ブライニクルと一万円

柴崎

第1話 ファーストコンタクト



 俺が寒河江晴のことを認識したのは、「実践英語」の講義を履修したことがきっかけだった。


 忘れもしない、九月の第一週、月曜三限の初回講義。その時も、寒河江は俺の一つ前の席に座っていた。

 「実践英語」は、実践と名の付く通り、英語のリーディングやライティングを特訓するための講義だった。


 シラバス曰わく、各回一つのテーマについて関連するニュースを英語で読み現代国勢情勢を学ぶ。次回までにそのテーマについて自分の意見を述べるレポートを提出すること。期末試験はなく、評価は各回のレポートによる。


 過去の試験問題を気にする必要がない、というのは俺にとって理想的だった。勤勉に実直に、レポートを提出さえすれば評価してもらえる。それで、優ではないにしろ可くらいはもらえるのだったら有り難い話だ。


 そんなわけで履修登録を済ませて臨んだ初回の講義で、しかし担当教員だという白髪混じりの教授は、予想外のことを言い出したのだった。


「ええ、今期は少し趣向を変えましてね、君たちには二人一組で課題に取り組んでもらおうと思います」


 後から振り返ってみれば、あれは教授によるちょっとした意趣返しのようなものだったんだろう。


 その時の俺は知らなかったことだが、「実践英語Ⅱ」は楽単として有名で、それ故に例年、履修者数も多かったらしい。単位目当ての適当なレポートばかりが提出される現状を腹に据えかねた、というのは俺の適当な推測だが、ともかくとして教授はレポートの提出形式の変更に踏み切った。


 しかも、その「二人一組」は学生同士で自由に組ませるのではなく、教授のほうで指定するという念入りっぷりだ。


「それじゃあ、貴方と貴方ね。それから、貴方と……そこの、そう、貴方」


 そんなふうに、単位獲得というゴールテープを目指して走ることとなる二人三脚の組み合わせを決めながら教室を前から後ろへと歩く教授の姿は、どことなく楽しそうだった。 


 形式変更の宣言を受けて、困惑もあらわに友人と顔を見合わせる学生たちの様子がよほど愉快なんだろうか?


 一方、俺はといえば、教室の前から数列目に座っていたものだから、早々に運命の相手を教授により指定されていて、後はもう、祈ることしかできなかった。


 俺のパートナーとなった男子学生、俺のちょうど一列前に座る、猫背なそいつが、あまり人に興味がない奴であることを、ただ祈ることしか。


 運命の相手を決める奇妙な儀式の後は、最近のニュースについて英語の記事を読み解くという、シラバスに忠実な講義が粛々と行われた。関税だとか、首脳会合だとか、日本語であったとしても自ら読もうとは思わない経済関連のニュース。


 眠気がいよいよ抑えがたくなってきた頃、教授はようやく解説を終え、そしてふと思い出したとでも言うように、今後のレポート提出についての説明を行った。





 教室の前の壁に掲げられた時計が三限の終了時間を指し示し、教授が出ていった後の教室は、気の抜けたざわめきに満たされていた。


 楽単だと思ったのに、という不満げな声に混じって、自分の運命の相手と連絡先でも交換しているんだろう、新たな出会いに浮かれるような声も聞こえてくる。


 それを背中で感じながら、俺は微動だにしない目の前の男を眺めていた。俺の記憶違いじゃなければ、俺の相手はこいつだと教授から指定されたはずだ。


 だが、目の前のこいつは、講義の最中とほとんど変わらない、少し丸まった背中のまま、俺のほうを振り向こうとさえしない。


「あのさ」


 そう話しかけて、軽く背中を叩いてみる。そいつは、びくり、と大袈裟なほどに肩を揺らすと、ゆっくり振り向いた。


「確か、俺たちがペアだったよな? 違ったらごめんだけど」


 やっと俺の方を見たそいつの顔の第一印象は、暗い、とにかくそれに尽きた。癖毛なのだろう、細かくうねる前髪は目をほとんど全部隠してしまうほど長い。


 そのうえ、大きな黒縁の眼鏡までかけているから、いよいよ暗い。暗すぎる。


 だけど、そのいかにも根暗っぽいその出で立ちが、俺はかえって有り難かった。陽気で気さくで、これも何かの縁だし一緒に飲みにでも行くか、なんて言い出すような奴じゃなさそうで、本当に良かった。


「……ち、違わない、と思う」

「だよな、よかった。レポートのことはさ、メッセとかでやり取りするのでいいか? ほら、お互い忙しいかもだし」


 ああ、ともうん、ともつかない返事をして、そいつが頷く。


「じゃあ、俺のQRはこれ。あ、俺、小篠ね。小篠光晴。ドイツ文学科の二年」


 そいつは俺が差し出したスマホの画面を、睨むみたいに凝視した。

 自分のスマホをポケットから取り出す動作が、やけにぎこちない。


「あー……もしかして、メアドとかのほうが良かった? 俺はそれでもいいけど」

「いや……いい、こ、これで」


 初めて連絡先を交換するんじゃないかってほど覚束ない手つきで、それでもそいつはどうにか俺のQRコードを読みとった。

 少しの間のあと、俺のスマホに、新たなメッセージ通知が届く。開いてみれば、黒っぽいアイコンに、名前として「Y」とだけ表示されたアカウントから、スタンプが一つ送られてきていた。


 トーク画面を開いて見てみると、メッセージアプリにデフォルトで入っているような、キャラクターがぺこりと頭を下げているスタンプだ。


「これ、だよな?」


 画面を見せて確認すると、そいつはまた、もごもご言いながら頷いた。


「あー……えっと、名前、聞いても大丈夫? いや、個人情報隠したい系だったら、全然いいんだけど」

「……さ、寒河江」


 さがえ。さがえ? 俺の身の回りにはいない名字だったから、頭の中で漢字に変換するのに、少しばかり時間がかかった。


 さがえ。たぶん、寒河江、だろう。スマホの画面を見下ろしながら、その名字を忘れないように頭の中で繰り返しておく。


 アカウント名も「Y」なんかじゃなく「寒河江」なり「さがえ」なりにしておいてくれよ、と思ってしまうが、俺のアカウント名だってかつてのあだ名からとった「ザッサー」なのだから、人のことを言える立場じゃない。


 トーク一覧の画面に戻ると、追加されたばかりの黒っぽいアイコンが、ふと目についた。塗りつぶしたような黒じゃない。ところどころに白い線のようなものが交じる、黒と紺が混ざり合ったような色合い。

 なんだろう、と少し気になったけど、わざわざ聞くほどのことでもない。


「じゃあ、これからよろしく。レポートのことは、また連絡取り合うってことで」

「……あ、ああ、うん」


 寒河江は、また肩をびくりと震わせながら頷いた。


 それが、俺と寒河江のファーストコンタクトだった。

 

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