第19話 崩れゆく仮面と、招かれた夜
その日を境に、オフィスの“おかしさ”は、誰の目にも分かるほどになっていった。
パソコンのフリーズは一日一回では済まなくなり、印刷した書類の一部が真っ黒に潰れていることもあった。
会議室の照明が一瞬だけ暗くなり、またすぐ戻る——そんな現象が、立て続けに起こった。
「まただよ……」「最近、なんか変じゃない?」
「ビル自体が古いからねぇ」と笑う人もいれば、露骨に不安そうな顔をする人もいる。
誠(僕)は、そのたびに胸の光が反応するのを感じていた。
——……まこと……
——ここの、ひかり……よわくなってる……
王子の言う通り、建物全体を包む“日常の光”が、じわじわと削られている気がした。
仕事をしながらも、どこか落ち着かない。
午前中の小さなトラブルがようやく収まった頃、背後から声がした。
「藤崎くん。」
振り返ると、リサが立っていた。
今日は口紅の色が、いつもより少しだけ濃いように見える。
そのせいか、笑みの輪郭もどこか鋭い。
僕「……はい。」
「ちょっと、いいかしら。」
リサは視線だけで奥の打ち合わせスペースを示した。
以前のような閉ざされた会議室ではない。だが、昼休み前の今、その場所には誰もいない。
——……まこと……きをつけて……
胸の奥で、王子が小さく鳴く。
(……逃げ続けるわけにも、いかない。)
誠は一度だけ深呼吸をして、リサの後についていった。
◆
打ち合わせスペースの窓際。外のビル群を見下ろす位置に、リサは立った。
誠が近づくと、彼女はガラス越しの景色から視線を外さずに話し始めた。
「ねぇ、藤崎くん。」
「最近の、このビルの“揺れ”……どう思う?」
僕「どう……って……」
「システムトラブルも、照明の不具合も。」
「ぜんぶ、たまたま……だと思う?」
リサの横顔に浮かぶ笑みは、穏やかでいて、どこか張り詰めていた。
胸の光が、じわりと熱を帯びる。
僕「……たまたま、じゃないと思います。」
「誰かが“揺らしている”。そう感じます。」
数秒の沈黙。
リサは、驚いたように目を瞬いたあと、ふっと笑った。
「やっぱり、素直ね。」
「そこが、あなたのいいところであり——一番、危ういところ。」
——……まこと……
——きかないで……
王子の声が、不安げに揺れる。
しかし誠は、視線を逸らさなかった。
僕「聞かなくても、もう分かってます。」
「僕の光が、境界を揺らしている。」
「そして——リサさん、あなたも。」
その言葉に、リサははっきりと笑みを崩した。
口元のカーブだけが残り、目の奥に黒い波が立つ。
「そう。」
「やっと、きちんと言ってくれた。」
リサはガラスに手をついた。
外のビルに映る自分の姿を見つめながら、小さく呟く。
「この世界の光は、優しすぎる。」
「朝になれば日が昇って、夜には眠れる。」
「何もかもが、与えられている。」
その声には、ほんの少し羨望が混じっていた。
僕「……羨ましいんですか。」
問いかけると、リサは肩を震わせて笑う。
「ええ、とても。」
「だから、私は“かじる”ことしかできない。」
「本当は、ここに混ざって生きてみたいのに。」
——……さびしい……におい……
王子の声が、胸の奥で震えた。
誠は、気づけば口を開いていた。
僕「……だったら、全部壊す必要なんてないじゃないですか。」
僕「この世界の光が、羨ましいなら……」
僕「奪うんじゃなくて、触れてみればいい。」
リサは初めて、真正面から誠を見た。
その瞳の奥で、黒と何か別の色がぶつかり合う。
「……触れたわ。」
「何度も。」
「あなたの光に。」
胸がきゅっと痛んだ。
リサは目を伏せ、小さく笑った。
「最初は、少しだけでよかった。」
「あなたの光を舐めるみたいに、端っこを分けてもらえれば、それで満足だった。」
「でも、一度知ってしまうと……ね。」
リサの影が、床の上で揺れる。
狼の形と、ただの人影が、交互に重なった。
「ずっと暗闇にいた者が、あたたかさを知ったらどうなると思う?」
僕「……離れられなくなる。」
リサは静かに頷いた。
「そう。だから私は、あなたの光から離れられない。」
「壊したくなんて、なかった。」
「ただ——いっそ全部呑み込んでしまえば、楽になれると思ったの。」
——……まこと……
——このひと……
——どこかで、まよってる……
王子の声に、誠は拳を握りしめた。
僕「……それでも。」
僕「誰かの日常を奪ってまで、楽になるのは、違うと思います。」
その瞬間、フロアの照明が一斉にチカチカと瞬いた。
ざわめきが広がる。
リサは微笑み、誠から一歩下がった。
「——だからこそ、選んでほしいの。」
「あなたの光が、“どこに属するのか”を。」
そう言って、リサは小さな紙片を差し出した。
「今夜、このビルの屋上に来て。」
「そこなら、あなたの光も、影も——はっきり見える。」
僕「屋上……?」
「怖いなら来なくていい。」
「でも、来なければ——」
リサの笑みが、ほんの少しだけ深くなる。
「このビルの“揺れ”は、もっと激しくなるわ。」
——……まこと……
——やだ……いきたくない……
王子が怯えたようにしがみついてくる。
紙片には、シンプルに時間だけが書かれていた。
《二十二時》
勤務時間はとうに終わっている頃だ。
誰もいないビルの屋上で、影と向き合えと言っているのだろう。
リサは紙を誠の手に握らせると、くるりと背を向けた。
「考えておいて。」
「あなたの光が、本当に守りたいものは何なのか。」
足音が遠ざかっていく。
誠は紙片を握りしめたまま、その場に立ち尽くした。
(行かなければ、この揺れはもっとひどくなる。)
(行けば——何かを失うかもしれない。)
——……まこと……
——ひとりで、いかないで……
王子の声に、誠ははっとした。
(そうだ。一人で抱え込む癖は、もうやめようって決めたんじゃなかったか。)
誠は紙片をポケットにしまうと、視線をフロアの奥へ送った。
玲司(部長)が、こちらの様子を気にするように見ている。
目が合った瞬間、胸の光が、少しだけ落ち着いた。
(今夜のことは——玲司さんにも話そう。)
崩れかけた日常の中で交わされる、小さな決意。
それが、迫り来る“招かれた夜”に向けた、誠の最初の一歩だった。
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