前編
00
生の先に死が待っているんじゃない。
生も死も、互いを内包して、隠し合っているんだ。
仲良しの双子みたいにね。
01
ある、肌寒い夜だった。
小雨の降る、闇の帷が降りた森を、まるで近所を散歩するように歩く、小柄な少女が1人。
彼女が着ている美しいワフクと草履は、凹凸や高低差のある森歩きには適さない。
だが少女には、それは問題にもならない。
彼女の名はルルーシュ。
世界の敵【七竜人】の一翼を担う者。
一見すれば人間種の姿だが、その正体は、魔人種の中でも希少になった、吸血鬼族だ。
夜はむしろ、彼女にとっての昼間なのだ。
可愛らしい顔立ちだが、猫背気味な体勢に、怠惰で不機嫌な空気感が、全てを台無しにしていた。
ルルーシュは普段からこんな調子だが、同僚に押し付けられた仕事を終わらせ、帰路に就く途中だったので、余計にそう見えるのだ。
どんな仕返しをしてやろうか、思案しながら歩くルルーシュ。
彼女の耳がそれを捉えたのは、ちょうど小雨が止み、雲の切れ目から、月が覗くようになった時だった。
「…子供?泣いているの…?」
赤ん坊ではない。もう少し成長しているような声だった。
それはぐずっているようで、縋るようで、叫びに近い。
夜の森には、普通ないはずの音だ。
ルルーシュは気配を消し、声の発生源へ足を向けた。
ほどなく、2人の人影が見えてきた。
1人は木の幹にもたれ、それをもう1人が揺さぶっている。
「エル……?エル!ダメだよ、起きて!」
泣き叫ぶ、少年と思しき背中は、ルルーシュの古い記憶を揺さぶった。
家族を死なせた時の、血生臭い記憶。
その不快さを、ため息で吐き出す。
その声で、気づかれた。
別に構わなかったが、振り返った少年に、ルルーシュは思わず目を見張った。
グレーの髪色に、闇に溶けるような褐色の肌。
「ダークエルフ…?」
少年は無言で、腰から何か抜いた。
その短刀は、少年の手に馴染んでいる。
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で、似つかわしくない殺意を向けられ、ルルーシュは閉口する。
普段なら、この時点で敵認定する。
そして、有無を言わさず殲滅する。
武器を抜いていいのは、死ぬ覚悟のある者だけ、というのがルルーシュの持論だ。
とはいえ、怯えた子供をわざわざ殺す嗜好は持ち合わせていない。
それにルルーシュ自身、ダークエルフを見かけたのは数回ほどしかない。
その興味が、少年への殺意を消す事に一役買った。
「…うちはルルーシュ。素直に素性を話せば、武器を向けてきた事は許してあげる」
妙な匂いが漂ってくる。
熟した果実を思わせる、濃密で強い匂いだ。
少年は迷った末、武器をしまった。
そして、マルフレートと名乗った。
後ろのもう1人はエルブレヒトといって、双子の兄だという。
双子、という単語がまず引っかかった。
エルフ族の中で、それは凶兆とみなされ、生まれてすぐに片方を殺す風習があったからだ。
「一応聞いておくけど…お兄ちゃんはどうしたの?」
マルフレートは顔を曇らせると、兄にかけてあるフード付きマントを、静かにめくってみせた。
その下から現れたものに、ルルーシュは顔をしかめる。
真っ赤に爛れた背中に、まるで紙くずのようにぼろぼろの皮膚が張り付いている。
かなり範囲の広そうな火傷だ。
先程から漂っている、熟れた匂いの元はこれだ。
傷のどこかが、既に腐り始めているのだろう。
「これ…」
誰にやられたの?と言いかけて、ルルーシュは止めた。
既に答えは、彼女の中にあった。
エルフ族の居住地、【トリアル大森林】で起きた、反乱分子を炙り出す粛清。
既に多くの犠牲者が出ていると聞いている。
その上、忌み嫌われている双子。
兄弟がどのような目に遭ってきたかは、想像に難くない。
「…マルフレートとかいったね。あんたはどうしたい?」
「は…?え?」
「お兄ちゃんは、何もしなければもうじき死ぬ」
マルフレートは、青ざめた顔で首を振った。
「嫌がったって無駄。それに、お兄ちゃんの次は、あんたの番だよ」
見開かれた幼い目から、涙が溢れ出す。
ルルーシュには、何の感情も感慨も湧かない。
ただ客観的な事実を、並べるに過ぎない。
「トリアル大森林から逃げてきたんでしょ?当然追手が来る。そんな疲労困憊なら、じき追いつかれて殺されるよ?」
兄よりはまだ動けるのだろうが、滲み出る疲労感が、弟の体と心が限界な事を、物語っていた。
マルフレートは悔しそうに目を伏せる。
だがそれも、ほんの刹那。
再びルルーシュを見据えた目には、はっきり意思が宿っていた。
「死にたくない…生きていたい!エルも一緒に!だから……お願い、助けて……!」
縋り付く目はただ必死で、ルルーシュに
「あんたの願いは分かった。お兄ちゃんも一緒にかどうかは、本人に聞かないとね」
ルルーシュはエルブレヒトに歩み寄ると、容体を観察する。
呼吸は弱く、不自然に遅い。
褐色の肌でも、血の気がない事は分かる。
吸血鬼であるルルーシュは、他の生き物の血流を視認できるし、耳をすませば心臓の音すら聞こえるが、それで見るまでもなく、少年には死期が迫っていた。
ルルーシュは、ワフクの裾が濡れるのも構わず、地面に膝をついた。
「エルブレヒト、聞こえてる?」
死に際の生き物でも、聴覚だけは最後まで残るらしい。
だからきっとこの声も、届いているはずだ。
「うちはルルーシュ。あんたは生きたいの?死にたいの?」
反応はない…かと思われた。
閉じていた瞼が、微かに開く。
元は綺麗な群青色だったであろう瞳は濁り、ルルーシュの事は見えていないようだった。
それでも。
ひび割れた唇が僅かに動いて、その奥から、掠れて、言葉にすらなっていない声が漏れる。
だがルルーシュには、それで十分だった。
「……ん。分かった」
02
そこから、ルルーシュの行動は早かった。
既にプランは出来上がっていた。
弟に兄を背負わせ、目的地に向けて歩き出す。
やがて、2人の前に粗末な小屋が現れた。
屋根も壁もあるが、大人が5人も入れなさそうな小ささである。
「こんなところあったんだ…」
「仕事の途中で見つけたんだ。たぶん元々は、狩人かきこりの休憩する小屋だったんだと思う」
中は埃が積もっており、長年誰も訪れていないようだ。そして案の定狭い。
ひとつしかないベッドを整えながら、ルルーシュは矢継ぎ早に指示を飛ばした。
「お兄ちゃんここに寝かせたら、今から言うものを採取してきて。ミコシクサ、オトギリソウ、ロカイ…あとユキノシタに、カンゾウ。エルフなんだから、特徴は分かるでしょ?」
「ちょっ…ちょっと待って!そんないっぺんに言われても覚えられないよ!」
エルブレヒトを寝かせたのを見計らって、ルルーシュはマルフレートに指先を向けた。
魔力を軽く練って拘束しただけだが、暴れたところで、マルフレートには振り解けない。
「な、何だよ!離せっ!!」
「…今更だけど、うち子供ってあまり好きじゃないの。馬鹿でうるさくて我儘で…そんなのミーシャで十分」
こんな子供に苛立っても仕方がないが、それでもルルーシュは魔力の拘束を緩めない。
「馬鹿なあんたは、いつもお兄ちゃんに頼りきりだったんでしょうね…言ったでしょ?このままだと、お兄ちゃん助からないよ?」
慄いて声も出せないマルフレートに、畳み掛ける。
「助けたいなら、死ぬ気で覚えなさい。もう一回だけ言ってあげるから」
拘束を解き、マルフレートが薬草の名前を覚えるのに、更に数分。
ようやく小屋を飛び出していく背中に、ルルーシュは呆れつつも、ハラハラしていた。
本当はこんな時間も惜しい。
次の瞬間には、エルブレヒトの心臓が止まらない保証など、ないというのに。
「…あんたが元気だったら、きっと弟に文句飛ばしてるんだろうね」
毛布をかけてやりながら、様子を見る。
息も絶え絶えだが、エルブレヒトはまだ、生きていた。
ルルーシュも、材料を集めるべく動き出した。
といっても、小屋の裏手にあるぬかるんだ土を壺に掬い取っただけだ。
ついでに、この後薬草をすり潰すのに使う、手頃な石も拾っておく。
マルフレートが意外と早く戻ってきたので、先程のやりとりで浪費した時間も、帳消しにできそうだった。
「偉い偉い。やればできるじゃん」
ルルーシュは宙に手を伸ばす。
手のひらの上から、小屋を覆う立方体が広がる様子を幻視する。
「これ…結界?」
ルルーシュの指示で、隅に積まれていた古い寝具を細長く裂いていた、マルフレートが感嘆する。
「そ。あんたらエルフの
「とりあえずこれくらいはできた」
「ん。じゃあ、とって来た薬草全部すり潰しておいて」
エルブレヒトのマントと衣服を脱がせて、背中全体が露わになると、火傷がかなり広範囲にわたっているのがよく分かる。
一部だけ火傷が酷く、木炭のようになっている箇所があった。
患部が腐っているのもそこだ。
「マルフレート、さっきの短刀貸して。うち武器とか持ってないから」
「うん…どうするの?」
「まずは腐っている患部を切除する。それから傷口を清潔にして、薬を塗っていく…いくよ」
ルルーシュは躊躇う事なく、短刀の刃先を、壊死した患部に差し込んだ。
どす黒い血が、じわりと溢れ出す。
文字通り、肉を薄切りにするように、黒く爛れたそこへ、刃を滑らせた。
エルブレヒトは叫んだりはしなかった。
腐っていた患部は、既に痛覚がなかったのだろう。
よくこれで逃げ回れたものだ。
マルフレートも観念したのか、騒いだりせずに、集めてきた薬草を石ですり潰していた。
面倒くさがりの極みともいえるルルーシュは、こういった細かい作業は特に好まない。
それでも、助けると決めた以上、投げ出したりはしない。
「…はぁ。めちゃくちゃ疲れる、これ…」
血や体液や、肉片のついた手を洗い、次の段階に進む。
赤く爛れた広範囲の火傷を、水を染み込ませた布で洗い、薬草を混ぜた泥を塗りたくっていく。
エルブレヒトは、今度は歯を食いしばっていた。
赤い部位の神経は、まだ生きていたようだ。
だがやはり、叫んだりはしなかった。
心配で兄の手を握ろうとするマルフレートを止めて、包帯代わりの布を追加で用意させたり、とにかく頭も目の前も忙しい。
実際汗は流れてはこないが、久しぶりに汗をかくような感覚がした。
全ての処置が終わったのは、深夜の時間帯になった頃だった。
再び降り出した雨は強さを増し、屋根を激しく叩く。
泥が冷たいのか、エルブレヒトの体はガタガタと震え出していた。
まだ安心はできない。
弱った体を回復させなければ、火傷が治らないばかりか、別の病に罹ってしまうだろう。
ルルーシュは空間の裂け目から、それを取り出した。
「じゃあ次はこれね」
ルルーシュが手渡したものを、マルフレートは恐る恐る受け取る。
血のように真っ赤な液体の入った瓶と、懐中時計だ。戸惑うのは理解できる。
「何これ?すごい匂いするけど…」
「特性ポーション」
「何入れたらこんな色になるわけ…?」
「聞かない方が身のため」
別に、生き血が原材料だとかはないのだけれど、単に説明が面倒なので、それだけ言っておいた。
「時計を見ながら一時間に一回、唇が湿るくらいの量だけ与えて。量間違えたら効きすぎて殺しちゃうから、気をつけてね…うちは疲れたからちょっと寝るね。後はよろしく」
「え!?ちょっと待ってよ!」
「……」
「…分かりました」
「はぁい。よく言えました」
ルルーシュは少し離れた場所に寝床を確保すると、さっさと横になった。
慣れない事をして、体は久しぶりに疲労感を覚えていた。
だが実際眠る事は出来なかった。
マルフレートの声が、ずっと聞こえてきて、気になってしまったからだ。
ごめんなさいとか、オレのせいだとか、懺悔の言葉と涙が、次々に溢れる。
あの火傷ができた理由と、関係しているのだろうか。
結局一睡もできないまま、数時間にマルフレートと交代した。
「まったく…よく喋る子ね」
先程までルルーシュが寝ていた場所で、一瞬で眠ってしまったマルフレートを眺めながら、そんな感想が浮かぶ。
「あんたらがどんな兄弟なのか、説明されなくても分かるよ」
エルブレヒトも震えが止まり、今は静かに眠っている。
こちらも生き抜く事に必死なのだ。
そうでなければ、あの超絶不味いポーションを、一度も吐き出さずに飲むなど、出来なかっただろう。
胸の奥が、ほんの少しだけ疼いた。
何百年ぶりだろうか、こんな感覚は。
ルルーシュは、静かに目を閉じた。
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