魔獣学者エルミナの手記
氷雨そら
スライムと婚約破棄 1
後世、魔獣学を体系的にまとめたとして魔獣学の祖であるとされるエルミナ。彼女の個人的な記録である『魔獣学者エルミナの手記』は、当時の旅の様子や未開の地とも言われていた辺境の様子を綴る史料としても有名だ。
魔獣の生態を知る上で最も重要とされるその手記は、彼女が婚約破棄された日から始まる。
* * *
「君の趣味にはついていけない!! どうしても無理なんだ! 婚約破棄させてくれ!!」
シュラエ侯爵令嬢エルミナと第二王子ティガーは婚約者であった。
今、彼の頭には紫色のスライムがのっている。
エルミナが発見した新種のスライムだ。
「どうしてもスライムは……お好きになれませんか?」
「何度も言っているが、スライムだけでなく魔獣全般好きになれない!!」
「かしこまりました。婚約破棄を受け入れますわ」
白銀の髪に淡い紫の瞳をした、侯爵令嬢エルミナは、見目麗しい。黙っていれば、美しく上品な侯爵令嬢で通りそうだ。実際、彼女は侯爵家令嬢として高い水準の教育を受け、立ち居振る舞いも上品だ。
だが、彼女は魔獣をこよなく愛していた。そして、普通の人は嫌悪するスライムを素手でティガーから引き剥がした。
スライムはプルルンッと揺れた。
何て可愛いの、とエルミナの口元は緩んだ。
「では、失礼する」
「ええ、お元気で……」
ティガーは逃げるように去って行った。
彼は、別に悪い人ではなかった。
「こんなに可愛いのにねぇ……?」
エルミナの言葉に返事をするように紫色のスライムはポヨンポヨンと跳ね、エルミナの胸の谷間に飛び込んだ。
一般的に魔獣と聞けば人は嫌悪する。敵対生物なのだから当然であろう。
しかし不思議なことに幼いころからエルミナに対して魔獣は従順であった。
高位の魔獣については遭遇したことがないからわからないが……。
エルミナも魔獣が大好きであった。彼女の幼いころからの夢は、魔獣学者だ。しかし、家のために嫁ぐことは当然であると考え、魔獣研究は趣味で留めていた。
エルミナと第二王子ティガーの婚約は、派閥の力関係が関係している。
隣国から嫁いできた第二王妃との息子であるティガーと中立派のシュラエ侯爵家の長女であるエルミナの婚約は、第一王妃の生家が中心であるシラー公爵派が力を持ちすぎないよう決められた。
二人の相性や一存で婚約破棄を決められるものではない。
それにもかかわらず一方的な婚約破棄だったが、魔獣が苦手なのにここまで耐えたティガーをあまり責めるのは可哀想だ……。
エルミナは、王家との話し合いによる婚約解消にできないものか、父に相談することにした。
「これからはもっと魔獣の研究がしたいわ」
その日からエルミナは、手記を書くことにした。
婚約破棄についてはほとんど触れられず、手記には紫色のスライムが人を好むのはなぜか、人が嫌がるのはなぜか、という考察について細かく記された。
* * *
「公爵家が力を持ちすぎるのを避けるためにも……我が家と王家との婚姻は絶対に必要であったが」
「申し訳ありません。お父様……」
「エルミナは、魔獣が好きだからなぁ……」
「好きです!」
「その気持ちを第二王子殿下に向けてくれればなぁ……」
エルミナが魔獣に興味を持ったのは、二歳のころだった。分厚い図録に興味を示し、これは天才かと周囲は期待したが……。
事実彼女は、語学堪能、令嬢としての教育も完璧にクリア、王立学園も優秀な成績で卒業した。
魔獣が好きであることは、父をはじめ一部の人間しか知らない。エルミナは社交界でも輝く存在だった。
だがエルミナが努力してきたのは、全て魔獣研究を父母に許してもらい、各国の魔獣資料を読むためだった。
「ああ、そういえば第三王子殿下が辺境に行くことになったそうだ」
「えっ」
父が気の毒そうな表情を浮かべ口にしたのは、エルミナより三歳年下の第三王子の名だった。彼は今年十五歳になり、王立学園を卒業した。
魔力が強く優秀な彼は、魔術師団に所属したばかりだったはずだ。
彼の母であった男爵家出身の側妃と伯爵令嬢だったエルミナの母は、王立学園のクラスメートでとても仲が良かった。その関係で幼い頃、二人が婚約するだろうと周囲は見ていたのだ。
――だがレオンの母が急な病に倒れ、その話は立ち消えになり、代わりにエルミナは第二王子との婚約することになった。
エルミナが第二王子と婚約してからは、レオンの姿は社交界で遠目に見るくらいだった。
「先ほど、屋敷にいらしていたが……お前に会えずに残念がっておられたよ」
「まさか、レオン様が辺境に行かれるなんて」
「まだ、お近くにいらっしゃるのでは?」
「……っ!」
辺境は魔獣との激戦の地であり、生きて戻れる可能性は低い。
レオンはウィング王国の第三王子ではあるが、側妃だった彼の母が不審な死を遂げてから冷遇されている。
側妃は国王に愛されていたが男爵家の生まれであり、レオンには後ろ盾がない。
辺境に向かった彼が生き延びるためには、支援が必要であろう。
エルミナは立ち上がると、外へと飛び出した。
* * *
シュラエ侯爵家の庭園は広大で、色とりどりの花が咲き乱れていた。
――きっとあの場所にいらっしゃる。
エルミナは、確信にも似た思いで、幼いころの二人の秘密の場所に向かった。
ほどなく赤いレンガの壁が現れる。壁に絡みついた白いつる薔薇を避けると小さな扉が現れる。
鍵を持っているのはエルミナとレオンだけだ。
「レオン様?」
「……エルミナ嬢」
レオンは空を見上げていた。
ここで最後に会ってから五年の月日が経った。
あのときは、エルミナのほうが背が高かったが、今は彼のほうが高い。
エルミナは十八歳、レオンは十五歳になっていた。
「実は、辺境に出征することになった……辺境は危険だ。生きて帰れるかわからないから最後のお別れに来たんだ」
「レオン様、私と婚約いたしましょう」
「は!?」
エルミナはレオンの手を握ってそう告げた。レオンは驚きのあまり目を丸くしている。
「君は兄上の」
「先ほど婚約破棄されました」
「なぜ……? ああ、王家と繋がるよう侯爵に命じられたか。しかし俺が相手では」
「いいえ、父に命じられたからではありません――でも、悪い話ではないと思うのです。我が家でしたらレオン様の後ろ盾として申し分ないですし、私は婚約解消され恐らくまともな縁談は見つからないでしょうから……。三年後、王都に戻られたら婚約解消していただいて構いませんわ」
「――はあ、辺境には魔獣がたくさんいる。だからか」
エルミナは、その言葉に対して否定はしなかった。幼いころから仲が良かったレオンは、エルミナの趣味をよく知っているのだ。
「……私たちは婚約するはずでしたわ」
「そうだな……母上が死ななければ、その未来もあったかもしれないな」
レオンの母の死には、不審な点が多かった。病死とされているが本当の死因は毒……恐らく誰かに殺されたのだ。それから八年が経った。
「あのときに、君を巻き込むつもりはないと言ったはず」
「お嫌ではないと……?」
「……」
レオンは嫌とは言わなかった。
「明日には出立になる。最後に君に会えてよかった」
だが、それだけ言い残すと彼は去って行ってしまった。
「明日……」
エルミナは、呆然とそう呟く。
しかしすぐに、唇をキュッと引き締め踵を返し屋敷に戻るのだった。
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