第2話 すみれの精霊
「はぁ……これ全部読めるかなぁ……」
マリーエルが溜め息混じりに言うと、並んで歩いていたアメリアが柔らかく笑った。
「大丈夫よ。アントニオも貴女の予定を考慮して、と言っていたでしょう?」
「そうだけど……。でも、成人の儀の衣装合わせに、舞の稽古にって、忙しくしてたら、読む時間ないかもしれないもん。……お茶の時間もちゃんと取りたいし」
そう言って頬を膨らませると、アメリアはクスクスと笑い声を漏らした。
「ちゃんと考慮されているわね」
「うぅ……」
マリーエルは手にした書物を捲り、中身を流し読んだ。確かに、読むだけなら出来ない訳ではなさそうだ。しかし、アントニオが求めるように学び取り、自身の知識と出来るかは自信がない。絵を眺めているだけの方がずっと向いている。
「別に興味がないって訳じゃないもん。でも、精霊と歌ったり、舞ったり……お茶してる方が楽しいなって思っちゃうだけ。大陸に行くことなんてないだろうし」
マリーエルは、書物を胸に抱くようにしてから口を尖らせた。
その様子を見たアメリアは、さらりと横顔に垂れた髪を耳に掛け直して、考え込む素振りをした。
「精霊姫の感覚は鋭く、それは精霊のものに近いというわ。だから、貴女が突然精霊と共に歌い始めたり、森へと行ってしまっても驚かない。昔からそうだったもの。でも、アントニオが言っているのは、貴女が精霊姫としてだけでなく、英雄王の子孫として生きていくのに必要なこと。そして──」
そこで言葉を止めたアメリアは、小さく笑うと、マリーエルの顔を覗き込むようにした。
「とにかく、アントニオが貴女に厳しくするのは、なにも意地悪する為じゃないって、判っているでしょう? アントニオも少し不器用だけれど、知の者である彼が考えうる限り最善の優しさだわ」
そう言って微笑まれると、マリーエルは頷くしかなかった。
勿論、理解している。アントニオはこの世界に生を受けたその日から、ずっと側で見守ってくれていた。沢山のことを教わった。深く愛してくれているということも理解している。
温かく蘇った優しい思い出の中に、小言が混ざり始めたので、頭を振ってそれを追い出した。
「でも、出来るだけ分かりやすい優しさの方が良いな。最近小言が増えたし」
「あら、小言を言われるようなことをしているの?」
アメリアの言葉に、マリーエルは頬を膨らませた。
「してない、もん。……アメリアが優しくない!」
マリーエルが言うと、アメリアは面白がるように笑って「仕方ない子ね」とマリーエルの頬を撫でた。
アメリアはアントニオと同じく、マリーエルが生まれた時から世話役として側に仕えていた。七つ年上の彼女は、その美しさと世話役としての能力の高さ、気遣いの細やかさから多くの者から憧れの念を抱かれている。マリーエルも、精霊姫として特別視されることはあるが、それと比べてもアメリアへの憧れは相当に強い。
それに驕ることなく、ただひたむきに世話役として務めている。その姿に、また人々は憧れを強くするのだ。
二人の姉よりもアメリアの方が、マリーエルは何の気兼ねなく甘えることが出来た。勿論、姉達にはマリーエルと同じようにグランディウスの子孫としての役目がある。いつでも姉妹で楽しいことだけして過ごすということが出来ないのは、当たり前だ。共に過ごす時が長いということもあるし、そうでなくても、アメリアは実の姉以上にマリーエルにとって大切な存在だった。
「さ、
自室の卓の上に用意された一人分の食事を見つめ、マリーエルはアメリアを振り返った。アメリアは部屋の隅に置かれた椅子に向かっている。
「ねぇ、一緒に食べようよ」
マリーエルが言うと、アメリアは部屋の外の様子を確認してから「そうしましょうか」と微笑んだ。
世話役は食事中の世話や訪問者の応対をする為、椅子に腰掛けることはあっても、食事を共にすることは殆どない。自分の食事は取り置いておいて、後から一人で食べるのだ。
しかし、マリーエルはよくアメリアを誘った。同じ部屋に居るのだから、同じ卓で食べればいい。訪問者が来ても、アメリアはそつなくそれをこなせるのだから、何の問題もない。
しかし、アメリアは世話役としての姿勢を自ら崩すことはなかった。幼い頃はそれが当たり前の姿勢なのだと思っていたが、今のマリーエルにとってはそれは少し寂しいものに映る。だが、だからこそアメリアが周囲から高く評価されているのだ、ということも理解していた。
──アメリアの事情を考えたら、仕方のないこと。でも……。
思いを巡らせながら、食後の茶を飲んでいたマリーエルは、ふと窓の外から風に乗って入り込んできた花弁に目を留め微笑んだ。甘い香りが香ばしい茶の香りと混じり合う。
窓辺に落ちた花弁がくるくると舞い輝くと、それは青年の姿を形作った。背から生えた
「我等の精霊姫よ。──おや?」
窓辺に腰掛けた青年──すみれの精霊は、形の良い眉を寄せてマリーエルの顔を覗き込んだ。
「気の流れが、少し乱れているね」
透けるような手がそっとマリーエルの頬を包み込んだ。すみれの咲く瞳が心配そうに細められると、顔の中心から放射状に伸びた飾り模様が形を変えた。髪からすみれの花が涙のように零れ落ちる。
精霊国では格別にすみれの花を大切に扱っている。
その為なのか、彼の人々を想い寄り沿う性質からか、古くからすみれの花は特別なものだった。
「アントニオの小言のせいかな」
マリーエルが冗談めかして言うと、すみれの精霊は、納得いったようにひとつ頷き、笑った。
「彼等は知識を与えずには居られないのだろう。特に姫には」
そう言ってすみれの精霊は、マリーエルの額に口づけを落とした。甘い香りが鼻をくすぐり、身の内をふわりと抜けると、体が少しだけ軽くなった気がする。
「さぁ、これで整った。やはり君の気の流れは心地が良いね」
すみれの精霊は小さく口ずさみながら、マリーエルの頬を愛おしげに撫でた。マリーエルがその歌に自身の歌を乗せると、辺りにすみれの精霊の力が満ち渡り、すみれの花が開く。
精霊の力をこの世界へと導き満たすには、まず身の内に取り込むことで成される。特に、精霊姫の身の内に流れる気の流れは、精霊達にとっても心地の良いものだった。
命世界に在るモノは、意識的、無意識的に精霊の力を受け取り影響を受けている。精霊人とはいえ、多くの者は修養を積んでやっと一霊の呼び掛けを受けるに至る。その呼び掛けも、精霊が自身の司る力を受けるに相応しい器と認めなければ成されない。そして、精霊の力を使うには、煩雑な儀式を行うか、力を宿した道具を用いて発現させることとなる。
精霊姫は、それら全てを必要とせず、精霊の声を聴き、その力を導くことが出来た。
しかし、まだ器として未熟である身に、強大な力を一度に流し込むのは器を壊すことにもなりかねない。今は、マリーエルの器としての成熟が待たれている。
「今日は君に贈り物をしようと思うんだ」
そう言って卓の上に手を伸ばしたすみれの精霊は、壷から糖をひと掴み取り、手のひらに伸び上がり咲いたすみれの花に吹きかけた。そうして糖の粒を
「さぁ、お食べ」
「花を?」
「そう、我等すみれの花を」
マリーエルは促されるままに口に含むと、驚きに目を瞬いた。
華やかなで瑞々しい香りが口いっぱいに広がっていく。柔らかな甘みが身の内に溶けていく。
「美味しい……!」
「それは良かった。私の力を受けたモノを愛でるだけでなくて身の内に取り込んで欲しかったんだ。他のものとはまた違った味わい……というものだろう?」
すみれの精霊はそう言ってから、アメリアに目を向けて微笑んだ。
「君のお陰だ」
「お役に立てて良かった」
アメリアには、生まれつき精霊との対話に必要な力が備わっていない。ただ、この国で愛されるすみれの精霊だけは彼女でも視ることが出来た。
「彼女に人並みの力があれば」──それは、アメリアが幼い頃より繰り返し耳にした言葉だった。
しかし、マリーエルの世話役として尽くし、憧れさえ抱かれる今彼女に、そのようなことを口にする者は居なかった。アメリアのひたむきさに、多くの者があしざまに言うその口を閉ざした。
「ね、アメリアも一緒に考えてくれたの?」
「ええ。とっても甘くて、美味しいでしょう」
「うん! 今まですみれの花って──」
笑顔で二人の話に耳を傾けていたすみれの精霊が、ふと窓の外に視線を移し、不快そうに目を細めた。
「どうしたの?」
「あぁ、いや……」
すみれの精霊は、すぐに笑みを取り戻すと、手のひらに零れ咲いたすみれの花々を卓の上に置いてから、「また来る」と言い残し、現れた時のように輝いて消えた。
「あ、まだお礼を言ってなかったのに……」
「彼には、また次に伝えたら良いわ」
アメリアは卓の上から取り上げたすみれの花を愛おしそうに見つめ、そっとその香りを匂って微笑んだ。
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