第39話

 一人暮らしをしてからも、夜になると怪物が英明のもとに訪れることがあった。怖くて怖くて、目が覚める――そのまま眠ることは出来なくなる。

 だけど、菜摘と眠るようになってから、英明は夜ぐっすり眠ることが出来るようになった。例え怪物が現れても、菜摘を抱き締めることで安心する。菜摘のあたたかさが英明を怪物の恐怖から引き離した。大丈夫、大丈夫だ。時に涙を流しながら、英明は菜摘を抱き締めた。菜摘は時折薄っすらと目を覚まし、「怖い夢を見たの?」と言って、ぽんぽんと英明の背中を優しく叩き、ぎゅっと抱き締めてくれた。「もう怖くないよ」うん。うん、菜摘。菜摘がいれば、怖くない。

 菜摘とほとんど一緒に暮らすようになってから、英明は気づいたことがある。

 英明は家を出るとき、戸締りが出来ているかどうか、ガスの元栓を閉めたかどうかを何度も確認せずにはいられない。菜摘に「そんなに確認しなくても大丈夫だよ。少しくらい、平気だよ」と言われても、三回は確認したくなる。持ち物の確認も何度もしてしまう。「平気だよ」と言われても落ち着かなかった。そして英明はこの行為がちょっと病的なのかもしれない、と初めて気がついた。失敗しないように生きてきたので、どうしても止められなかったのだ。菜摘は、最初の頃は「そんなに確認しなくても大丈夫だよ」と言っていたけれど、次第に何も言わずに見守ってくれるようになった。そういうところにも安心した。どうしても止められなかったから。三回は確認しないと、不安で出かけられないのだ。ただ見守ってくれて、どれほど安心したか。

 それから、手の洗い方も普通ではなかった。帰宅したとき、トイレに行ったあと、手を洗う。それは当たり前だけど、英明はかなり長い間手を洗うらしかった。「らしかった」というのは、菜摘に指摘されて初めて気がついたからだ。普通は、そんなに何分も手を洗ったりしないのだ、と。それでも英明は時間をかけて手を洗うことを止められなかった。手に、何かがこびりついているように感じるのだ。それを、決められた手順でゆっくり洗わないと息が出来なくなりそうだったのだ。

 菜摘、愛している。

 英明のことを、丸ごと受け入れてくれる。手を洗い過ぎることも、笑って「洗わないよりいいわよね」と言ってくれて、どれだけ心が軽くなったことか。

 菜摘、愛している――

 この感情が愛でなくて、何だというのだろう?

 だけど、言えなかった。

 怪物のことを。どうしようもなく苦しいことを。家から離れた今でもなお、あの家のことを夢に見て、怪物の恐怖で目が覚めることがあることを。父親へ恐怖、母親への憤り。どうしても言えなかったんだ、菜摘。

 菜摘の家に行ったとき、英明は驚いた。

 自分のうちとは何て違うのだろう、と思って。特に食事の時間が楽しかった。飛び交う会話。誰も突然怒鳴り出したりしない。楽しげに行き交う言葉の数々、笑顔、笑い声。「食べられないもの、ある?」「もっと食べてね」「これおいしいよ!」菜摘が、菜摘であるわけが分かった気がした。こういう家で育つと、菜摘みたいになるのだ。

 ……では、怪物に育てられた自分はいったいどうなるんだろう?

 英明は言い知れぬ不安の種が心の中で育つのを感じた。しかし、考えてはいけない感情だったので、無理やり蓋をした。



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