第6話 めんご
# 第六章
紙と筆と墨を買って、二人は陰陽師の家に戻った。
道中、陰陽師は相変わらず、すれ違う人々の視線を集めていた。だが、本人は全く気にしていない様子で、さっさと歩いていた。早く家に帰りたい、という気持ちが、その足取りから滲み出ていた。
家に着くと、陰陽師は玄関で靴を脱ぐなり、買ったばかりの紙と筆と墨を神林に押し付けた。
「持っててくれ」
「は?」
「俺は着替える」
そう言って、陰陽師は奥に消えていった。
神林は、呆れながらも、紙と筆と墨を抱えて、応接間に戻った。雪女が、すぐにお茶を運んできた。
「お疲れ様でした」
「ああ、いえ」
神林がお茶を飲んでいると、すぐに陰陽師が戻ってきた。
もう、あの美しい姿は、どこにもなかった。
また、あのだらしない格好に戻っていた。寝間着のような着物、緩い帯、はだけた胸元。髪も、もう乱れ始めている。
「ああ、楽だ」陰陽師は、畳の上にごろりと寝転がった。「外は疲れる」
神林は、この男の変わり身の早さに、もはや何も言えなかった。
陰陽師は、寝転がったまま、手を伸ばした。
「紙と筆」
神林は、紙と筆と墨を陰陽師に渡した。
陰陽師は、それを受け取ると、寝転がったまま、硯に水を入れ始めた。いや、入れ始めた、というより、適当に水を注いだ。水が硯から溢れた。
「あ」陰陽師は、面倒くさそうに言った。
雪女が、すぐに雑巾を持ってきて、溢れた水を拭いた。
「主人、もう少し丁寧に」
「めんどくさい」
陰陽師は、墨を硯で擦り始めた。だが、その動きは、雑で、適当だった。墨がまだ十分に溶けていないのに、もう筆を取った。
「主人、まだ墨が」
「いいんだ、これで」
陰陽師は、筆を紙に走らせた。
神林は、その様子を見て、呆れた。
筆の持ち方が、まず、おかしい。子供が初めて筆を持ったような、ぎこちない持ち方だった。そして、その字は。
ひどかった。
ミミズが這ったような、歪んだ、読めない字だった。いや、読めないことはないが、読むのに苦労する字だった。まるで、やる気がない、とでも言いたげな、適当な字だった。
陰陽師は、寝転がったまま、紙に何かを書いていった。その姿は、まるで、宿題を嫌々やっている子供のようだった。
「主人」雪女が、困ったように言った。「もう少し、丁寧に」
「めんどくさい」陰陽師は、同じことを繰り返した。「これでいいんだ」
やがて、陰陽師は、筆を置いた。
「書けた」
神林は、その紙を見た。
そこには、こう書かれていた。
『一括調伏しちゃっためんご』
神林は、目を疑った。
「これが、手紙ですか」
「ああ」陰陽師は、当然のように言った。
「これだけですか」
「ああ」
神林は、呆れを通り越して、怒りすら覚えた。
山一つ分の妖怪を調伏して、妖狐を激怒させ、人間が襲われる事態を招いておいて。
その謝罪の手紙が、これか。
『一括調伏しちゃっためんご』
めんご、って。
神林は、この男の無神経さに、もはや何も言えなかった。
「これで、妖狐が許すと思いますか」
「思わない」陰陽師はあっさりと言った。
「では、なぜ」
「一応、形だけでも謝っとこうかなと思って」陰陽師は煙管に火をつけた。「まあ、気休めだ」
気休め、か。
神林は、深く息をついた。
この男には、誠意というものがない。
陰陽師は、紙を折り始めた。
だが、その折り方も、適当だった。きちんと折り目をつけることもなく、ざっくりと折っていく。
やがて、紙は、何とも言えない形になった。
鶴、でもない。
飛行機、でもない。
ただの、適当に折られた紙、だった。
「これでいい」陰陽師は、その紙を手に持った。
それから、陰陽師は、その紙に、息を吹き込んだ。
ふう、と。
すると。
紙が、光り始めた。
淡い、青白い光。それが、紙全体を包んでいった。
神林は、目を見開いた。
何が起こっているのか。
紙は、陰陽師の手の中で、ゆっくりと浮き上がった。
そして、空中に、静かに浮かんだ。
陰陽師は、手を離した。
だが、紙は、落ちなかった。
空中に、そのまま、浮かんでいた。
それから、紙は、ゆっくりと動き始めた。
部屋の中を、一周する。
それから、開いていた窓に向かって、飛んでいった。
神林は、慌てて窓に駆け寄った。
紙は、外に出ると、空高く舞い上がった。
そして、風に乗って、西の方角に飛んでいった。
神林は、その様子を、呆然と見ていた。
今、何が起こったのか。
紙が、空を飛んだ。
自分で、動いて。
神林は、振り返った。
陰陽師は、相変わらず、寝転がっていた。煙管を吸いながら、天井を見ている。
「今の、は」神林は、震える声で言った。
「手紙の出し方だ」陰陽師は、面倒くさそうに言った。「妖狐のところに、届く」
「どうやって」
「術だ」陰陽師は煙を吐いた。「気を込めて、行き先を指定すれば、勝手に飛んでいく」
神林は、言葉を失った。
今、自分は、何を見たのか。
本当に、術なのか。
それとも、何か、トリックがあるのか。
神林には、わからなかった。
ただ、一つだけ、確かなことがあった。
この男は、何か、普通ではない力を持っている。
神林は、それを確信した。
場所は変わる。
帝都の西、青梅街道を外れた山の中腹。妖狐の屋敷。
妖狐は、部屋の中で、配下の妖怪たちに指示を出していた。人間を襲う計画を、細かく練っていた。どの妖怪が、どこで、誰を襲うか。全てを、妖狐が決めていた。
そのとき。
部屋の中に、何かが飛び込んできた。
紙だった。
適当に折られた、みすぼらしい紙。
それが、妖狐の目の前に、ひらりと落ちた。
妖狐は、眉をひそめた。
「何だ、これは」
配下の妖怪が、紙を拾い上げた。
「手紙のようでございます」
「手紙?」
妖怪は、紙を開いた。
そこには、ミミズが這ったような、歪んだ字で、こう書かれていた。
『一括調伏しちゃっためんご』
妖狐は、その文字を見た。
一度。
二度。
三度。
それから、妖狐の顔が、紅潮した。
いや、紅潮した、というより、怒りで真っ赤になった。
妖狐の九本の尾が、激しく揺れ始めた。
「これが」妖狐の声は、低く、怒りに震えていた。「謝罪、だと」
配下の妖怪たちは、恐怖に震えた。
妖狐の怒りを、これほどまでに感じたことは、なかった。
「一括調伏しちゃって、めんご」妖狐は、その言葉を噛みしめるように繰り返した。「めんご、だと」
妖狐は、紙を握りしめた。
紙が、妖狐の手の中で、燃え始めた。
青白い炎が、紙を包み、一瞬で灰にした。
妖狐は、立ち上がった。
「許さない」
その声は、部屋中に響き渡った。
「あの陰陽師、絶対に、許さない」
妖狐の目が、赤く光った。
「あの男を、つぶす」
配下の妖怪たちは、息を呑んだ。
「ただし」妖狐は、冷静さを取り戻した。「直接対決は、避ける」
妖怪たちは、妖狐を見た。
「あの陰陽師は、強大な力を持っている」妖狐は言った。「正面から戦えば、勝てるかどうかわからない。いや、おそらく、勝てないだろう」
妖怪たちは、頷いた。
「だから」妖狐は、にやりと笑った。「周辺から、つぶしていく」
妖狐は、部屋の中を歩き始めた。
「あの男が、大切にしているものを、一つずつ、奪っていく」
妖狐の尾が、ゆっくりと揺れた。
「そして、あの男を、追い詰める」
妖狐は、窓の外を見た。
「最後に、あの男自身を、始末する」
妖狐は、決意した。
翌日、妖狐は、人間の姿に化けて、帝都の街に出た。
美しい女性の姿。上質な着物を着て、日傘を差して、街を歩く。誰も、彼女が妖狐だとは気づかない。すれ違う人々は、その美しさに目を奪われ、振り返った。だが、妖狐は、そんな視線を気にも留めなかった。
妖狐は、まず、陰陽師の家を探した。
本郷の奥、古い日本家屋。派遣妖怪の情報網で、場所はすでに把握していた。
妖狐は、その家を遠くから眺めた。
強い結界が張られている。さすがは、天才陰陽師、と妖狐は思った。この結界は、並の妖怪では近づくこともできないだろう。下手に近づけば、すぐに気づかれる。
妖狐は、しばらく観察した。
やがて、一人の娘が、家から出てきた。
雪女だ。
妖狐は、それがすぐにわかった。妖の気配がする。だが、その気配は、陰陽師に完全に支配されている。この娘は、陰陽師の使役する妖の一人だ。調伏され、逆らうことのできない存在。
雪女は、籠を持って、商店街に向かった。買い物に出かけるようだ。
妖狐は、その後をつけた。
だが、遠くから、気配を消して。
雪女は、いくつかの店で買い物をした。米、味噌、魚、野菜。どれも、陰陽師のためのものだろう。妖狐は、その様子を見ながら、考えた。
この娘は、陰陽師に忠実だ。完全に支配されている。この娘を狙っても、意味がない。陰陽師は、使役している妖怪など、いくらでも代わりがいると思っているだろう。
ならば、誰を狙うか。
妖狐は、さらに観察を続けた。
そして、気づいた。
雪女が、ある食堂の前で、立ち止まったのだ。
食堂の中から、一人の娘が出てきた。看板娘のようだ。エプロンをつけ、手ぬぐいで額の汗を拭いている。働き者の娘だ。
雪女は、その娘に、何か言葉をかけた。娘は、にこやかに答えた。二人は、しばらく話をしていた。その様子は、親しげで、和やかだった。
妖狐は、その娘を見た。
そして、息を呑んだ。
その娘の魂は、異常に輝いていた。
清らかで、美しく、純粋な魂。
妖狐は、これまで数え切れないほどの人間を見てきた。王侯貴族から、乞食まで。聖人から、悪党まで。だが、これほどまでに美しい魂を持つ人間は、滅多にいない。
この娘は、特別だ。
妖狐は、直感した。
陰陽師は、この娘に、何か特別な感情を抱いている。
雪女が、わざわざこの食堂の前で足を止めたということは、この娘が、陰陽師にとって、特別な存在なのだ。
妖狐は、にやりと笑った。
見つけた。
陰陽師の弱点を。
妖狐は、その日の午後、再び食堂を訪れた。今度は、客として。
食堂は、小さな店だった。だが、清潔で、居心地が良さそうだった。昼食の時間を過ぎていたが、まだ何人かの客がいた。
妖狐は、席に座り、娘を観察した。
娘は、二十代前半に見えた。髪を後ろで結い、質素だが清潔な着物を着ている。顔立ちは整っていて、美しかった。だが、その美しさは、派手ではなく、控えめで、優しげなものだった。肌は健康的にほんのり日焼けしていて、働き者であることが窺えた。目の下には、小さな泣きぼくろがあり、それが彼女の表情に、どこかはかなげな、守ってあげたくなるような印象を与えていた。
だが、娘が客に接する態度は、きっぱりとしていた。笑顔は優しいが、毅然としている。困った客が、何か無理を言おうとすると、娘ははっきりと断った。その姿は、芯の強さを感じさせた。優しさと強さ。その両方を持っている娘だった。
妖狐は、娘を見ながら、品定めをした。
この娘は、確かに美しい。そして、その魂は、さらに美しい。
陰陽師は、この娘に惚れているのだろう。
ならば、この娘を狙えばいい。
この娘を殺せば、陰陽師は、きっと動揺する。
いや、殺すだけではもったいない。
この美しい魂は、妖狐自身が食らうも良し。配下の妖怪たちに分けてやれば、彼らの妖力もアップするだろう。どちらにしても、有益だ。
妖狐は、娘を品定めするように眺めた。
なかなかに美しい肌。艶のある髪。健康的な体つき。そして、色っぽい泣きぼくろ。はかなげな見た目ながら、時折覗かせるきっぷの良い言動は、彼女の魅力を最大限に高めていた。
妖狐は、ふと、自分の姿を思い出した。
自分は、美しい。誰もが認める美しさだ。だが、この娘の美しさは、自分とは違う種類のものだった。この娘の美しさは、人間らしい、温かみのある美しさだった。生きている、という実感のある美しさだった。
妖狐は、つい、懐から小さな鏡を取り出して、自分の顔を確認した。
完璧な美しさ。だが、どこか冷たい。人形のような美しさ。
妖狐は、自分の顔と、娘の顔を、比べた。
自分の方が美しい。
そう、自分に言い聞かせた。
だが、どこか、落ち着かなかった。
妖狐は、鏡をしまった。
何をしているのだ、自分は。
人間の娘と、自分を比べるなど。
妖狐は、そんな自分に、少し苛立った。
だが、同時に、思った。
この娘は、それほどまでに、魅力的なのだ。
陰陽師が惚れるのも、わからなくはない。
妖狐は、食事を終えると、店を出た。
今夜、この娘を襲う。
妖狐は、そう決めた。
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