謝った。

「あとね、私のことを考えていたのなら、何か結果が出たってそんなに悪くないはずだから、安心してください。」

「お見通しだな。」

「当たり前でしょ。何年付き合ってると思ってるの。」

 ひの、ふの、み、と村田は心の中で数える。自分の歳さえあやふやなので、なかなかすぐに答えにたどり着かない。とりあえず、十年以上はある、という漠然とした回答を導き出したが、村田は黙っていた。しかし、村田がこうしてはっきり思い出せないでいるのも、結理は察しているに違いない。

 なるべく当たり障りの無い話題を選ぶようにして小一時間ほど過ごし、さてそろそろ、と村田は丸椅子を立った。別段用事があるわけではないが、長居しても負担を掛けるだけだろう。

「お芋、要るかい?」

「うん、じゃあ、置いていって。ぼちぼち食べるよ。ありがと。」

 来た時と同じように片手を上げて結理に挨拶をして、村田は病院を後にした。

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