黄泉の國

晴風 彼方

第1話 着任

ネットの記事には、一昨年の溺水事故が小さく載っていた。車ごとの転落事故であった。 


「ほら、事故ありますよね」

同僚は、記事を見ている私に言った。


「そのダム、事故が多いって有名ですよ。しかも、(出る)らしいですよ」

同僚は、私が今度転勤するダムについて、親切に教えてくれた。


「まぁ、でも本当に怖いのは、人間って言うし…」

私は、タブレットのニュースアプリを勢いよく指で弾いて、言った。バカらしい。どんな安全対策しても、破るヤツはいつだっている。


―それから1ヶ月後、私は任地先の〇〇県、河姫ダムへ向け出発した。


河姫ダムは国内有数の巨大なダムだ。ダム建築工法が有名で、建築期間も長かった。しかし、有名なのは、その工法だけではなかった。


地元住民の反対運動が強く、国と町は真っ向から対立した。ダムによって、いくつかの村や集落が沈むのだ。


建築期間と同様に、建設争議も長引き、ダムは産みの苦しみを味わった。山を削って、生まれたダムは、今や我々、ダム管理部が育てていた。


高速道路を乗り二時間半、インタチェンジを降りて三十分走ると、今度の棲み家になる東町に着いた。ダム建設で大きくなった町だ。目に付く建物は、白い壁に陽光が照りかえり新しい。


ダム関連事業、林業、農業、観光業がメインの町だ。いくつかの飲食店、スーパー、コンビニが見えた。車の通りも絶え間なく、町は多いに呼吸をしていた。


カーナビが示す、目的地に着いた。新居のアパートだ。引越しの荷物も配置も終わっており、二階の部屋の鍵を開けた。扉を開けると、新しい匂い。何もかもきちんと並べられ、綺麗であった。新しい生活の予感だ。


カーテンを開いた。目の前にいっぱいの山々が広がっていた。緑と、山頂付近に纏わりつく雲が、自然の雄大さを感じさせる。その山々の間、静かに水を湛える河姫ダムを私は想像したのだった。


近くのスーパーで弁当、日用品を買い込んだ。夕食は、その弁当を食べる。特産の地鶏弁当に満足すると、翌日の初出勤に備えて早めに寝た。


――薄暗い水面に霧が立ち込める…それを堤体から誰かが覗き込んでいた。私は巡視で遠くから眺めている。何をしている?私は話しかけようとしたーー


目が覚めた。夢だったか…部屋はまだ薄暗い。時計を見ると、目覚ましの一時間前だ。夢の輪郭を覚えていた。あれはダムの堤体だった。きっと新しい職場に緊張をしているのだろう。


もう眠気は無かった。起きて、支度をしよう。私は起き上がると、洗面所に向かった…


早めに準備を済まし、私は車に乗り込んだ。新任地の河姫ダムは、自宅から約25分。都会の渋滞とは無縁の通勤だ。ナビに河姫ダムを入力して、出発した。


ダムの案内標識から、道路を右に入り山道の上り坂を上がっていく。左右には緑が生い茂り、出会う車もほとんど無い。道は蛇行して上に続き、車の右窓からふもとの景色が目に入る。道は下り坂のカーブになり、カーブの出口に差し掛かった。


目の前に、巨大なダムが広がっていた。積み上げられた無数の岩、果てしなく広がるダム湖、ずっと奥に私が目指すダム管理棟が見えた。


道路を進み、ようやく管理棟へ繋がる道に入った。左右の草はきちんと刈り取られ、ダムの玄関は申し分無かった。駐車場に停め、時間を見ると出勤時間よりもだいぶ早かった。


まあ、早めに来る事で悪い印象になる事は無いな…私は考えた。車から出て、息を深くすいこむと河姫ダム管理棟へ向かった。


管理棟へ続く道は、そのままダムの堤体にもアクセスしていた。一直線で向こうが見える。その道のずっと向こうに軽トラックがあった。数人の作業者も見えた。こんな朝早くから業者が来てるなんて、なんかあったかな、と意識した。


しかし管理棟が目の前に広がると、急に鼓動が激しくなった。いよいよだ。入り口の自動扉にスーツ姿の自分を映す。姿を確認する間も無く、扉は開いた。


「おはようございます!」


私は、元気よく挨拶をした。ロビーには誰もいなかったが、しばらくすると早歩きの足音が聞こえてきた。


「あ、どうも!おはようございます…もしかして、諸星さんですか?」

ロビーに現れたのは、作業服姿の初老の男性であった。


「はい!諸星です。今日からお世話になります」

私はお辞儀をして、精一杯の印象付けを行なった。


「はいはい!私は副所長の堂本と言います。よろしくお願いしますね」

副所長は、にこやかな顔で私を出迎えたのだった。歳は50代後半、定年退職にカウントダウン、といったところ。宿直明けなのだろうか。目の下には隈が出来、笑顔に口角を引っ張った印象を受けた。


まだ肌寒いロビーを抜け、2階の事務室に通された。机が並び、広々としたオフィス。正面には大きな窓、ダムが一望出来た。職員はまだいなかった。


「まだ早くてね、もう少ししたら出勤してくるよ。宿直のみんなも顔を出すからさ」

副所長は、ダムを眺める私に言った。


「すみません、早く来てしまって…」

私は謝ると、副所長を向いた。


副所長は入り口に立ち、手を前で合わせる笑顔を見せている。私は、その佇みに違和感を覚えた。


やがて、廊下から複数の足音が聞こえてきた。勢いよくドアが開く。

「ああ!もういらしていたんですね、どうも!」

作業服を着た、髭の男が入りながら挨拶をした。同じ作業着を着た男がもう二人入る。


「諸星さんです」

副所長が紹介した。紺色の作業着を着た三人は、横に並び私と向かい合った。部屋は静かになる。


「諸星照彦です。本日よりお世話になります。よろしくお願いします」

静けさに胸が高鳴る。自分の声が部屋に響く。


「自分は、織田(オリタ)忠男です。よろしくお願いします」

髭の織田は、作業帽を取り挨拶を返した。それから右の二人が順番に挨拶をした。


副所長は、自分とこの三人が宿直だったと話した。その後、他愛のない話をしていると、駐車場に車が止まり出した。

「そろそろみんな来るね」

副所長は、言った。


程なく、事務室には職員が集い始め、広い空間が賑わいの声で充満し出した。


「おはようございます!」

ひときわ大きな声がした。ドアを開けながら挨拶した人物は、白いカッターシャツに黒いスラックス姿であった。

「おはようございます、所長」

事務室のみんなが挨拶を返した。どうやら彼が新しいボスらしい。


「おお、新人くんだんね…よろしく」

所長は、私を一瞥すると自分のデスクに向かった。


技術主任を新人君呼ばわりとは…所長を見るとノートパソコンを広げ、私の事は忘れていた。まあ、よくいる管理職だ。


始業時間になると、朝礼が始まった。所長は挨拶をし、私の紹介をした。私も所長に着任の申告を行い、正式に配属となった。


私の肩書きは、河姫ダム管理部技術主任。ダムの機械類全般の責任者となる。特に水門の開閉は、重要な仕事であった。ダムの貯水量を調整する為、放流を行う。川下の住民、田畑、工場に影響がでる。人の命に関わる操作である。


「しばらくは、補佐の織田君に付いて仕事を覚えるように」

所長は、私に申し渡した。髭の織田が、頷く。


朝礼が終わると、職員それぞれが仕事を始めた。織田が笑顔で私に近づいき、話しかけた。

「緊張したかい?」


「はい、頭が真っ白ですよ…」

私が答えると、織田は声を出して笑った。


「わかる、わかる、主任の目が泳いでた」

織田は続けた。

「さて、仕事だけど、少しずつでいいからさ、ゆっくり確実に覚えていけば良いよ」


私は頷いた。今日はダムの案内をしてくれるらしい。主任補佐の織田は、地元の現地採用者だった。勤続18年のベテラン。河姫ダムの隅々まで知り尽くしていた。


ダムの案内でも半日かかりであった。ダム所属の軽トラックでダム観光だ。ダムの貯水量、水門の機械室、堤体の点検通路…仕事で覚える事は膨大であった。


あらかた案内も終わり、管理棟に帰ろうと軽トラに乗り込もうとした。


「そう言えば、朝早く、堤体近くで作業していましたね」

私は、助手席のドアを開けながら言った。朝の光景を思い出したのだ。


答えが返って来なかったので、運転席側を見た。


無表情。今までの案内で培った関係性が消し飛んだかのような表情。私を見ていた。


あまりのギャップに、私も息が詰まった。お互い見つめ合う。


突然、織田の表情が笑顔に変わった。それは感情の発露というより、顔の変形であった。

「いや〜夜間巡視の時、倒木を見つけたから、宿直員総出で片付けていたんだよ」

織田はようやく答えた。


私は、それ以上何も言わなかった。朝のあの光景には、宿直以外の人間もいた。紺色の作業着以外の人間が見えたのだ。


そう…だからと言って、何だというのだ?私は自分の中の疑念を払い出した。今は、関係性の構築時間だ。


しかし織田のあの表情は、私の記憶の底に沈むだけで、消える事は無かった。


管理棟の事務室に戻ると、織田は再び現場に出て行った。私は書類整理に追われ、気がつくと退勤時刻だった。

所長が話しかけた。

「今日は、これで上がろうか。これからは宿直もあるから、少しずつ慣れていこう」


私を宿直のローテーションに組み込めるようになれば、職員達の負担が減るだろう。原則では、主任級以上が宿直長を担当しなければならなかった。現状では、所長、副所長、主任補佐織田の三人が宿直長を行なっていた。


しかし、所長は宿直にはつかないらしい。定時で退勤して行った。実質的に副所長と織田の二人で宿直長を回していた。これは、大きな負担であった。宿直は、夜間ダムの異常に対処する任務がある。そして異常の兆候を未然に発見する事が、特に重要だ。


その為、夜間の巡視、各種機械の維持管理、天候のチェックなど多くの仕事があった。それを夜通し行い、また日勤を行う。昨日は副所長が、宿直長を務めていた。あの顔は、疲労が溜まっていたのだろう。


―早く仕事を覚えねば、私はそう思い出勤初日を終えた。


翌日から本格的に仕事を習い、習熟に努めた。あっという間に数日が過ぎ、初めての休日を迎えた。


とりあえず、順調と言った所だ。休日明けから、いよいよ宿直訓練が始まる。休みは英気を養おう。


私の趣味は、バードウォッチングであった。カールツァイスの双眼鏡を持ち、山に棲む野鳥を観察するのだ。


同じ鳥の種族でも、地域によって微妙な差異があった。巣作り、鳴き声などその環境に最良なライフスタイルに落ち着く。それは非常にバランスの取れた生態系であった。人間とは違い、与えられた環境の中で生きる。私は、それを感じるのが好きなのであった。


そしてもう一つ、好きな事は土地の秘密を探る事。人の生活を覗き見るわけではない。歴史的な事。この土地に息づいてきた人々の、暮らしの跡を追う事も好きなのであった。


ダムには積み重なった歴史があった。それは、水の底に沈んだ歴史。ダムを巡る人々の軋轢であった。


着任時、姫川ダムの歴史を学んだ。建設争議が長く続き、国と住民の間に深い溝ができた。国はもともと貧しい村に補償をちらつかせ、反対意見を黙らせて行った。住民同士にも亀裂が入った。


休日前に織田が言った。

「あんまり村の人と関わらん方がいいよ、何かあるとすぐクレームをいれてくる…l


しかし、私の趣味は眺める事だ。住民とは関わらないスタイル。私には自然があった。村も遠くから眺めさせてもらおう。私は、バードウォッチングに出かけたのであった。


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