第9話:称賛と孤独
四ツ谷 海(よつや かい)は、場違いな異物として、ハイブ・タワーの超高速エレベーターの中に立っていた。
周囲は、完璧にプレスされたスーツを着たエリートたち。彼らは『アルシオーネ』越しに虚空のニュースを読み、無言で、しかし軽やかに微笑んでいる。
海だけが、脂と汗にまみれた作業着のようなスーツを着て、首から無骨な鉄塊(OS)を下げ、重力に押し潰されまいと踏ん張っている。エレベーター内の空調は完璧だが、海の鼻には自分の体臭と、鉄錆の匂いがこびりついて離れない。
「……45階、到着です」
合成音声のアナウンスと共にドアが開く。そこは、かつて蓮(れん)が「白亜の監獄」と呼んだ場所だった。
だが今、そのフロアは異様な熱気に包まれていた。
タターンッ。
乾いた打鍵音が響く。それと同時に、フロアにいる数十人の社員たちが、一糸乱れぬタイミングでエンターキーを叩いた。
カカカカカッ……ッターン!
まるで軍隊の行進か、あるいは一つの巨大な生き物の鼓動のように、打鍵音が完全に同期している。
海は息を呑んだ。音だけではない。彼らの「瞬き」のタイミングさえも、完全に一致していたのだ。彼らの瞳には「個」としての意思がない。蓮という巨大なCPUに接続された、並列処理のための「生きた端末」になり果てている。
その中心にあるガラス張りの個室――通称「玉座」に、蓮はいた。
「……蓮」
海がドアを開けると、肌を刺すような「熱波」が吹き出した。腐敗臭ではない。高電圧の変電所で嗅ぐような、焦げたオゾン臭と、乾いた電子的な匂い。清潔なハイブ・タワーの中で、ここだけが原子炉の炉心のように歪んでいる。
蓮は、デスクに噛り付くように座っていた。最後に会った時よりもさらに痩せ細っているが、その形相は「病人」のそれではない。
蓮は、輝いていた。
比喩ではない。病的なまでに血色が良く、肌は蝋細工のようにツヤツヤと張り詰め、瞳は覚醒剤を打ったかのようにギラギラと発光している。動きには一切の無駄がない。瞬きすら惜しいと言わんばかりに目を見開き、超高速でタスクを処理し続けている。
うなじの『アウトシステム(OS)』周辺の皮膚は、度重なる冷却スプレーと過剰な発熱のせいで、人間離れした質感に変質していた。赤黒く爛れるのを通り越し、高熱で焼成された白磁のように、硬く、白く、美しくひび割れている。
「……なんだ、海か」
蓮は、モニターから視線を外さずに言った。その声は、金属同士を擦り合わせたように硬質で、感情の色が削げ落ちていた。
「何の用だ。今は忙しい。明日の正午にシステムが稼働する。その最終調整で、1ミリ秒の無駄も許されないんだ」
海は蓮のデスクに歩み寄ろうとした。だが、近づけない。蓮の周囲の空気が、陽炎のように揺らめいている。物理的な熱の壁が、海を拒絶している。
「あ、四ツ谷さんですね?」
背後から声をかけられた。若い女性社員だ。彼女の顔は、屈託のない笑顔で輝いている。
「相葉チーフのご友人ですよね? いやあ、彼のおかげで本当に助かってるんです」
「助かっている……?」
「はい! 今までの業務って、イチイチAIの機嫌を伺ったり、申請を通したりで面倒だったじゃないですか。でも今は、全部チーフがやってくれるんです」
彼女は、まるで便利な新機能を自慢するように言った。
「面倒な計算も、リスク判断も、全部チーフに投げれば『150点の正解』が0.1秒で返ってくるんです。ハルシオンの『プレミアムプラン』に入ったみたいで、すごく快適ですよ」
海は、彼女の笑顔の裏にある「残酷な無邪気さ」に戦慄した。
彼女たちは、蓮をリーダーとして尊敬しているのではない。「ハルシオンよりも処理が速い、便利な計算機」として消費しているだけだ。責任も、苦悩も、過重な労働も、すべて蓮一人に押し付け、自分たちはその果実だけを「軽やか」に享受している。
「……相葉くん、次はこの承認をお願いできるかな?」
「チーフ、エラー対応頼みます!」
社員たちが、次々と蓮に群がる。スマホを操作するような気軽さで、蓮にタスクを放り込む。蓮はそれを、表情一つ変えずに、機械的な速度で処理していく。
「……どけ」
海は女性社員を押しのけ、人だかりを割って進んだ。
「蓮!」
海が肩を掴もうと手を伸ばした。その瞬間。
パァン!
蓮の腕が、視認できないほどの速度で動き、海の手を「払った」。
乾いた音が響く。敵意のある突き飛ばしではない。作業中のデスクに飛んできた羽虫を、無意識に払うような動作。そこには、親友に対する情動など欠片もなかった。
「……邪魔だ」
蓮は、海の方を見ようともしなかった。その瞳の焦点は、網膜の裏で走る膨大なデータストリームに固定されている。瞬きをしていない。眼球が乾ききり、生理的な涙が頬を伝っているが、彼は気づいてすらいない。
「蓮、俺だ! 海だ! 鏡を見てみろ、お前はもう人間じゃない!」
海は叫んだ。周囲の社員たちが、迷惑そうに眉をひそめる。だが蓮は、顔色一つ変えず、独り言のように呟いた。
「顔? ……ああ、ハードウェアの損耗か。後で医療ポッドに入れば直る。今は、第5フェーズの移行が……」
「休め! 今すぐだ!」
海は再び食い下がった。
「周りを見ろ。こいつらは、お前を仲間だとも思っていない。お前を『便利なアプリ』扱いして、使い潰そうとしているだけだ! お前が壊れたら、またニコニコして80点の生活に戻るだけの連中だぞ!」
「違う!」
蓮が、初めて海の方を向いた。その顔には、満面の笑みが張り付いていた。極限の集中状態にあるランナーが見せる、ドーパミン漬けの笑顔。
「お前には分からない、海。……こいつらは、俺がいないと何もできないんだ。俺のスペックに依存しているんだよ」
蓮は、歪んだ笑顔で両手を広げた。その背後で、巨大な都市モデルのホログラムが展開されている。
「見ろよ、このリクエストの数を。俺の思考(ロジック)が、この街のOSになっている。俺の指先一つで、数万人の生活が変わる。……最高の気分だ。これが『重力』だろ? お前がくれた、最高のプレゼントだ」
「蓮……それは重力じゃない」
海は呻くように言った。
「それは、ただの『処理負荷(ロード)』だ。お前は今、思考しているんじゃない。計算させられているだけだ」
「嫉妬か?」
蓮の目が、スッと細められた。そこには、かつて旧市街区のバーで酒を酌み交わした親友の面影はなかった。あるのは、高性能なシステムが、バグだらけの旧型機を見下すような、冷徹な選民意識。
「帰れよ、セールスマン。お前の売っている『自由』は、凡人には扱えない。……選ばれた俺だけが、その真価を引き出せるんだ」
蓮は海に背を向け、再びホログラムの光の中へと戻っていった。社員たちが、待っていましたとばかりに彼を取り囲む。
「チーフ、お願いします!」
「やっぱり相葉さんがいないと!」
称賛の声。それは、蓮をこの場に縛り付ける、甘美で強固な鎖だった。海は、その光景をただ見つめることしかできなかった。
ふと、海は気づいた。蓮が熱狂的に操作しているホログラムの隅で、小さな赤い警告灯が明滅していることに。
『Error Rate: 0.001%』
極小の数値。だが、それは確実に生まれていた。80点のAIなら余裕を持って回避するはずの「遊び」を削り取った結果生じた、破滅への種子。
完璧な結晶構造の中に混じった、微細な黒いシミ。
だが、覚醒状態にある蓮の目には、その小さなエラーは見えていないようだった。あるいは、見えていても「些細なノイズ」として切り捨てているのか。
「……蓮」
海は拳を握りしめ、逃げるようにその場を去った。
背後から聞こえる蓮の猛烈なタイピング音が、まるで暴走する列車の走行音のように、いつまでも耳に残っていた。
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