タマス・ティールはただの学生、元聖女なんかじゃない

 などというちょっとした昔話というか回想を行う余裕があるくらいの間、トープさんは黙り込んでいました。

 私の馬鹿げた問いかけと私の表情からこちらの真意を探ろうとしているような表情でした。

 おそらく、トープさんは確証はしていないのでしょう。

 せいぜい万が一本人である可能性が捨て切れないからその確認をしている、というようなレベル。

 なのでその万が一が絶対にないと偽証する必要が私にはありました。

 とはいっても、私が先代聖女であるという決定的な証拠がない代わりに、先代聖女ではないという決定的な証拠を作り出すこともまた不可能な話でした。

 であればもう、目の前にいるこの人物に『タマス・ティールはただの学生、元聖女なんかじゃない』と心の底からわからせるしかないのです。

 私のことを疑いの目で見るのは現状この人だけ、であればこの人だけを丸め込めばそれで解決です。

 元聖女であろうとそうでなかろうと、今の私はただの学生で、それが露見したところできっと大きく何かが変わることはないでしょう。

 友人達はしばらく大騒ぎになるかもですけど、そのうち私以外のニグルム寮生が引き起こすトラブルに埋もれてどうでもいいこと扱いになるでしょう。

 けれども。

 あの変わり者の孫娘のお名前を、そのままあんな装置じみた聖女の名前としてそのまま使ってしまったことを後悔していました。

 それならば、そんな名前を騙っていた聖女なんてもういない方がいい。

 私のことを心の底から嫌っていたあの人は、私の顔を見るたびに苦痛と怒りにまみれた顔をしました。

 あの装置じみた聖女さえいなければ、彼はそんな顔をせずに済む。

 とても大切なものを失くしてしまいました、とある人からの貰い物を。

 あの馬鹿な小娘が存在ごと消滅したということになっていれば、それを失くしたことも隠し通せる。

 それに、元聖女だからと面倒ごとに巻き込まれるのはごめんです、今の私は鋼魔法以外ろくに使えない雑魚キャラなので。

 トープさんはただ無言でこちらを睨んでいました。

 何も言わない彼女にどうしたものかと思っていると、彼女は私の顔の右側に軽くかかっていた髪を片手で払いました。

 黒い瞳が私の右耳を数秒凝視しました。

 もうなんの傷も残っていないそこを、この人には見られたくなかった。

 ……まあ、今の私はただの学生で、この人はただのクラスメイトで同寮生、ただそれだけの関係。

 だから、バレさえしなければどうとでも。

 髪を払った手が私の喉に伸びて、そのまま緩い力で掴みました。

 冷たい手でした、急所に触れられたからには向こうの身体のどこに穴が開いても文句は言われずに済みますね。

 杖がないとコントロールがうまくいかないのですが、それでも利き腕を潰す程度のことはやろうと思えばできるでしょう。

 とはいっても、締め殺す程度まで力を強められでもしなければそんなことはしませんが。

「……そうだ、って言ったら、お前はどうする?」

 長い沈黙の後、ようやく返ってきた答えがそれでした。

「否定しますね。とんでもない勘違いですよ、それ。確かに私は身元不明の怪しい人ですけど、ただそれだけの人です。聖女様みたいなすごい人に間違えられるのは」

「あいつは、全然すごくなんかなかった」

「聖女なんですからすごい人ですよ。私みたいな一般……一般変人とは比べ物にならないくらい」

 一般人と言い切りたかったのですが、そこまで普通の人ではなかったですしそう言い切れるほど図太くなかったので謙遜しました。

「一般人とは言わないのか」

 トープさんは思わず突っ込んでしまった、という顔をします。

「ニグルム寮生ですからね、これでも。悪い意味で一般人を名乗れるほど普通ではない自覚はあります」

「……へえ」

「普通のままでいられるといいですね、新ニグルム寮生のあなた達は……まあ、私含めあんな連中と同じ寮同じ年になってしまった時点で…………残念ながら、という感じではありますが」

 心の底からの同情の目で見詰めます。

 かわいそうに。

「はあ? ……たかが変人ばかりの寮ってだけで崩れる程度の『普通』じゃないんだけど、こっちは」

「たかが変人の巣窟で済ませられないのはこの一週間でなんとなく察しているのでは?」

 トープさんは言葉を詰まらせました。

 彼女は可哀想なことに初日にドラゴン内臓愛好クラブ部長の内臓チェックを目撃してしまっていますからね。

「寮内で全裸踊りをしているセクシー美少女がいても動じない、腐った魔物のゾンビや骸骨の群れに取り囲まれても気にしない、興味もないのに増える毒の知識、基本シャークとサメしか言わないキメラ人間をまだマシだと思うようになる、爆発音が響いても今日も元気だなとしか思わない、ドラゴンの胃袋に詰まった人間の死体を見た後平然とご飯を食べられる……他にも色々、今年のニグルム寮に所属していれば自然とそうなるというか、そうならないと心が病むと思うのですが……それでも普通でいられます?」

「……この寮、そんなにやばいのか」

「この寮というか今年の一年生カッコ内部生が特別やばいらしいです。他の学年はそこまでじゃないみたいですよ」

 トープさんは少しだけ何かを考えた後、こんなことを聞いてきました。

「……逆立ちで毎朝階段爆走してる奴と、庭園で変な儀式やってた奴らもその特別やばい一年か?」

「それは上級生ですね」

 なんとなく覚えがあったのでそう断言できました。

 新ニグルム寮生はまだ目立った奇行をやってる人はいないとこの前一人お化け屋敷と筋肉バカも言っていましたし。

「他の学年もおかしいじゃねえか!!」

「その程度ならそこまでおかしくは……」

「おかしい!! それを『そこまで』って思ってる時点でもうおかしいから!!」

 そう叫んだ直後、トープさんは急にハッとして、苦虫を噛み潰したような顔をしました。

「違う、そうじゃない、今はこの寮のイカれどものことなんざどうでもいい……お前だ、お前その顔でよく平然とあの聖女じゃないとか抜かせるな、あれと同じその顔で……!!」

 脱線していた話をトープさんが急速に元に戻しました。

 そういえば、そんな話でしたっけ。

「私とその先代の聖女様の顔、似てるんですか? はじめて言われましたよそんなこと」

 嘘でも誤魔化しでもなく本当のことでした。

 それに記憶喪失状態で森の中に落ちていた私と、先代の聖女に何か関連性があるのではと疑われたことすら一度もないのです。

 聖女が消えてすぐに発見された身元不明の謎の少女、時間的にはそう疑われてもおかしくなさそうなのに、誰もそんなふうには考えもしなかったのです。

「……今のと違ってあいつの顔は基本表に出回ってないからな。あいつの顔をまともに覚えているのは俺くらいだろう」

「はあ、そうなんですか」

 白々しくそう答えておきました、そういえばお忍び以外で人前に出る時は基本仮面をつけさせられていたような気がします。

 あの髪色だけで私が聖女であるという証明ができたので、それ以外を晒す必要はないと。

 先代の聖女はトープさんやローズドラジェさんみたいな美少女ではなかったので、可愛くもなければ清らかでもない顔に幻滅されないようにそんなものをつけられていたのでしょう。

「普通はそういうものなんだよ、今のみたいに普通に顔出しして学校通ってるのはかなり異例だ。……普通は顔隠すし、人前になんて滅多に出てこない。そういうのが聖女の普通だった」

「はあ……そうですか、ってことはローズドラジェさんって聖女としては結構イレギュラーなお方なんですかね?」

「そうだよ。……というか、今は雇い主……マリーナのことなんかどうでもいい」

 おっと、今代の聖女のことは名前呼びしていらっしゃるのですかこの人は。

 先代の聖女のことは頑なに「聖女サマ」か「お前」としか呼ばなかったのに。

 そりゃまあそもそも先代の聖女に名前なんてものは始めからりませんでしたし、呼び名として使われていたあの名前だっておじいさんのお孫さんのお名前だからあの名前で呼ばれることに罪悪感もありましたが。

 へえ、ふーん、そうなんだ、そうなんですか。

「おい、聞いてんのか」

 喉にかかる負荷が若干重くなったのでハッとしてトープさんの顔を見上げました。

「すみません、聞いてませんでした。ちょっと考え事を」

「この状況でよく考え事なんてできるな。ぼさっとしやがって、俺はお前のそういうところが大嫌いだよ、昔から」

「昔からと言われましても、出会ってまだ一週間だというのに……」

「はん、お前がそう主張したいのはわかった。どうあがいても認める気がないらしい。……もう一回だけ聞いてやる、お前、先代の聖女だろう?」

「……あいにく記憶がないので絶対とはいえませんが、違いますよ」

 絶対と言い切ると逆に疑われると判断し、そう答えました。

「その記憶がないっていうのも本当なんだかどうだか。……記憶喪失だったのは本当だったとしても、本当はどこかで思い出しているんじゃないか?」

 なんでこの人こんな鋭いんですかね。

 その通りですけど、ここではいそうですと肯定するわけにはいきません。

 あんなのはもう死んだ、どこにもいないでいいのです、その方が誰にとっても都合がいい。

「いえ、残念ながら何も。……記憶がなくても割とどうにかなっているので、無理に思い出そうとも思ってないんですよね。思い出したところできっとたいした経歴の持ち主ではないでしょう。昔の私も今の私と変わらずただの凡人に違いありません」

「…………ふーん、そういうことにしたいんだ?」

「したいというかそうなんですよ」

 そうですよ、そういうことにしたいんですよ、察して引いていただけると大変助かるのですが。

「やけに強情だな? 素直に認めちまえ、今なら許してやるからさ」

「そうではない事をそうだと認めるわけにはいきませんね。その先代の聖女様と私がどれだけ似てるのか存じ上げませんが、ただの他人の空似である可能性の方が高いですし」

 怖けず屈さず断固として認めずにいると、トープさんは凄まじい顔でこちらを睨みました。

 ここでびびって「はいそうです私が先代の聖女です」だなんて白状したらきっと血反吐を吐くまで殴られるに違いありません。

 この人が本当に私が知っているあの人であるのなら、気に食わない、自分の思い通りにならないからという理由でそこまでする人なのです。

 だから、あくまで気丈に、向こうに気圧されないように。

 どうしようもなければ魔法を使って抵抗するしかありません。

 杖がないとコントロールがうまくいかないのでどうなるかわかりませんが、この状況なら殺しさえしなければ正当防衛で片付けてもらえるでしょう。

 というか、私以外の内部生一年のニグルム寮生だったら最初に引き倒された時点で手酷い反撃をぶちかましているでしょうからね。

「……何故そこまで認めたがらない?」

「事実ではありませんから」

 闇より悍ましい黒色の瞳を真っ直ぐに見返してそう答えました。

 数秒、ピリピリとした沈黙がその場を支配しました。

 何をどう言われようと、私は自分の主張を曲げる気はありません。

 そんなこちらの意思を感じ取ったのか、トープさんの瞳の黒がより恐ろしげな色になりました。

 それでも屈せず、ただ見上げました。

 長い長い沈黙を破ったのは、トープさんの小さな溜息でした。

「……もういい、お前がそのつもりならそのうちその尻尾を掴んで認めさせてやる。覚悟しておけ、お前があいつであるという証拠を掴んだその時には……吐くまで殴られる程度で済むと思うなよ?」

「そんな怖いこと言われてもこちらには掴まれるような尻尾も証拠もないのですけどね。覚悟なんかしませんよ……それでも、もしありもしない尻尾を掴んだ気になってこちらに何かしようというのなら、その時はその身体に一つ二つ穴が開いても許してくれますよね」

 怖い言葉には怖い言葉で返答を。

 ここで我が愛しきニグルム寮生なら一撃入れているのでしょうけど、私は一応まだマシ枠なので言葉だけでとどめておくことにしました。

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