天使の梯子
西しまこ
1
第1話
影が過った気がした。
高橋菜摘は朝食の支度をしていた手を止め玄関に行き、ドアを開けた。明るい朝の日差しが入り込んだ。――しかし、誰もいない。
玄関から出て、庭に回る。
どこかで鳥の鳴き声が聞こえた。
四月の風が緑を揺らし、さわさわと音を立てて、白い光を飛ばす。
季節ごとに花を咲かせる庭木が、春の花を咲かせている。白木蓮、れんぎょう、ボケ。そして名前も知らない木に咲く淡い花たち。その向こうには雑木林が広がり、先ほど鳴いていたと思しき鳥は緑の中に姿を隠した。頭と背中の部分は黒っぽくお腹は白い鳥だった。
シジュウカラ?
菜摘は心の中で呟く。シジュウカラに見えたその鳥は、雑木林の方で会話をしていた。一方が鳴くともう一方も鳴き、まるで春の歓びを歌っているようだった。
影が過ったと思ったけれど、あれはこの鳥だったのだろうか。
「母さん」
後ろから声をかけられて振り向くと、息子の創が紙の束を持って立っていた。
「創。おはよう」
「おはよう、母さん。これ、紙ごみで出したいんだ。今日紙ごみの日だよね? 春休みに、学年変わるから片付けをしておいたんだよ。そうしたら結構要らないプリントがあって」
几帳面な創らしく、紙の束はきれいに整えられ、ビニールテープで十文字に縛られていた。
「門のところに置いておいてくれる?」
「分かった。……母さん、どうして外にいたの?」
「英明さんが帰って来たのかと思って」
「父さんが⁉」
「――ううん。気のせいだったみたい」
「そっか。……門のとこに行くね」
菜摘は創の後ろ姿に「戻って来たら朝ごはんね」と声をかけた。
――夫の英明が、もう一週間以上帰って来ていなかった。
坂の多いこの鎌倉山の町は、緑豊かで鳥や小動物も多く生息している。新しく建てられた家もあり、また古くからある広い敷地の家も多い。まるで森の中にすっぽりと入り込んでいるように、瀟洒な家や古い屋敷が緑の中から顔を覗かせていた。少し足を伸ばせば歴史的建造物があり、海も近い。自然と共生して穏やかに暮らせる情緒豊かな町である。
菜摘の家はこの鎌倉山の町の中で、他の家々から少し離れて、森の中に広い敷地を広げていた。
朝ごはんを食べながら、菜摘は創をそっと見た。煩く言わなくても、食べ方がきれいだ。……この子は本当に手がかからない。
何でもない天気の話や学校の話を静かにする。
「新しいクラスはどう?」
私立の中高一貫校に通っている創は、この四月に高校三年生になっていた。
「六年間一緒の仲間だからね、みんな知っているし気心も知れているから、いいよ。それに悠一とも一緒だよ」
「悠一くんと一緒なのね。悠一くんとはずっと仲良しよね、よかったわ」
「そうだね」
「クラスの雰囲気はどう?」
「国公立コースだし、みんな勉強頑張っているよ」
「あまり無理しないでね」
「うん、でも受験生だからね」
「今日も塾?」
「そうだよ――ごちそうさま」
創は食べ終わると、コップのお茶を飲んで手を合わせた。
菜摘はその様子を見て、この子は小さい頃から落ち着いた子で、そう言えば、反抗期とか思春期みたいなものもなかったと思う。感情の起伏があまりなく、常にフラットだ。しかし、もちろん感情がないわけではない。
「母さん、コーヒー、飲む?」
「ありがとう、飲むわ」
「少し、待ってて」
創はキッチンに行くと、コーヒーメーカーをセットして、それから自分が使った食器を下げて洗った。
創は優しい。その優しさに救われている。
菜摘が自分の食器を下げると、創が「ついでに洗うよ」と言って、菜摘の使った食器を洗った。
「母さんは座って待っていて」
「ありがとう」
椅子に座りながら、もう一度、思う。創は優しい。……どうしてこんなに優しく、よく出来た子に育ったのだろう? 不思議だ――
――頭が痛い。
菜摘はこめかみを押さえた。
「母さん、大丈夫? また頭痛?」
創がコーヒーカップを持って来て、心配そうに言った。
菜摘はコーヒーカップを受け取りながら、「うん、大丈夫。いつもの偏頭痛よ。心配ごとがあると、頭が痛くなるの」と答えた。
「……父さん、早く帰って来るといいね」
「……そうね」と答えて、菜摘はコーヒーを一口飲んだ。「おいしい。ありがとう、創」
「どういたしまして。コーヒー飲んだら学校に行くね。あ、お弁当いつもありがとう」
創はコーヒーを飲み終わると、弁当箱が入った袋を通学用のリュックに入れた。創は毎日必ずお礼を言う。そういう子だった。
学校へ行く創の姿を見送って、そのまま、菜摘は玄関の外を眺めた。
英明さんはどこにいるのだろう? どうして帰って来ないのだろう?
菜摘の不安とは裏腹に、緑は美しく萌え出づる春の歓びに満ちていた。先ほどのシジュウカラの声が聞こえた。がさごそと音がして、ふとそちらを見ると、リスが木を登って行くのが見えた。
――その時、家の中から電話の音がした。固定電話だ。
最近は、親しい人はみな携帯電話にかけてくる。もしかして、英明さんの悪い知らせ? それとも、やはり――
「はい、高橋です」
菜摘は鳴りやまない電話の受話器を取り上げた。
「ああ、菜摘さん。私よ」
電話の主はやはり義母の敏江だった。敏江はここのところ毎日のように、英明のことで電話をしてきていた。
「おはようございます、お義母さん」
英明の悪い知らせの電話でなくて幾分ほっとしながら、菜摘は応えた。
「おはよう、菜摘さん。創はもう学校に行ったのかしら」
「ええ、先ほど」
「そう。それでね、菜摘さん。英明のことだけど――あの子、帰って来た? 連絡はあったかしら?」
「――いいえ、まだ……」
「そう」
敏江の溜め息が受話器を通して聞こえてくるようだった。深い深い、暗い穴の底まで引き摺り込むような溜め息。
「警察には届けてあるのよね?」
「はい」
敏江と電話をしながら、菜摘はあの日に戻っていた。
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