キャット・アンバーの大冒険
キャット・アンバーの大冒険-1
彼女の控えめな足音に引かれるまま、カフェの二階席へ向かっていく。階段を登るときに不可抗力的に見てしまったその足はライトブルーのサンダルを履いていた。
憧れの作家に足が生えていることに安心を覚えている中、彼女の足が不意に視界から消える。
視線を少し上げてスカートを追いかけると、右側のカウンター席をふたつ確保しているところだった。
「ね、ね。ここにしようよ」
荷物を片方の席に置いて、こちらを振り返ってくる。
「最初から向かい合わせは緊張しちゃうから」
「そう、ですね……そうしてもらえると、僕も助かります」
「うん。じゃあ次は注文かな。サーさんは何飲む?」
「……え?」自認はできても慣れないアカウント名呼びに、反応がワンテンポ遅れてしまう。
「えっと……アイスコーヒーとか?」
「夜になっても暑いしね、わかる。サイズはMで大丈夫?」
「? そのつもりですけれど」
「わかった。じゃあそれ買ってくるから、待っててね」
「え? 自分のくらい自分で──」
「気にしないで! その代わり、荷物番お願い」
そう言って彼女は僕の横を通り過ぎていく。今度は僕が振り返れば、黒髪が階段に合わせて下がっていくのが見えるだけだった。
このまま追いかけても良かったが、荷物番も必要なことに変わりはない。大人しく引かれたままの椅子に近づいて静かに待つことにする。
カウンター席からは階下の様子がよく見えた。ひとつ裏道に入ったところにあるからか、駅前よりは人通りが少ない。
キャッチらしい男が通りすがりの女性に声をかけているのが見えた。見えたところで、無事逃げられますようにと願うことしかできないんだけれど。
結局は他人の話。僕はスマホを開いて、ネットの海を泳ぐことに集中し始めることにした。
彼女が行ってしまったのなら先手を持って金額を準備しておくしかない。ここのコーヒー代はどこかのサイトに書いてあるだろうか?
店名、駅名と入れればあっさりと値段が出てきた。財布を確認して、ぴったりあることにほっとする。
……しかし、こういう時はお釣りはいらないと余分に払うべきなのだろうか。
それとも先手を打たれてしまった時点で、不要なやり取りは行わないようきっちりと準備しておくべきなのだろうか。
普段遊ぶ友人とのやりとりを思い出すが、大体が適当な流れだったせいで何の参考にもならない。こうなったら、デート対策サイトを見ておくべきだったかもしれない。いや、これはデートなんかではないけれど。
思考を払うようにもう一度スマホと向き合った。習慣的にブックマークを開き、慣れた手つきで進んでいく。
とある小説投稿サイトを開く。マイページからフォロー一覧へ。その一番上に固定をしている作家を押せば、簡単すぎるほどにその作品の山を除くことができる。
僕が固定するほど執心している作家はもちろん、向上つばさ。
先ほど階下へ降りて行った女性の作品だった。
スマホをカウンターテーブルに置き、自由になった手で顔を覆う。目元まで深く。そのまま大きく息を吐けば、メガネレンズがもやがかった。
そんなことも気にせず、目を閉じる。一体なぜこんなことになったのか分からないまま、向上つばさという作家について分かることを遡った。
出版社で活動している現役小説家、没年が著者紹介に書かれる文豪、ネットに数多くいる文字書き。そんな人らを捨て置いてしまうほどに僕の一番好きな作品を書く人。
SNSのアカウントはあるが、そこでの動きは作品の投稿や更新情報のみ。あとがきやプロフィールも簡素で個人感情は一切晒さない。個人の特定はおろか性別の判断さえ難しい人。
ファンやプライベートとは確実な一線を引き、活動を続ける。
それが向上つばさという存在だ。
なのに何故、僕は今本人と会ってお茶をしようとしているのか、全く意味がわからない。
もう一度レンズを曇らせていると、頭上から
「お待たせしました」と女性の声が降ってくる。慌てて顔を上げれば、窓に反射した世界で女性──向上さんがひとつ笑っていた。
「アイスコーヒーとアイスレモンティー、ひとつずつ。ミルクとガムシロも一個ずつ貰ってきたけれど、甘党だったりする?」
「いえ、一個ずつで大丈夫です。すみません、ありがとうございます」
彼女の荷物に触れないよう椅子を引いて、慌てて財布を手に取る。レモンティーの金額を見ていなかった自分の不出来さを呪いながら、アイスコーヒー代を置けば彼女は「いいよ」とひとつ首を振った。
「今回は私が呼んだし。奢らせてくれない?」
「でも、」
「でもじゃない。女の言うことは素直に聞け、ってジュンも言っていたでしょう?」
例のルカが旅先で出会った男の台詞に、思わず手が止まる。それを見た彼女は三日月型に口元を微笑ませて「そういうこと」と続けた。
「『話のわかる男はモテるぜ! 一国のお姫様を落としたこのジュン様が保証してやる』」
「それは……」思わず口元が緩む。「素直に甘えるしかないですね」
「でしょう。ジュンもきっとドヤ顔してる」
紙ナプキンの上にレモンティーを置いて、トレイごと僕にアイスコーヒーを渡してくる。そのまま隣に座ってくると同時に、小さな風と共に甘い香水の匂いが飛んできた。
「ありがとうございます」と感謝を述べてミルクに手を伸ばす。本当はブラックが好みだけれど、彼女がせっかく用意してくれたものを使わない方がもったいない気がした。
ミルクを淹れるのに全神経を使っているふりをして、ちらりと彼女を盗み見る。
ようやく白色灯の下に晒された彼女は、いたってどこにでもいる女性のように思えた。
額を覆う長さで揃えられた一直線の前髪は可愛らしい印象を与えてくる。紺色のヘアバンドが長い黒髪を堰き止めているおかげで、彼女の顔がよくわかるのは正直な話、嬉しい。
白い肌に真っ黒な瞳。化粧が薄い方だからか、僕が女性の平均的な顔立ちを知らないからか。僕の目からは彼女が未成年と言われても納得できてしまう。
けれどあの投稿サイトの使用可能年齢や向上さんの投稿歴から二十二歳は超えているはず、なんていう気持ち悪い考察を止めるためにガムシロップも開けた。責めるように飛び跳ねたシロップは、カップの縁で擦り取ってなかったことにする。
憧れで敬愛する作家が、今横にいる。少しだけ跳ねた彼女の髪の毛を直そうと思えば直せる距離にいる。他の読者が知らない彼女を、今、現在進行形で知っている。
心音を誤魔化すように白いストローをコーヒーの海へ突き刺した。真っ白の奥に少しだけ黒が透け、氷の山を掻き分けて海底を目指していく。それに従うように下っていく白と透明な液体を勢いよくかき混ぜた。
カラカラ、という音に彼女が顔を上げる。水面に打ち上がったレモンの輪切りを突いていた、ストローの先が動きを止めた。
「どうしたの? ご乱心?」
「気持ちを……こう、沈めてます」
「沈めてます」
「……だって、信じられなくて」
我ながら情けないと思いながら、手を止めた。
「今……こうして向上さんと会えてることが」
言葉を急かすようにもう一度氷の山を突く。
「ありえないです。訳がわからない。だって、ただの読者ですよ」
「ふぅん。そんなに訳がわからない?」
「はい」大きな氷の塊が砕けた。「感想で会いたいとも書いたことがないですし……小説を書く同業でもない。イラストだって描かない。曲も作らない」
自分で言っていて虚しくなりながらも言葉を続ける。ストローでかき混ぜれば、どんどん濁った飲み物へ変わっていった。
「そんな……ただのファンと会おうと言ってきたことが、わからないんです」
向上さんの視線がふいっと窓の先へ向いた。反射的にしまった、と思う。
彼女の機嫌を損ねただろうか、様々な街で旅をしたルカならこういう時うまくやれるだろうに。
「そっか。わからないかぁ」
失望の色を勝手に感じて視線をコップに集中させる。一瞬視界に映ったイヤリングをいじっていた手が、どうか外そうと悩んでいる訳ではありませんように。
「……まあ、確かに。私がサーさんだとしたら意味がわからないか。何も言ってなかったもんね」
助け舟に視線は簡単に上がった。窓越しに映る、向上さんの指先は自分の口元を撫でてうん、と小さく呟く。
「私も急に『お会いできませんか?』ってメッセージを送っただけだし。それは確かにわからないね」
逆にこんな誘いで来てくれたことが信じられない、と窓に向かって笑う。店外の暗がりと店内の反射に挟まれた笑顔は、僕には輝く一番星に見えた。
「それじゃあ、そこから話そうよ」
今度は向上さんの手が動いてレモンの輪切りを突き始めた。隅っこへ追いやって、軽くカップへ押し付ける。
まるで絞り出されたレモンの果汁を追いかけるように、コップの汗が伝って紙ナプキンを汚した。
「私がサーさんを呼んだのは、お願いがしたかったから」
どんな理由が飛んできても首を傾げる中で、世界一訳がわからない理由に思わず顔を見る。
僕が神様にお願いされることなど皆目検討がつかなくて、彼女の手元から探るように視線を上げていく。
そうすると、少し低い位置にある黒い瞳とまっすぐ目が合った。
しまったと、反射的に視線を落とせば、逃がさないと言わんばかりの力強い小さな声が続く。
「君にしか頼めないと思ったから」
周囲の話し声を掻き分けてはっきりと届いてきた。
それでも空耳と思ってしまうほどの殺し文句に窓越しに彼女を確認すれば、予想していたように窓を介して僕と視線を合わせてくる。
教会で微笑むシスターのように優しく、悪戯がバレた子どもの言い訳を聞く母のように柔らかい微笑みを浮かべながら。
ジュンがそんな風に笑う女にも気をつけろと言っていたっけ。
こんな時でも向上さんの作品に現実逃避しかけた脳を、引き戻したのもやはり向上さんの言葉だった。
「それで、お願いなんだけれど……」
そこで一度話を区切り、アイスティーを口に運んだ。レモンが酸っぱかったのか、一瞬寄った眉間の皺はすぐに戻っていく。
「……ダメだね。小説みたいにカッコつけるのって、難しい」
「……そう、ですね」
「うん。本当に難しい」
相変わらず窓越しに視線を合わせながら、向上さんが笑う。その手がアイスティーを置けば、振動がカウンター伝いに届いてきた。
「よし、今度こそ」
窓越しで彼女の視線が横に動く。僕を直接見ようとしていると理解が追いつく前に、右手の近くで小さくリズムが刻まれる。
飛び跳ねるようにそちらを見れば、テーブルを数度指先で叩いて「ねえ」と首を傾げる向上さんがいた。
「私の、『向上つばさ』の小説、好き?」
「えっ……ええ、勿論。いつだって楽しみにしています。ルカのバッグと似たものやアンバーみたいな猫キャラを探すくらいには」
「そっか、そっか。じゃあ」
僕の近くに伸びていた手が戻っていく。そのまま頬杖をついて
「私の小説、ずっと読みたい?」
「それはそうでしょう」思わず食い気味になる。
「あの投稿サイトの中で──……いや、どんな旧作新作より。あなたの作品が一番楽しみなんです」
「思ってたより熱烈でうれしい。ありがとう」
口元がゆるやかに笑みを浮かべていく。じゃあさ、と艶めいたピンクの口を広げた。
「私が、小説を書き続けるために。私が行けるところまで行くために」
サンディーのような、雫型のイヤリングが彼女の指先に合わせて踊る。
「私の、スケープゴートになってくれない?」
黒髪の頭が小首を傾げる。合わせてイヤリングが首肯を促すように揺れる。
唖然とする僕を置いてけぼりに、コーヒーのストローがくるりと回って了承したような気がした。
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