第3話 冷血の美学

# 第三章 冷血の美学


 都心の高級ホテル、スイートルームのベッドに白金冴は横たわっていた。キングサイズのベッドには、シルクのシーツが乱れたまま放置されている。その上に、裸の女性が一人、すやすやと眠っていた。二十代半ばの美女で、モデルか何かだと言っていた気がする。名前は覚えていない。覚える必要もない。


 冴はベッドから起き上がって、タバコに火をつけた。裸のままで窓際に立ち、紫煙を吐き出す。床から天井まで続くガラス窓の向こうに、東京の夜が宝石箱をひっくり返したように広がっている。三十二歳の彼の肉体は、まるで彫刻のように美しかった。ジムで鍛え上げられた胸板と腹筋、無駄な贅肉のない引き締まった体。金髪のオールバックは少し乱れて、額に数本の髪が垂れている。


 窓ガラスに映る自分の姿を見て、冴は満足そうに笑った。完璧だ。この顔と体と頭脳があれば、世界のすべてが手に入る。実際、年商二百億を超える企業グループのトップとして、彼は欲しいものを手に入れてきた。金も、権力も、女も。


「ねえ、冴……」


 ベッドの上から、甘えた声が聞こえた。女が目を覚まして、シーツを体に巻きつけたまま起き上がろうとしている。寝ぼけた目で冴を見つめて、艶めかしい笑みを浮かべた。


「もう少し一緒にいてもいいでしょう? まだ夜は長いわ」


 女は誘うように手を伸ばしてきた。シーツが肩から滑り落ちて、白い肌があらわになる。普通の男なら、その誘惑に抗えないだろう。だが冴は、タバコの灰を灰皿に落としただけで、女を一瞥もしなかった。


「帰れ」


 その一言が、氷のように冷たかった。女の笑顔が凍りつく。


「え……でも、まだ……」


「帰れと言った。服を着る必要もない。そのまま出て行け」


 冴は振り向きもせず、タバコを吸い続けた。女の顔が、驚きから怒りへと変わっていく。


「冗談でしょう? こんな格好で外に……」


「冗談に聞こえるか」


 冴がようやく振り返ると、その目は本当に氷のようだった。感情の欠片もない。女は思わず後ずさった。ベッドの端まで追い詰められて、震える手でシーツを握りしめている。


「あなた、ひどい……」


「ああ、ひどいな。だから早く出て行け。女は抱き終わったら、すぐに窓から捨てたくなる。もしくは殺してトイレに流すか。だがそれは面倒だ。お前は運がいい」


 冴は内線電話を取って、フロントに指示を出した。


「最上階から女が一人降りていく。タクシーを手配しろ。料金はこちらで払う」


 そう言って電話を切ると、女を睨んだ。


「タクシー代は出してやる。さっさと消えろ」


「あなた、最低よ……最低……!」


 女は震える手で服をかき集めた。ドレス、下着、ハイヒール。それらを抱えたまま、シーツを体に巻きつけて部屋を出ていく。ドアが激しく閉まる音が響いた。廊下から、女の泣き声が聞こえたが、冴は気にも留めなかった。


 冴はタバコを灰皿に押し付けて、バスルームへと向かった。大理石の床が足の裏に冷たく触れる。シャワーを浴びながら、冴は今日一日を振り返った。午前中は銀行との融資交渉。午後は他社の株を買い占めて、経営権を奪取した。夜は国会議員との会食。充実した一日だった。


 熱い湯が体を流れ落ち、汗と女の香水の匂いを洗い流していく。冴は石鹸で体を洗いながら、次の戦略を考えた。他社の株価を吊り上げて、一気に落とす。そこを吸収合併し、一気にリストラ。社員は路頭に迷うだろうが、そんなことは知ったことではない。利益は莫大だ。それだけが重要だ。


 シャワーから上がると、冴はタオルで体を拭いて、白のスーツに袖を通した。鏡の前で金髪を整える。オールバックに撫でつけた髪が、完璧な形に収まった。ネクタイを締めて、靴を履く。イタリア製の革靴は、ピカピカに磨かれていて、床に映り込むほどだ。腕時計を確認する。スイス製の高級時計で、ゴールドのケースが室内灯に輝いている。午前一時。まだ仕事がある。


 冴は部屋を出て、エレベーターでロビーへと降りた。フロントのスタッフが頭を下げる。冴は無視して、正面玄関へと向かった。そこには、すでに黒塗りの高級車が待機していた。運転手が急いで後部座席のドアを開ける。


「お疲れ様です、社長」


「本社に向かう」


「かしこまりました」


 冴は後部座席に座り込んで、窓の外を見た。深夜の都心は、それでも眠らない。ネオンが瞬き、車が行き交い、人々が歩いている。この街の全てが、金で動いている。金があれば何でもできる。権力も、名声も、女も、全て金で買える。そしてその金を、彼は持っている。


 車内で、冴はスマートフォンを開いた。メールが数十件溜まっている。部下からの報告、取引先からの連絡、秘書からのスケジュール確認。一つ一つに目を通しながら、冴は返信を打っていく。その指の動きは素早く、無駄がない。


 三十分後、車は白金グループ本社ビルの前に停まった。三十階建ての巨大なビルは、深夜でも一部のフロアに明かりが灯っている。冴が降りると、警備員が敬礼をした。


「お帰りなさいませ、社長」


 冴は無言で頷いて、ビルの中へと入っていった。大理石の床を歩く靴音が、ロビーに響く。その音が、権力の足音のように聞こえる。エレベーターで最上階へと上がると、廊下には誰もいなかった。社長室へと向かう廊下は、静まり返っている。


 重厚なドアを開けると、広大なオフィスが広がっている。窓際には大きなデスクがあり、その上には書類が山積みになっていた。冴はデスクチェアに座り込んで、革張りの背もたれに体を預けた。


 デスクの上のモニターを起動させると、株価のチャートが映し出された。冴が今日買い占めた会社の株価が、急騰している。そして夕方、一気に暴落した。そのタイミングで、冴は吸収合併を発表した。完璧なシナリオだった。


 冴は書類を手に取った。それは、今日吸収合併した会社のリストラ計画だ。無能な社員は全員クビにする。有能な社員だけを残して、徹底的に搾取する。それが効率的な経営だ。感情など不要だ。利益だけが正義だ。


 冴は書類にサインをして、次の書類を手に取った。また別の会社の買収計画だ。あそこは経営が傾いている。安く買い叩いて、技術だけ奪って、あとは切り捨てればいい。そうすれば莫大な利益が上がる。


 冴は、デスクの引き出しから葉巻を取り出した。高級品で、一本数万円する。カッターで先端を切り落とし、火をつける。深く煙を吸い込むと、濃厚な味わいが口の中に広がった。煙を吐き出しながら、冴は窓際に立った。


 東京の夜景が、眼下に広がっている。あの夜景のどこかに、白金グループが所有するビルがいくつも立っている。不動産、建設、娯楽事業。父の代から引き継いだ会社を、彼は十年でここまで成長させた。手段は選ばなかった。選ぶ必要もなかった。ビジネスとは、弱肉強食だ。食われる前に食う。それだけのことだ。


 冴はデスクに戻って、内線電話を取った。深夜だが、腹心は必ず出る。そういう契約だ。


「明日、田村を呼べ。あいつは無能だ。工場勤務に異動させる」


 短く指示を出して、電話を切った。田村は営業部長だった男だ。今期の目標を達成できなかった。それだけで十分な理由だ。容赦はしない。結果が全てだ。


 冴は葉巻を吸いながら、次々と指示を出していく。部下たちへのプレッシャーは、容赦なく厳しい。だがそれが彼らを成長させる。弱い者は淘汰される。それが世界の摂理だ。


 次の書類を手に取った。それは、国会議員のリストだった。白金グループから献金を受けている議員の名前が、ずらりと並んでいる。与党も野党も関係ない。金を渡せば、誰でも手駒になる。


「政治家など、所詮は犬だ」


 冴は、冷たく笑った。議員たちは、白金グループの意向に従って動く。規制緩和、税制優遇、インフラ整備。全て彼の望む方向に進んでいる。反対する議員がいれば、スキャンダルをリークして潰せばいい。裏金の証拠、不倫の写真、違法献金の記録。いくらでも弱みはある。


 冴は書類に目を通しながら、葉巻を吸った。煙が天井に向かって立ち上っていく。窓の外では、東京の夜が静かに更けていく。ビルの明かりが、少しずつ消えていく。だが冴の仕事は終わらない。まだやることがある。


 デスクに戻って、冴は次の報告書を開いた。それは、別の地域での開発計画だった。都内の下町に、高層マンションを建設する計画だ。そのために、地上げが必要になる。住民たちは抵抗するだろう。だが、最終的には金で屈服する。いつものことだ。


 冴は書類を閉じて、椅子に深く座り込んだ。葉巻を灰皿に置いて、腕を組んだ。白金グループは、まだ成長できる。まだ手に入れていないものがある。それを全て手に入れる。そのためなら、どんな手段も厭わない。


 冴は立ち上がって、再び窓際に立った。ガラス窓に映る自分の姿を見る。白のスーツを完璧に着こなし、金髪は乱れ一つない。ゴールドの腕時計が、室内灯を反射して輝いている。靴の先までピカピカに磨かれている。完璧だ。この完璧さこそが、彼の権威であり、美であり、力だ。


 内線電話が鳴った。冴は受話器を取った。


「社長、明日の予定ですが……」


 秘書の声だ。まだ働いていたのか。いや、冴が深夜に出社することは秘書も知っている。だから待機していたのだろう。


「明日は何時からだ」


「九時から、銀行との会議です。その後、十一時に議員との会食、午後は商工会議所での挨拶、夕方は新規案件の視察です」


「わかった。七時に起こせ」


「かしこまりました。では、お休みなさいませ」


 冴は電話を切って、社長室の奥にある仮眠室へと向かった。そこには簡易ベッドがあり、シャワールームも完備されている。冴はスーツを脱いで、ベッドに横になった。四時間後には、また新しい一日が始まる。また金を稼ぎ、権力を拡大する一日が。


 目を閉じる前に、冴は天井を見上げた。白い天井が、ぼんやりと視界に映る。金と権力。それだけが彼の興味の全てだ。女は、一時の気晴らしに過ぎない。抱き終わったら、すぐに捨てる。それでいい。感情など、ビジネスには不要だ。


 冴は、その確信とともに眠りについた。深夜の本社ビルは静まり返っていて、ただ空調の音だけが響いていた。窓の外では、東京の夜が明けようとしていた。朝焼けが、ビル群を赤く染め始めている。新しい一日が、また始まろうとしていた。


 白金冴にとっては、金と権力を追求する、いつもと変わらない一日が。

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