第7話:インストール・ペイン

 世界が、裏返った。


『アウトシステム(OS)』を接続した瞬間、相葉 蓮(あいば れん)の脳髄を貫いたのは、知恵の果実の甘露などではなかった。


 それは、溶けた鉛を耳から流し込まれるような、純粋な「暴力(ペイン)」だった。


「ぐ、あぁぁ……ッ!」


 蓮はデスクに突っ伏し、喉の奥で悲鳴を押し殺した。熱い。熱い。


 うなじの接続ポートから、灼熱の奔流が神経系を逆流していく。視界の明度が異常な数値まで跳ね上がり、網膜に焼き付くようなノイズが走る。


 汎用AI《ハルシオン》が提供するARの「極彩色の嘘」が、腐った皮膚のようにボロボロと剥がれ落ちていく。


 美しい空は、ノイズの嵐へ。清潔なオフィスは、無機質なポリゴンの檻へ。そして、窓の外に広がる都市は――


「……は、はは」


 蓮は、脂汗にまみれた顔を上げ、痙攣する唇で笑った。


 そこにあったのは、データではない。「内臓」だった。


 灰色のコンクリートと鉄骨の街が、蓮の脳内では巨大な生物のように脈動していた。道路は血を運ぶ血管。ビル群は肥大した臓器。


 そして、境界線の向こうにある「旧市街区」は、血流の滞った壊死しかけの組織に見えた。


「見える……ここも、あそこも、無駄だらけだ……」


 蓮の指が、虚空を叩くように動き出した。思考速度が加速する。


 真島が「リスク」として切り捨てた要素が、この視界では「未利用の栄養素」として輝いて見える。80点の安全策? 馬鹿げている。


 この壊死しかけの組織(旧市街)から、まだ使える血管(エネルギー)を引き抜き、新しい臓器(再開発エリア)に直結させればいい。


 それは「共食い」だ。倫理的には0点だろう。だが、効率は300%に跳ね上がる。


「……食わせてやるよ」


 蓮は、狂ったようにキーボードを叩き始めた。指先から煙が出るほどの速度で、新たな企画書――いや、都市に対する「外科手術の術式」が構築されていく。


 ツー、と鼻から温かいものが垂れ、キーボードに赤い染みを作った。だが、蓮は拭おうともしない。


 脳が焼ける匂いがした。その痛みすらも、今の彼には「生きている」という強烈な実感(快楽)でしかなかった。


 ***


 翌日の、緊急プロジェクト会議。


 空気は弛緩していた。昨日決定した「プランB(80点の焼き直し)」の承認プロセスを進めるだけの、退屈な儀式になるはずだったからだ。スタッフたちはあくびを噛み殺し、手元の端末でランチの店を検索している。


「――以上が、最終決定案となります。異論がなければ、これで」


 真島が、いつもの穏やかで完璧な笑顔で締めくくろうとした。その時だ。


「異論があります」


 凍りつく会議室。全員の視線が、末席の男に集中した。


 相葉 蓮。


 その姿は、異様だった。一晩でげっそりと頬がこけ、目は毛細血管が切れて真っ赤に充血している。全身から病的な汗を吹き出し、ワイシャツの襟元には、赤黒いしみがこびりついていた。


 だが、その瞳だけが、異常なほどの光を放ち、爛々と輝いていた。


「相葉くん? 君は少し休んだほうが……」


「真島さん。あんたのプランBはゴミだ」


 蓮は立ち上がり、自身の端末を会議テーブルに叩きつけた。ドン! という音が、静寂を引き裂く。


「ハルシオンの予測? 統計的安全性? ……笑わせるな。あんたが見ているのは『過去』の死体だ。俺が持ってきたのは『生きた心臓』だ」


 蓮が血走った目で指を弾くと、空中に巨大なホログラムが展開された。


 それは、真島のプランBを根底から覆す、あまりにも攻撃的で、あまりにも残酷な「プランC(改)」だった。


「再開発エリアのエネルギー効率を最大化するために、隣接する旧市街区のライフラインを『意図的に』30%間引きしました。その余剰出力を、全て新エリアの演出用電源に転用します」


 会場がざわめく。それは禁忌だった。


 弱者を切り捨て、強者を飾る。AIの倫理規定(コード)では絶対に承認されない、人間による悪意ある選別。


「な……っ!?」


 真島の完璧な笑顔が、ピクリと止まった。彼は慌てて手元のハルシオン・インターフェースを操作する。


 だが、AIは警告を出しながらも、計算を完了してしまう。『効率上昇率:350%』。非人道的な提案だが、数字の上では圧倒的な「正解(150点)」だった。


「ば、馬鹿な……! こんなリスクの高い構造、AIが承認するはずが……」


「出ないさ、エラーは」


 蓮は、不敵に笑った。口元に、拭き忘れた血が滲んでいる。首元の襟の奥で、埋め込まれた『OS』が赤く脈動している。


「ハルシオンは『全体最適』を目指すが、俺が組んだのは『局所最適の極致』だ。AIのアルゴリズムの『死角』を通している。……人間(おれ)だけが描ける、150点の正解だ」


 真島は、蓮を見た。いや、見ようとして、焦点が合わなくなった。彼の笑顔は張り付いたまま、瞬きもしない。


「……計算、不能。変数が……倫理規定と……矛盾……」


「どうした、真島」


 蓮は、バグを起こした上司を見下ろした。かつて「ミスター80点」として聳え立っていた壁が、今はただの「処理落ちした計算機」に見える。


「あんたはAIに使われているだけだ。俺は、AIを使っている。……王様は、どっちだ?」


 勝負は、一瞬だった。


 圧倒的な論理と、生理的な恐怖。


 会議室のエリートたちは、蓮のプランの美しさに魅入られたのではない。鼻血を流しながら笑う蓮の「狂気」に、本能的な恐怖を覚え、支配されたのだ。

「こいつに逆らえば、自分もあの『間引き』の対象にされる」という、動物的な生存本能。


「……さ、採用しよう」


 誰かが、震える声で言った。それが合図だった。拍手などは起きない。ただ、重苦しい沈黙と、魔王にひれ伏すような服従の空気だけが、蓮の勝利を告げていた。


 蓮は、椅子に深く腰を下ろした。


 全身が熱い。心臓が早鐘を打っている。ヒートシンクの熱が皮膚を焦がし、激痛が脳を苛んでいる。ツー、とまた新しい血が鼻から垂れ、テーブルを汚した。


 だが、最高の気分だった。


(見たか、海)


 蓮は、心の中で親友に語りかけた。


(これが『重力』だ。俺は今、この手で世界を回している)


 痛み。焦燥。責任。そして、他者を踏みつけにする快感。それら全てが、蓮にとっては勝利の美酒だった。


 彼はまだ知らなかった。この甘美な全能感が、破滅への滑り台の入り口であることを。そして、自分が手にした「自由」が、どれほど高くつく代償を求めてくるかを。


 蓮は、血に濡れた唇を三日月のように歪めた。


 地獄のような熱狂が、幕を開けた。

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