第4話 バーチャル地球
その日のバイトを終えた後、店を出てしばらく歩いたところで、ポケットの中のスマホが震えた。
俺のスマホに連絡してくるのは母親か「ふたくら」の女将さん、そしてレポートのやり取りのために連絡先を交換した寒河江、ほぼそのどれかだ。
DMが来るのが嫌でメールもほとんど登録していないし、アプリもあまり入れていないから、俺のスマホは日頃はいたって静かだ。
こんな時間だし母親かな、と思って取り出したスマホに表示されていたのは、しかし母親でもなければ、頭に浮かべたどれとも違うもの――動画アプリの通知だった。
「雑談放送」という文字と、深い青と緑の画像がロック画面に表示されている。
登録しているチャンネルで、ライブ配信が開始されたことを示す通知だ。
イヤホンをつないでから通知をタップすると、「交信中…」と表示される待機画面と、怒涛の勢いで流れるコメント欄が画面に表示される。スマホをしまって、俺はまた、歩き出す。
夜果凍湖、というVtuberを知った日あの夜、俺は夜果のチャンネル画面で「登録」のボタンを押した。そしてその日から、俺がバイトからの帰り道に聞くのは、もっぱら夜果の配信になった。
夜果の落ち着いた声だとか、語られる内容だとか、要は夜果の配信の雰囲気が、俺は自分でも不思議なほど、気に入ってしまっていた。
夜果は俺が予想した通り、雑談をメインとしているVTuberだった。過去にゲーム実況をしていた時期もあるようだけど、歌は一度も歌っていない。ほとんど毎日のように配信される、夜遅くから一時間くらいの雑談が活動の主体で、ごくまれに、朝や昼に短めの配信をすることもある。
『雑談放送』という配信タイトルの通り、夜果自身が話したいことを話すのがこいつのスタイルで、配信中のコメントはあまり拾わない。
その代わり、というわけでもないだろうけれど、何週かに一回、『お便り放送』と銘打った配信で、専用フォームで募った夜果へのメッセージや雑談放送で送られてきていたスーパーチャットを読み上げ、寄せられた質問に応える。
それが、VTuber、夜果凍湖の配信スタイルだった。
「えーっと、この声は聞こえているかな。おはよう、あるいはこんばんは。夜果凍湖です」
不意に、イヤホンから夜果の声が聞こえていた。少しだけ掠れた、低い声。
「それじゃあ今日も、この声が届くことを祈って。こちらの地球は少しずつ寒くなってきて、もうすぐ長い夜が来る。そちらはどうかな」
宇宙の彼方から聞こえてくるみたいに、夜果の声は静かで、寂しげだった。というか実際、夜果の放送は宇宙の果てから届いている――そういう設定になっている。
『宇宙の彼方、バーチャル地球から配信を行う旧人類の生き残り。』
それが、夜果凍湖の各種のSNSに書かれているプロフィールだった。バーチャル地球ってなんなんだとか、じゃあこの配信を聞いている俺たちは新人類なのかとか、そういうことを気にするのは無粋なんだろう。
VTuberの、Live2Dで動くアバターの向こう側には確かに生きている人間がいて、リアルタイムで喋っている。でもその人間を、VTuberの魂を暴こうとするのは、野暮なことだ。
だからこそ、VTuberにはプロフィールがある。二次元と三次元の狭間で、老若男女も種族も超えた概念の存在になることで、俺たちは安心してそのVTuberの世界に没頭することができる。
夜道を歩く俺の背中を撫でるように、甘くやわらかな風が吹く。イヤホンの向こう、遥か彼方の宇宙で、夜果が小さく咳き込む。
「聞き苦しかったらごめん。ちょっと朝晩の気温差が大きかったものだから、少し体調が、ね。そうだな、今日は何を話そうかな。相変わらずこの辺りの宇宙は静まり返っていて、来訪者の一人もないんだけど――」
VTuberとしての設定にどれほど忠実なままで配信をするかは人それぞれだ。
とある国のお姫様、という設定でありながらずいぶん庶民的な幼少期の思い出を話すVTuberもいるし、人間とは違う妖精、という設定のくせに、どう聞いても人間としか思えない日頃のエピソードを話す配信者もいる。
夜果とはいえば、たぶん、かなり設定を厳格に守りながら配信をするタイプのVTuberだった。
雑談配信で夜果が話す内容は、そのほとんどが自分自身の内面的なことだったり、昔読んだ本の話だったり、自分が好きなもの――動物や気象現象の話だった。
好きなものについては詳しく調べる性格らしく、夜果の配信には俺が知らないものや概念の話が次々と出てくる。
一方で、夜果の家族の話や友人の話は、ほとんど――というか、俺が聞いた範囲ではちっとも出てこない。他のVTuberとの交流の話なんかも、一切聞いたことがなかった。
一応、夜果は小規模なVTuber事務所に所属しているようだから、他のVTuberとの交流がないわけではないと思うのだけれど。
とにかく、夜果の配信はいつも孤独で、孤高で、少し寂しい。
誰かに届いているかどうかも分からない声を、宇宙の彼方から聞かせてくれるその寂しさが、俺は好きだった。
実際には、夜果の配信はいつも数百人がリアルタイムで聞いていて、ときおり画面を見れば夜果の雑談へのコメントが絶えず流れている。
夜果に対して、その愛称である「ヨハトコさん」「ヨハさん」と呼びかけるコメントは、暗い夜道の中で、まるで流れ星のように輝いて見えた。
それでも、スマホをポケットにしまって、切れかかった街灯の灯りの下を一人で歩いていると、夜果の声は本当にどこか遠い宇宙から放たれているみたいに聞こえて、俺はその声に気づくことのできたたった一人の人間であるような気がしてくる。
「――ああ、でも、そうだな。最近、少しだけ、他の生命体と通信がつながるようになってね。たまたまこの辺りを通過した生命体みたいなんだけど」
だからこそ、夜果がそんな話を始めたとき、俺は驚いた。
「向こうも暇を持て余しているみたいでね、少し議論なんかをしてみたんだ。誰かと意見を交換するなんて、久しぶりだったな。昔の言葉で言うなら、ディベート、というのかな。向こうが賛成、こっちが反対に分かれて……星間公用語なんて久しぶりに使ったから、ずいぶん骨が折れたけど。でも、うん、そうだな……」
設定に忠実に、破綻がないように慎重に言葉にされるそのエピソードのもとになっているのはきっと、夜果の魂が経験した出来事だ。夜果がそんなことを、誰かとのエピソードを話すのを、俺は初めて聞いた。
「僕はずっと、怖かった。言葉というものが。人というものが。言葉はときに人を傷つける。死に至らしめることだってある。そして、言葉をつかって人を傷つけようと、死に至らしめようとする人が、世界には案外いるものだから。この声が届いている世界では、そんな悲しみはなくなっているといいんだけど」
ぽつぽつと、雨垂れのように夜果は言葉を紡ぐ。ラジオ番組やVTuberの配信はいくつも聞いてきたけど、夜果の配信はそのどれとも違った。
千人以上のリスナーに向けて、こんなに寂しそうに、こんなに怖々と紡がれる言葉を、俺は初めて聞いた。
「星間公用語で、つまり、お互いが自分の母語とは違う言葉で話したからかな、その存在との議論は案外心地よくてね。世界がこんなことになる前に、もう少し他の旧人類と言葉を交わしても良かったかな、なんて思ったりもしたんだけど」
歩きながら、夜空を見上げてみる。人間が静まり返った夜の間でも、空は案外賑やかだ。目を凝らして見上げていると、ちかちかと瞬く星の光が眩しいほどで、このうちのどれかに、夜果が配信をしている星があるのか、なんて一瞬思った。
いや、でも、夜果がいるのは確かバーチャル地球か。バーチャル地球ってなんだ? それは俺がいる、この地球とは別なのか。同じようで同じじゃない、パラレルワールドの地球、みたいなことなんだろうか。
そんなことにふっと思いを巡らせていると、夜果の話はいつの間にか、別の話題へと移っていた。
「最近は、絶滅動物について調べていて。まあ、僕以外の存在はみんな絶滅してしまったようなものなんだけど……まだ旧人類が生きていた頃、旧人類が絶滅へとおいやってしまった動物たちのことをね」
またずいぶんマニアックな話題だった。イヤホンからは、俺が聞いたこともないような、哺乳類なのか爬虫類なのか鳥類なのかも分からない生き物の名前が次々と出てくる。
ロードハウセイケイ、オーロックス、モーリシャスクイナ、エピオルニス、クアッガ、キムネカカ。
だんだんと講義じみてくる夜果の雑談を聞いているうちに、俺は自宅へと帰り着いていた。
家賃3万円、築40年のワンルーム。見た目はすさまじく古めかしいオンボロアパートだが、一度リノベーションがされているらしく、外観や築年数の割には綺麗な内装をしている。
そんなアパートの一階の最奥が、俺の一人暮らしの城だった。
イヤホンも外さないまま部屋に入って、だけど手だけは軽く洗って、敷きっぱなしの布団に寝転がる。イヤホンを取ってスマホを置いて風呂に入らないと、と思うのに、なんだか無性に、この配信を聞いていたい気分だった。
「――こういう、絶滅してしまった動物たちのことを考えると、僕は……うまくいえないんだけどね、少しだけ、人類のことが愛おしく思えてくる。もちろん、他の種を絶滅させるという行為を称揚するわけじゃないよ。むしろ、その愚かさというのかな……人類の文明の利益のために他の種を絶滅までに追いやってしまう、その傲慢さが、愚かしさが、愛おしいような、なんていうのかな……」
目を閉じて、耳を傾ける。沈黙が満ちる。イヤホンの中に、部屋の中に、宇宙をつなぐ長い距離の中に。
ラジオじゃ沈黙は許されないらしいが、夜果の放送ではときどき、言葉を探して夜果が何秒も黙りこくることがある。夜果は言葉に妥協しない。
誤魔化しのない、本当の言葉だけを話そうとしている。その愚直な姿勢が、俺は好きだ。
「……ごめん。うまく言えない。このことは、また今度話そうかな」
結局、夜果は諦めたような声でそう言った。そして話題は、また別のものへと移る。
目を閉じたまま、相変わらず淡々とした口調の配信を聞いていると、俺はいつしか、眠りに落ちていた。
目が覚めたときには当然ながら配信は終わっていて、俺の側には、耳から抜け落ちてしまったイヤホンが、寂しげに転がっていた。
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