第3話 戻ってこい!!

「お、終わった……。ど、どど、どうしよう…………」



 頭が真っ白になり、どうしたらいいのか分からず、会議室のドアを開けたままその場でただ呆然と立っていた。


 しかし、追ってくるのは犬や猫、好きな人ではなく、なぜいつも「時間」なのか。



「は、早く、し、仕事に戻らない、と……」



 頭の中の整理は出来ておらず、もう少しこの場で解決方法を見つけ出したいという焦りと、仕事に戻らないと残業になってしまうという不安によって、葛藤の渦に巻き込まれそうになったが、持ち前の切り替えの早さで、仕事をしながら解決方法を探ることにした。


 佐藤はその場から去って、姿が見えなくなったと同時に、会議室の隣にあるトイレから部長がハンカチで手を拭いながら出てきた。



「監査まで時間あるし、コーヒーでも飲もうかな」



 佐藤の持ち前の運の悪さである。



 仕事場に戻る。粘着シートを踏み、キュッキュッと足音を立てながら自分の席に戻る途中、早速仕事が舞い込んだ。



「さ、佐藤さん、すみません。この案件も今日納品日だから、あの~、チェ、チェック、お願いできますかね……?」


「あ、は、はい。わかりました……」



「……さ、佐藤さん。あ、あの~、この基板なんですけど、サーマルパッドがあるIC101とIC201のリペア交換お願いしたいのですが……。あ、部品はこの中に入ってます。あ、あと、取り外し前と後のX線写真もお願いしてもよろしいでしょうか?」


「あ、は、はい。わかりました……」



「さ、佐藤さん。い、今、よろしいでしょうか?グランドチェックやりたいんですけど、最終チェック……できそうですか?」


「あ、は、はい。わかりました……」



 先輩や上司が後輩の佐藤に向かって敬語で話しかけるほど、佐藤はいつも無表情で目つきが怖く近寄りがたい雰囲気だが、業務連絡であるため、仕方なく恐る恐る仕事を頼んでいた。



「悪い人ではないのは分かっているんだけどね」


「分かる」



いつも通りに冷静さを保って仕事をしているように見えていた佐藤だが、頭の中では真逆だった。


 献血のことで頭でいっぱいだったが仕事も進めなければならず、アニメの演出風に表現すると、顔を赤くし、目が渦巻きになり、頭から煙を出しながらあたふたしている状態だった。


 案の定自分の占いが当たって、仕事が次から次へと横入りしてきたため、結局自分の仕事が完了したのは定時になる1分前だった。


 18時、チャイムが定時を知らせると、冷たく静かな作業場に暖かな空気が広がって賑わい始める中、一人だけ燃え尽きて真っ白になっている人がいる。


結局、自分の仕事を回しにしてしまうほど、献血の件について考える余裕など無かった。


 今日一日バタバタと忙しく、それに加えて献血の件が未解決のまま定時を迎えてしまったので、家に帰って玄関だろうが布団だろうが座れる場所があるところならすぐに眠ってしまうだろうと、今日は晩御飯を食べずにお風呂に入ってすぐに眠ってしまおう。


しかし、ルーティン通りに動かないと落ち着かない性格なので、更衣室でスーツに着替えながらいつも通りに過ごそうと頭の中で帰宅後のシミュレーションを行いながら辺りを見渡す。



「お、お先に失礼します……」



 作業場のドアを静かに閉めて薄暗い階段を降りる。


 佐藤は、定時後より休日に献血に行きたがっているのには理由がある。


 ロングスリーパーということもあり、平日はなるべく早く帰って早く寝たかったのだ。


 けれど、せっかく残業代がつくんだからと部長にやんわり断られてしまい、再び言い出す勇気が無かった。


「明日部長になんて言おう……。昨日休業日で行けませんでしたって言えば許してくれるかな?でも今日が開放日だということが分かっていたのならなぜ事前に予約しておかなかったんだって怒られるかな?社会人にもなって予約も取れないのかって怒られるかな?献血やる気ないだろって怒られるかな?履歴書に書いてあったことは嘘なのか?じゃあクビだ!って怒られるかな?」



 いつも優しい部長はそんな強い口調で言うことはないだろうと思っていても、可能性が0でない限り、最悪なシチュエーションを考えてしまう。


 ISOの監査で疲れ切ってイライラしているかもしれない。


 そんな中で約束を破ってしまったとなれば、普段怒らない人でも怒る可能性が上がるのだ。


 過去に中学生時代の頃、部活の大会が近く、練習が過激化されて疲れ切って、英語の提出物を遅れてしまい、普段は怒らない先生だから大丈夫だと安心しきっていたが、必要以上に怒られたことがある。


 後で彼女にフラれたとかなんとかという同じクラスの子が隣で喋っている噂話を盗み聞いて、タイミングが悪かったなと反省していた。


 やはり人と関わる場合、油断は禁物だと改めて感じた出来事だった。


 過去の事を思い出しながら階段を下りていると、踊り場にある窓の外を眺めた。


 雨粒が窓をパタパタと叩きつけていた。


朝降っていた雨はまだ降り続けているようだ。


 エントランスに向かって靴を履き替え、自動ドアを通って会社の外に出ると、空気を大きく吸って長い溜息をつきながら傘を差す前に、事前にポケットに入れておいたイヤホンの絡みをとって、耳に装着し、ノイズキャンセリングを起動しようとした瞬間だった。



「献血、献血、献血いかがっすか~?よろしくお願いしま~す。全献血30分ですよ~。あ、ありがと~う!ありがとう~」



 これだ!と佐藤は瞬時に思いついた。


 献血バス。存在は知っていたが一度も使ったことがなかった。


 全献血なら献血バスで出来ると、希望に胸を膨らませて、通り過ぎた献血バスから発している拡声器の少しこもった声を頼りに辺りを見渡して探した。


 丁度、向こうのコンビニの角をゆっくり曲がるバスを見かけ、傘を差しながら全力疾走したが、緊張感もあって心拍数は余計に上がっているはずなのに、朝ほどの息切れを感じなかった。


今日はツイていない日だからどうせ間に合わないだろうなといつもの悪い癖で思ってしまい、速度を緩めてしまったが、走っている最中にエンドルフィンが作用したのか、与えられたチャンスを逃すまいと、気持ちを切り替えて全力で走った。


 激しく揺れる傘にうるさい呼吸によって通り過ぎる人々に見られて、いつもなら恥ずかしくなって素に戻ってしまうのだが、そんなことを気にならないほど無我夢中になって走っていた。


 角を曲がると、停車区域に着いたのか、バスが止まってドアが開き、白衣を着た男性は棒付き飴を咥えながら階段を設置していた。



「ま、間に合った……」



走るのをやめると、ドクンドクンというくっきりとした自分の鼓動音が耳元で聞こえ、身体は酸素を欲しがっており、大きく急いで呼吸をしていた。



「お、もしかして献血しにわざわざ走って来てくれたのか?」



 男性医師は佐藤を見つけて言った。


 佐藤は汗と雨で濡れながら呼吸はまだ乱れている。


 息を切らしながら呼吸のタイミングを見計らう。


「は、はい!……お、お願いします!」


 なんとか発することができた言葉と同時に笑みが零れ、その様子を見た医師はこっちこっちとバスの中へ案内した。



 傘を傘立てに、カバンをカゴに入れ、スーツを脱いでハンガーにかけると、左腕のシャツの袖を肘まで捲り上げて献血チェアに奥深く座ると、医師は水とタオルを佐藤に渡した。


 ありがとうございますと受け取り、タオルで身体についた雨や汗を拭き終わると、医師は棒付き雨を加えたまま問診を始めた。



「そうか、献血経験者か。なら話は早い。いつもの問診回答しながら答えてくれ。今日の体調は……って、走って来てくれたんだから大丈夫か。過去にアルコールでかぶれたりしてない?」


「だ、大丈夫です……」


「レギュラー満タンすか?」


「え?あ、はい……」


「レギュラー満タン!はいよろこんで!」



 供給されるわけでもないし、恐らく全献血400mlのことだろうとツッコむのも面倒だったのでそのまま返答した。


 採血前検査の指先検査で刺された中指が少しジンジンとしており、正方形の絆創膏を貼って親指で摘まむように押す。


間も無くヘモグロビン濃度が基準値以上出ていることが確認されると、背もたれが少し倒れ、レッグレストが上がる。


左腕にヨード液が塗られて乾くまで待つ。


失礼しますと何の躊躇もなく針を刺したが、痛みはほとんど感じられなかった。


 針を刺すのが上手な人だなと関心し、スムーズに献血の準備ができたことで、多忙に加え何かと邪魔された今日一日の出来事が溶けていくように安心してリラックスできた。



「大丈夫、もうついていない日は終わったんだ。明日からは普通の生活に戻るんだ」



 佐藤は心の中でつぶやいた。



「じゃあ始めますね~」


「は、はい、お、お願いします……」



 医師はスタートボタンを押すとみるみるうちに透明のチューブは左腕から機械へと赤く染まっていった。


 献血チェアが全身の疲れを優しく包み込むように心地よく、布団に入って2分ほどで眠ることができる佐藤は、この時ばかりは数秒で眠れるほど、すでに瞼が重くなっていた。


 すると突然、雨と汗でずぶ濡れになりながら全身黒い服を着ている、髪型も乱れ、大変息を切らしている男が、献血バスに入るや否や騒ぎ立てる。



「ぎゃああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」



 その大きな声によって意識が戻り、一瞬で現実世界に叩きつけられた。


佐藤は気が付くと男の股間に傘のフックを引っ掛けて、思いっきり上に引っ張っていた。



「ストップストップストップストップ!!痛い痛い痛い!!!!」



 感情がぐちゃぐちゃになった男は、とっさに果物ナイフ床に落として両手を股間に当てて、大きな声で訴えかけた。



「わかった!わかったから!!外してくれえぇぇぇぇぇ!!!!!」



 それでも聞く耳を持たなかった佐藤は引っ張り続けたが、その間も左肘の針を抜いた個所から血が流れ、引っ張る力によって出血量がさらに加速した。



「ストップ!ストーップ!!」



 医師は大声で叫ぶと、佐藤は言うことを聞いてやっと引っ張ることをやめ、そのまま傘を手放して床にバシャンと落とした。


 出血し続けている左腕をだらりと下げて、右手で左肘の内側から垂れている血液が触れない程度に覆っていた。


 腕を下げたことで、血液は重力に従って方向を変え、中指や薬指の先まで流れていき、大粒の血がぽたぽたと垂れたり、連続的に流れたりを交互に繰り返して床を赤く染めていく。


 靴に血が付かないように足を広げてふらつきながら立っており、もうすぐ両足まで届きそうなほど広がっていた。


 貧血の状態で限界まで引っ張り上げた力を使ったことで息を切らしていた佐藤は、男を睨みつけるような鋭い目は、次第に力尽きたように、目が上転しながら閉じて前に倒れていったが、床に叩きつけられる前に股間に手を当てて痛がっていた男は早急に佐藤を両手で受け止めた。



「久保!止血!!」


「あ、あぁ、分かった……!」


「まったく、余計なことしてくれたよなお前は!」



 男は近くにあった青いゴム手袋をはめてアルコール消毒をし、数回折ったガーゼを、佐藤の左腕の出血しているところに当て、強く押さえた。



「白くて細い腕だ……。高橋、大量出血だ!輸血はどうする?ここからだと病院遠いぞ。救急車両じゃないし……」


「畜生!どうする……!!」



飴を砕いて棒をゴミ箱に入れる。


 両手を腰に当てて険しい表情をしながら佐藤を見つめた後、床にこぼれた血液、肘掛けにある上を向いた採血針、それに繋がっている採血器の順番に視線を移す。


 息を軽く吸って大きく鼻から吐く。


 急げ、時間はない。






つづく


次回

第4話 献血レースに出てみないか?

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