第12話:嵐の中で
「架け橋ドッグ」の成功から三日後。
現場は、かつてないほどの結束力を見せていた。
食事改善の効果は劇的だった。
美味しい食事は男たちの体に活力を与え、何より「ボス(私)は俺たちを大切にしている」という事実が、彼らの忠誠心を強固なものにしていた。
特級鋼の到着を待つ間、基礎工事の補強と、足場の拡張が急ピッチで進められていた。
だが、この峡谷には、もう一つの顔があることを、私はまだ知らなかった。
午後三時。
不意に、風が変わった。
それまで乾いた音を立てていたクレーンの鎖が、湿った重い音に変わる。
空気が急激に冷え込み、鼻の奥にツンとする水の匂いが満ちてきた。
「……ボス! 天気が崩れますぜ!」
ガストンが空を見上げて叫んだ。
見上げると、さっきまで青かった空が、黒インクをぶちまけたような雷雲に覆い尽くされようとしていた。
「竜の顎(アギト)が口を開きやがった……! 全員、養生急げ! シートをかけろ!」
その直後だった。
ドォォォォォン!!
腹に響く雷鳴と共に、滝のような雨が降り注いだ。
ポツポツという前触れなどない。いきなり世界の蛇口が壊れたかのような豪雨だ。
視界が白く染まり、隣にいる人の声さえ聞こえなくなる。
「ひっ、ひいいっ!」
「足元気をつけろ! 滑るぞ!」
現場は一瞬でパニックに陥った。
乾いていた地面は瞬く間に泥沼と化し、作業員たちの足を絡め取る。
私は仮設オフィスの窓からその光景を見て、即座にレインコート(油引きの防水外套)を掴んだ。
「エリザベート様! 危険です、ここでお待ちください!」
「馬鹿を言わないで。現場が混乱しているのよ!」
私は止めるハンズを振り切り、豪雨の中へと飛び出した。
雨粒が
ドレスの上に羽織ったコートなど無意味なほど、一瞬で全身が濡れ鼠になった。
カン! カン! カン! カン!
不吉な鐘の音が響き渡る。
水位警戒警報だ。
「おい! 川を見ろ! 水が上がってきてるぞ!」
誰かの悲鳴に、私は峡谷の底を覗き込んだ。
背筋が凍った。
いつもは遥か下を流れている激流が、今は怒り狂った茶色の蛇のように膨れ上がり、建設中の橋脚の基礎部分を舐めようとしている。
そして、上流から流れてくる「凶器」が見えた。
「流木だ……!」
巨大な丸太や、折れた大木が、濁流に乗って凄まじい速度で突っ込んでくる。
あれがもし、コンクリートが固まりきっていない基礎部分や、仮設の足場に直撃したら――。
数ヶ月の苦労が一瞬で水泡に帰す。いや、最悪の場合、足場ごと作業員が流されるかもしれない。
現場監督たちが右往左往している。
「避難だ!」「いや、機材を上げろ!」「無理だ、間に合わねえ!」
指揮系統が寸断されている。恐怖が伝染し、組織が崩壊しかけている。
――私がやらなきゃ。
私は泥水を跳ね上げながら、現場の中心にある高台へと駆け上がった。
そして、雨音に負けないよう、腹の底から叫んだ。
「総員、落ち着きなさい!!」
私の声は、雨のカーテンを切り裂いて響いた。
混乱していた男たちが、ハッとして私を見上げる。
「慌てて逃げれば将棋倒しになるわ! 落ち着いて! 各班のリーダーは点呼を取りなさい!」
「ボ、ボス……! でも、水が!」
「見えているわ! だからこそ、順序が必要なのよ!」
私は濡れた髪をかき上げ、的確に指示を飛ばした。
「第一班、第二班はクレーンを使って重機を高台へ退避! 人力で運べないものはワイヤーで固定しなさい!」
「第三班は
「第四班は……足場の補強よ! 杭を打ち増しして、流木除けのバリケードを作りなさい!」
矢継ぎ早に指示を出す。
恐怖で思考停止していた男たちに、「やるべきこと」を与えてやる。それだけで、パニックは収束し、軍隊のような規律が戻る。
「り、了解!」
「急げ! ボスの命令だ!」
男たちが動き出す。
しかし、ハンズが青ざめた顔で私に駆け寄ってきた。
「エ、エリザベート様! 避難勧告が出ています! 貴族であるあなたがこんな場所にいては……万が一のことがあったら!」
「ハンズ」
私は彼の方を向き、雨水を目から拭った。
「船長は、船が沈むまで降りないものよ」
「えっ……」
「私が逃げたら、誰がここを守るの? 私は総責任者よ。最後のボルト一本、最後の一人が安全になるまで、私はここを動かない」
ハンズは息を呑み、そして強く頷いた。
「……わかりました! 俺も残ります! ボスを守るのが俺の仕事ですから!」
その時。
バリバリバリッ! という不快な音が響いた。
「うわああああっ!」
川岸に近い足場の一つが、流木の直撃を受けて傾いたのだ。
その上には、まだ逃げ遅れた作業員が数名取り残されている。
「しまっ……!」
濁流が足場を洗う。
恐怖で竦んで動けない作業員たち。次の流木が来れば、足場ごと流される。
誰か、助けに行ける者はいないか。
私が叫ぼうとした瞬間、黒い影が飛び出した。
クロードだ。
彼は命綱もつけずに、傾いた足場へと走り出した。
「クロード!?」
彼は泥だらけの作業着で、鉄骨の上を軽業師のように駆け抜ける。
そして、取り残された作業員たちの元へ辿り着くと、怒鳴りつけた。
「腰を抜かしてんじゃねえ! 死にたいのか!」
「し、主任……!」
「ロープを掴め! 俺が支えてやる!」
彼は鉄柱に自分の体を固定し、ロープを投げた。
腕の筋肉が隆起する。
激流の力と、大人三人の体重を、彼一人の腕力と技術で支えているのだ。
「ぐっ……おおおおおっ!」
クロードが咆哮する。
なんという無茶を。天才技師の手は、図面を描くためのものでしょう? そんな泥臭い力仕事をするなんて。
――いいえ。
あれが、彼の「意地」なのだ。
峡谷を征服すると言った男の、自然に対する宣戦布告なのだ。
ならば、私も負けてはいられない。
彼が前線で戦うなら、私は後方支援(ロジスティクス)を完璧にこなすまで。
「ライト! 投光器を全部つけなさい! 足元を照らすのよ!」
「ロープ班、補助に回りなさい! クロード一人に背負わせるんじゃないわよ!」
私の指示で、現場中の照明が一斉に点灯した。
雨に煙る闇夜が、昼間のように明るく照らし出される。
光の中に浮かび上がるのは、歯を食いしばってロープを引くクロードと、必死に土嚢を積む男たちの姿。
私も走った。
高価なブーツが泥に埋まるのも構わず、土嚢袋を運ぶ列に加わった。
重い。砂利が詰まった袋は、私の体重の半分もありそうだ。
爪が割れ、指先から血が滲む。
「ボ、ボス!? あんた何やって……!」
「口を動かす暇があったら手を動かしなさい! 一つでも多く積むのよ!」
ドレスを泥まみれにして働く公爵令嬢。
その姿は、どんな檄を飛ばすよりも効果的だった。
「うおおおおおっ! ボスに負けてたまるか!」
「帝国も共和国も関係ねえ! この橋を守り抜けぇ!」
男たちの目が変わった。
恐怖の色が消え、戦う者の目になった。
帝国作業員が共和国作業員を助け起こし、共和国作業員が帝国作業員に肩を貸す。
泥と雨の中で、彼らは初めて「一つのチーム」になった。
やがて、クロードが作業員たち全員を安全圏まで引き上げることに成功した。
彼は肩で息をしながら、濡れた髪をかき上げ、高台にいる私を見上げた。
投光器の逆光の中、彼と目が合う。
距離は離れている。声も届かない。
けれど、彼が何を言いたいのか、わかった気がした。
『やるじゃねえか』
『貴方こそ』
私たちは一瞬だけ微笑みを交わし――すぐに表情を引き締めた。
ゴゴゴゴゴ……。
地響きのような音が近づいてくる。
まだだ。
嵐はまだ終わっていない。
むしろ、本当の山場はこれから来ようとしていた。
上流から、家一軒分ほどもある巨大な流木が、回転しながら迫ってきていたのだ。
狙いは、建設中の第三橋脚。
「……試練だというのなら、受けて立つわ」
私は泥だらけの手を握りしめ、嵐に向かって睨みつけた。
この私が守る現場を、そう簡単に流せると思って?
長い夜が、始まろうとしていた。
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