弁当屋まんぷく亭の戦争
@kossori_013
第1話 弁当屋の日常
# 第一章 弁当屋の日常
午前十一時を過ぎると、まんぷく亭の厨房から漂ってくる匂いが変わる。朝の仕込みで漂っていた出汁の香りが、今度は焼き魚の脂が跳ねる音と一緒になって、商店街の路地に流れ込んでいく。看板娘の藤堂星菜は、店先のガラス戸を開け放ちながら、鼻先をくすぐるその匂いに小さく笑みを浮かべた。今日の日替わりは鯖の塩焼きだ。朝、父の巌が市場から抱えて帰ってきた鯖は、銀色の鱗が朝日にきらきらと光るほど新鮮だった。
「せいなちゃん、今日も暑いねえ」
道向かいの八百屋から、エプロン姿の女将が手を振ってくる。星菜は右手を大きく振り返した。青空が広がる五月の空は、まだ初夏の爽やかさを残していて、吹き抜ける風が心地よい。商店街のアスファルトは陽光を照り返し、白く輝いている。
「今日は鯖ですよー。おばちゃんも後で食べに来てくださいね」
「あら、嬉しい。じゃあお昼にお邪魔するわ」
女将は嬉しそうに笑って、店先に並べた大根の値札を付け替えている。その隣の魚屋では、若旦那が威勢よく包丁を叩く音が響いていた。商店街の朝は、いつもこうして始まる。互いの店の匂いと音が混ざり合い、挨拶が飛び交い、それがそのまま一日の活気になっていく。
星菜は店先の黒板に、赤と青のチョークで本日のメニューを書き込んだ。鯖の塩焼き定食、八百円。唐揚げ弁当、六百五十円。特製コロッケ弁当、六百円。文字を書くたび、チョークが黒板に当たってキュッキュッと乾いた音を立てる。星菜の長い黒髪が、風に揺れて背中に流れた。腰まで届くその髪は、毎朝母の千代が丁寧に梳かしてくれる。
「星菜、店先の水撒きは済んだか」
奥から低い声が響いた。父の巌だ。五十代後半に見えるその顔は、日焼けして精悍で、口数は少ないが優しい目をしている。星菜は振り返って、笑顔で答えた。
「もう済ませましたよ、お父さん。それより、鯖の匂いがもうすごいです。お腹空いちゃいます」
巌は小さく頷いて、店の奥へと消えていった。いつも通りの無口な父だ。でもその背中が語る安心感は、星菜にとってこの店の全てだった。ガラス戸の向こう、店内には小さなカウンターが五席と、二人掛けのテーブルが三つ。決して広くはないが、磨き込まれた床と、清潔なテーブルクロスが、温かみのある空間を作り出している。
厨房では、母の千代が忙しそうに鍋をかき回していた。エプロンの裾を翻しながら、煮物の味見をしている。その横では、厨房担当の一ノ瀬輝が、手際よく鯖をひっくり返していた。二十代後半の輝は、端正な顔立ちで、近所の奥様たちの密かな人気者だ。白いコック服が、その引き締まった体によく似合っている。
「輝さん、火加減どうですか」
星菜が声をかけると、輝は振り向いて親指を立ててみせた。
「バッチリ。今日の鯖は脂が乗ってて最高だよ。絶対うまい」
その言葉通り、鯖の皮がパリッと焼ける音が厨房に響いている。脂が滴り落ちて、炎が一瞬強く燃え上がる。香ばしい匂いが一気に広がって、星菜の胃袋がきゅうと鳴った。まだお昼には早いというのに、この匂いを嗅いでいると我慢できなくなる。
「ったく、朝ごはんちゃんと食べたでしょうが」
千代が呆れたように笑いながら、星菜の頭を軽く叩いた。ふっくらとした体格の千代は、見た目通りの気のいいおばさんで、近所でも評判の世話焼きだ。でもその手際の良さは、長年この店を切り盛りしてきた貫禄を感じさせる。
「だって、おいしそうなんだもん」
「はいはい。ほら、煮物の味見してみな。今日のは自信作だよ」
千代が小皿によそってくれた筑前煮を、星菜は箸でつまんで口に運んだ。鶏肉の旨味が染み込んだ人参が、ほろりと崩れる。ごぼうは歯ごたえを残しながらも、しっかりと味が入っている。醤油と砂糖の甘辛い味付けが、ほんのり生姜の香りと混ざって、口の中に幸せが広がった。
「おいしい。やっぱりお母さんの煮物、最高」
「そうかい。そりゃあ良かった」
千代は満足そうに頷いて、また鍋に向き直った。厨房の奥では、巌が黙々とご飯をよそっている。一つ一つの弁当箱に、ちょうど良い量のご飯を盛り付ける手つきは、まるで職人のようだ。無駄な動きが一切ない。
店の片隅では、看板犬のポチが丸まって昼寝をしていた。柴犬に似た雑種で、茶色の毛並みがつやつやとしている。時折、夢でも見ているのか、ピクピクと耳を動かしている。星菜がしゃがんでその頭を撫でると、ポチは気持ちよさそうに目を細めた。
「ポチ、今日もいい子だねえ」
ポチは小さく尻尾を振って応えた。この犬がまんぷく亭に現れたのは、十年ほど前のことだ。雨に濡れて震えていたところを、星菜が拾ってきた。それ以来、ポチはこの店の一員として、客たちを出迎えている。人懐っこくて賢い犬で、近所の子どもたちにも人気だった。
十一時半を過ぎると、店の前に人影が見え始めた。最初に現れたのは、近くの工務店で働く田中さんだ。五十代前半の、日焼けした顔に人懐っこい笑みを浮かべた男性で、毎日のように来る常連客だ。
「よう、星菜ちゃん。今日もいい匂いだねえ」
「田中さん、いらっしゃい。今日は鯖ですよ」
「おう、鯖か。じゃあ日替わりで頼むわ」
田中さんは慣れた様子でカウンター席に座り、テーブルの上に置いてあった冷たいお茶を一気に飲み干した。喉を鳴らして飲む音が、心地よく響く。星菜は厨房に声をかけた。
「日替わり一つ、入りまーす」
「あいよ」
輝の威勢のいい返事が返ってくる。ものの数分で、湯気の立つ鯖定食がカウンターに並んだ。焼きたての鯖は、皮がパリパリで、箸を入れると白い身がほろりと崩れる。味噌汁の湯気と一緒に、豊かな香りが立ち上った。
「おお、うまそうだ」
田中さんは満面の笑みで箸を手に取り、鯖を一口頬張った。その瞬間、顔がほころぶ。
「うん、これだよこれ。やっぱりまんぷく亭の魚は最高だな」
「ありがとうございます」
星菜はにっこりと笑って、次の客を迎えに店先へと向かった。田中さんの後に続いて、近くのオフィスで働くOLの鈴木さんが、同僚と二人で現れた。
「こんにちは、星菜ちゃん。今日はテイクアウトでお願いできる?」
「もちろんです。何にしますか」
「私は唐揚げ弁当。あなたは?」
「じゃあ私もそれで」
星菜は注文を復唱して、厨房に伝えた。昼時になると、こうして次々と客が訪れる。誰もがなじみの顔で、誰もが笑顔だ。まんぷく亭は、この商店街の胃袋を支える大切な場所なのだ。
十二時を回る頃には、店内は満席になっていた。カウンターには、配達員の木村さんや、銀行員の佐藤さんが座り、テーブル席には近所の主婦たちが集まっている。みんながそれぞれの料理を頬張りながら、楽しそうに会話をしている。
「まんぷく亭のコロッケ、本当に最高よねえ」
「そうそう。衣がサクサクで、中はホクホク。何個でも食べられるわ」
「うちの旦那なんて、まんぷく亭のコロッケじゃないと機嫌悪くなるのよ」
主婦たちの笑い声が、店内に響く。星菜は注文を受けながら、その会話に耳を傾けていた。こういう何気ない会話が、星菜は大好きだった。この店が、人々の日常の一部になっている。そのことが、何よりも嬉しかった。
厨房では、千代と輝が息の合った動きで次々と料理を仕上げていく。鍋を振る音、包丁が俎板を叩く音、油が跳ねる音。それらが混ざり合って、厨房独特のリズムを作り出している。巌は黙々と弁当を詰めていた。ご飯の上におかずを並べ、蓋をして、袋に入れる。その動作は機械のように正確で、しかし温かみがあった。
「お待たせしました。唐揚げ弁当、二つです」
星菜が差し出した弁当を受け取った鈴木さんたちは、嬉しそうに代金を支払った。
「ありがとう、星菜ちゃん。また来るね」
「はい、お待ちしてます」
二人が店を出ていくと、入れ替わるように新しい客が入ってきた。近所の電気屋の息子で、大学生の健太だ。
「星菜さん、今日も可愛いっすね」
「はいはい、お世辞はいいから注文してください」
星菜は慣れた調子であしらった。健太はいつもこうやって冗談を言ってくるが、悪い子ではない。むしろ、こういう軽口を叩ける関係が、星菜には心地よかった。
「じゃあ日替わり弁当で」
「テイクアウトですか」
「いや、ここで食べていきます」
健太はカウンターに座って、スマートフォンをいじり始めた。星菜は厨房に注文を伝えて、お茶を注いだ。冷たいお茶がコップに注がれる音が、涼しげに響く。
昼のピークは一時過ぎまで続いた。客足が途絶えることなく、星菜は店内とテイクアウトの対応に追われた。それでも疲れを感じないのは、客たちの笑顔が力をくれるからだ。
「ごちそうさま。今日も美味しかったよ」
「また明日も来るからね」
「ポチ、バイバイ」
帰っていく客たちが、それぞれの言葉を残していく。星菜はその一つ一つに笑顔で応えた。ポチも、尻尾を振って客を見送っている。
一時半を過ぎると、ようやく店内が落ち着いた。最後の客が帰っていくと、星菜は大きく伸びをした。肩がこっている。でも心地よい疲労感だった。
「お疲れさま。ちょっと休憩しな」
千代が、まかない用の弁当を持ってきてくれた。星菜の好きなおかずばかりを詰めた、特製の弁当だ。鯖の塩焼き、唐揚げ、筑前煮、卵焼き、ほうれん草のお浸し。どれもが湯気を立てて、食欲をそそる。
「わあ、ありがとう、お母さん」
星菜はテーブル席に座って、箸を手に取った。最初に鯖を一口食べると、脂の旨味が口いっぱいに広がった。焼きたてよりも少し冷めた鯖は、脂が落ち着いて、かえって上品な味わいになっている。塩加減も絶妙だ。
「今日の鯖、本当においしいね」
「だろう? 市場のおっちゃんが、特別にいいやつ回してくれたんだよ」
輝が自分の弁当を持って、星菜の向かいに座った。コック服の袖をまくり上げた腕は、日々の料理で鍛えられて引き締まっている。
「輝さんの焼き加減も最高です」
「そりゃどうも」
輝は照れたように笑って、唐揚げを頬張った。カリッと音を立てる衣の音が、心地よく響く。巌と千代も、それぞれ自分の弁当を持って席についた。四人と一匹が揃って、遅い昼食の時間だ。
「今日もよく働いたねえ」
千代がお茶を飲みながら言った。ほっとした表情が、疲れを物語っている。でもその顔は、満足感に満ちていた。
「明日はどうする? 仕込みは今日のうちにやっとく?」
輝の問いに、巌が小さく頷いた。相変わらずの無口だが、その頷きには確かな意思がこもっている。
「じゃあ午後から仕込みしますか。星菜ちゃんは買い出し頼めるかな」
「はい、大丈夫です」
星菜は唐揚げを食べながら答えた。ジューシーな鶏肉の旨味が、衣の香ばしさと混ざって、最高の味わいを作り出している。これが毎日食べられるなんて、幸せだ。
食事を終えると、星菜は食器を片付けて、買い出しの準備を始めた。エプロンを外して、トートバッグを手に取る。商店街の八百屋と魚屋を回って、明日の仕込みに必要な食材を買ってくる予定だ。
「ポチ、お留守番頼むね」
声をかけると、ポチは小さく吠えて応えた。星菜は店を出て、商店街の通りに足を踏み出した。午後の日差しが、アスファルトを照らしている。風が頬を撫でていく。
八百屋では、朝と同じ女将が笑顔で迎えてくれた。
「星菜ちゃん、お昼ごはん美味しかったよ。ありがとうね」
「喜んでもらえて嬉しいです。明日の分、お願いします」
星菜はメモを手に、必要な野菜を注文した。大根、人参、じゃがいも、玉ねぎ、キャベツ。女将は手際よく野菜を選んで、袋に詰めていく。
「はい、どうぞ。明日も美味しいの作ってね」
「ありがとうございます」
重い袋を両手に抱えて、星菜は魚屋へと向かった。威勢のいい若旦那が、新鮮な魚を並べている。
「よう、星菜ちゃん。明日は何がいい?」
「鯵をお願いします。それから、いかも」
「おう、任せとけ」
若旦那は慣れた手つきで魚を選び、発泡スチロールの箱に詰めていった。魚の匂いが鼻をくすぐる。少し生臭いが、それが新鮮さの証拠だ。
買い物を終えて店に戻ると、輝が仕込みを始めていた。明日の下ごしらえで、野菜を切り、肉を下味につけている。星菜も手を洗って、その手伝いを始めた。
「星菜ちゃん、人参の皮むき頼める?」
「はい」
星菜はピーラーを手に取って、人参の皮をむき始めた。オレンジ色の表面が、薄く剥けていく。その向こうでは、千代が機械のメンテナンスをしていた。業務用の冷蔵庫を開けて、温度を確認している。
「よし、問題なし」
千代の声が、厨房に響く。巌は米を研いでいた。ザルに入れた米を、水で洗う音が、リズミカルに繰り返される。
午後の仕込みは、いつもこうして進んでいく。誰もが黙々と、でも心地よい連帯感の中で作業をする。時折、輝が冗談を言って笑いが起こる。千代が機械のトラブルに文句を言う。巌は相変わらず無口だが、時々小さく微笑む。
夕方五時を回ると、仕込みはほぼ終わった。星菜は最後の片付けをしながら、窓の外を見た。商店街はすでに夕暮れ時の色に染まっている。オレンジ色の光が、店のガラス戸を照らしていた。
「今日もお疲れさま」
千代が、みんなにお茶を淹れてくれた。温かいお茶が、喉を潤していく。星菜は一息ついて、店内を見回した。綺麗に片付いた厨房、磨かれたカウンター、整然と並んだテーブル。明日もまた、ここで一日が始まる。
「明日も頑張ろうね」
星菜の言葉に、みんなが頷いた。ポチも尻尾を振って応えている。
まんぷく亭の一日は、こうして穏やかに終わっていく。何の変哲もない、でも温かい日常。星菜にとって、これ以上の幸せはなかった。商店街の夕暮れは、いつもと変わらず静かで、そして優しかった。
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