取り急ぎ、コスモスだけの花束を

愛崎 朱憂

プロローグ 

※本作はフィクションです。登場する人物・団体・出来事は架空であり、実在のものとは関係ありません。

※作中に登場する商品名・サービス名は、各社の商標または登録商標です。



「ねえ、お母さん。これも持って帰る?」


 カーテン越しの午後の光が、白いシーツの上だけを柔らかく照らしている。


 さっきまで母が横たわっていたベッドは、皺ひとつ無く整っていた。


 私が整えたはずなのに、出掛ける前の母のベッドみたいだ。


『だらしない人は、お母さん嫌だよ』


 言葉は厳しいのに、声がほんのり温かくて、手つきは不思議と優しかった。


 ベッド脇の小さなテーブルの上。


 透明なガラスケースに入ったコスモスを、娘の声が指差す。


 茶色のチョコレートコスモス。本物なのに、水はどこにも見当たらない。


「……あぁ、それね」


 私は、手を止めてそちらを向いた。


 ロッカーの中のパジャマと洗面道具は、殆どバッグの中に収まっている。


 残っているのは、病院から渡された書類の入った封筒と、ガラスケースに入った花だけだ。


 白い封筒の宛名には「森田優樹(もりたゆうき)様」──私の名前が他人の字で書かれている。


 『優』も『樹』も、綺麗な字だと思う。


 でも、昔から私は自分の名前が苦手だった。画数が多い。書く度に時間がかかる。


 急いでいる時は、いつも自分だけ置いて行かれるような気がして。


 でも、今は母が何故この字を付けたのかが分かる気がした。


「これさ、おばあちゃんの家にもあったよね?持って来ていたの?」


 ベッドの反対側で、紺色のブレザーを羽織った十七歳の娘がケースを持ち上げ、指先でそっとガラスを撫でながら言った。


「うん。おばあちゃんが、どうしてもその花を傍に置いていてほしいって」


「これさ……私が貰っても良いかな?」


 真っ直ぐに私の目を見て、娘が続ける。


「形見分け──みたいなね」


 玄関。


 リビングのテーブル。


 引っ越しのとき、最後まで段ボールに入れられなかったモノ。


 そして、ここ数カ月は、この病室のテーブル。


「そうねえ……」


 私は、ケース越しにコスモスを見つめる。


「おばあちゃん、これ大事にしていたの?」


 娘がぽつりと言う。


 見慣れた花なのに、今日見るコスモスは、どこか少し違って見えた。


「うん。最期まで、傍に置いてた」


 点滴のチューブを腕に刺したまま、コスモスに視線を向けてはいても、その瞳はどこか別のものを見ている母の姿がふと浮かぶ。


「貰って良い?」


 もう一度。


「……うん。きっとおばあちゃんも喜ぶ」


「なんか、大事にしないと化けて出てくるかも」


「それ、私も思った」


 少し笑うと、胸の奥がきゅっと痛んだ。


 ロッカーの扉を閉めて、部屋をもう一度見渡す。


 誰もいないベッド。


 静かなモニタ。


 窓際のカーテンが、空調の風でゆっくりと揺れている。


「……未だ、綺麗に咲いてる」


 ぽつりと零れた娘の言葉が、母の口癖とぴたりと重なっていることに気が付いて、私は小さく息を吸った。


「行こっか」


「うん」


 娘がドアノブに手をかける。


 私はその背中を見送り、ベッドの方へ最後に一度だけ振り返った。


 誰もいないその場所に心の中でだけ頭を下げると、白いカーテンが一枚、ふわっと静かに揺れて、窓から入る太陽の光がそっとベッドのシーツを迎えに来ていた。



※この続きは、10分後(同日 AM 2:10)に第一章として公開します。

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