第7話『則夫』



①不安

その日のさおりは気が気でなかった。

今日は朝一から、祖母の調子が悪かった。澄江は昨晩、睡眠導入剤を大量に摂取したのか、呂律が回っていなかったり、話の辻褄が合わなくなっていた。ましてやどこを見ているか分からないほどに、目の焦点が定まっておらず、動作も緩慢だった。

かと言って大事をとって、仕事を休めるかと言えば、そういう訳にも行かない。

余程『則夫』の存在から逃げ出したいだろうか?その気持ちは分からなくもないが、いい加減にしてほしいというのが本音。しかし、さおりにとっても澄江は、残された唯一の肉親。苛立ちと大切にしたい気持ちが絶えず拮抗を続け、職場に着いて以降も、彼女の集中力の妨げになっていた。


「あの……お釣り、まだですか?」

「はっ! 申し訳ありません!」


「あの……レジ袋、貰ってないんですけど……」

「はっ! 申し訳ありません!」


「すみません、これ一個多く打たれてるんですけど……」

「も、申し訳ございません!」




澄江の事が気になりすぎて、彼女はレジ内でも凡ミスを何度も繰り返した。

前後のレジに構える御局スタッフは、その様子を見て、昼休みの話題のネタにしようと、眉と口角を歪めるのだった。


「どうしました? 葛西さん。なんか今日は落ち着かないご様子ですが」

昼休みに入り、店長である倉持が、彼女の肩に手を乗せて来た。

「はっ! 申し訳ないです。ちょっと祖母の体調が悪くて、心配で……」

その手から逃げるように椅子から飛び退くと、倉持と数歩距離を置いて、さおりは頭を下げた。

「まあ、皆さん色々と家庭の事情も抱えながらお仕事に来られてるんです。葛西さんも一応は契約『社員』だから、バイトがやるような初歩的なミスを連発されては困りますよ」

そう言いながら倉持はその距離を縮める。

「僕はあなたに期待してるんです。ガッカリさせないでくださいね」

そう言うや、倉持は彼女の両腕をぎゅっと掴むと、抱きしめるかのように距離を詰めた。

「も、申し訳ごさいません、以後、気をつけます」

それを振りほどいて、もう一度頭を下げると、さおりはすかさず事務所を逃げ出した。




店内の方が安いのに、彼女は敢えて外の自販機でブラックコーヒーを出した。

イライラが募ると、彼女は決まってブラックコーヒーに手を出す。甘さもまろやかさも皆無な、雑味のないガツンとした苦味が、ほんの少しだけ苛立ちに抗ってくれる。


倉持はスキンシップと称して、やたらとさおりの肩や手、腰や脚などに手を乗せてくる。しかも他のスタッフが居ない時をしっかりと見計らって、意図的にそれを繰り返す。そして稀に思わせぶりな発言や、態度、表情を見せつける。正直、さおりにとっては迷惑で厄介な存在。

倉持は今年、五十路を迎える独身者。痩身で青白く、物腰は柔らかいが何を考えているか分からない、得体の知れない飄々とした風貌。仕事に対しては至って真面目だが、それ以上、それ以下でもない。

おおよそ既婚者や年配者の多いスタッフの中で、独身女性というだけで、さおりを『雌』として見初めたのだろう。直接的な言動は無いにしろ、彼女にだけ湿度と密着度の高い対応をする。また、周囲もそれを薄々勘づいていた。噂話が恰好の憂さ晴らしになるパート達からは、さおりが倉持に色仕掛けをしていると専らな噂だ。そんな事は決して無いが、それをあからさまに否定するのも、正直面倒だった。

併せて、『契約社員』とは言うものの、結果的に会社からすれば、パートに毛の生えた程度の存在。いつクビを切っても痛くも痒くも無い。しかし、さおりにとってすれば『現在』(いま)を維持する為には、クビを切られる訳にはいかない。

きっとこのままだとエスカレートして、胸や尻にまで倉持の手は伸びるだろう。下手すると本当に二人だけの空間を、無理くり当て込んでくる可能性だって存分にある。しかし、澄江を護る義務が自分にはある。 それを第一に考えると、

『やめてください』

その言葉を口にする勇気が出なかった。


休憩時間はあと十五分。今日の勤務は十八時までであと四時間余り。それまで澄江が無事で居てくれればいいのだが……


さおりはどうしても落ち着かず、スマホを取り出し、自宅の番号をタップするのだった。






「店長、申し訳ありません! 本日早退させていただけませんか?」

息咳切って駆け付けたさおりを前に、たじろぐ倉持。

「どうしたんですか? そんなに慌てて……」

「ご迷惑ばかりかけてすみません。祖母の調子がやはり良くなくて……」


休憩をあがる前に、自宅へかけた電話。

十数コール待ったうえで、やっと澄江は受話器を取った。

「ばあちゃん、さおりだよ。ちゃんとご飯食べた?頭、ボーッとしてない?」

「はあ? どちらさんかいね?」

「さおり、さ・お・りだよ」

沈黙する澄江。その途端

「ひゃああ! なんまんだぶ! なんまんだぶ! なんまんだぶ!……」

さおりは頭を抱えた。また『則夫』だ。

澄江は受話器を放り投げ、部屋の片隅でずっと念仏を必死に唱えている。

「ばあちゃん! ばあちゃん!」

電話口で何度も叫ぶも、その声は澄江には届かなかった。そして電話の向こうでは、何やらガチャガチャと大きな物音がし始めた。よもや澄江が発狂して、部屋の中を滅茶苦茶にしているのかもしれない。

さおりは一瞬だけ目を瞑り、歯を食いしばる。

このまま澄江を放置しておく訳にはいかない。下手すると、近所にも迷惑をかける可能性だって十分にある。いても立っても居られなくなったさおりは、缶コーヒーを一口だけすすると、事務所へ踵を返した。


「さっきも申しましたが、皆さんそれぞれの事情のもとに――」

「すみません、帰ります!」

「ちょっと! 葛西さん! 話はまだ――」

倉持がまだ喋っている中、さおりは事務所を飛び出した。



どうか無事で! どうか無事で!

さおりは走りながら、そう心の中で何度も何度も叫ぶのだった。



②共鳴

少年はあれから以降、聡太郎の前には現れなかった。もうあれから四日以上経過している。さおりからの連絡も一切入ってない。

それに伴ってか、彼の中の『誰か』の『渇き』も、少しだけ落ち着いていた。ややもするとあの少年はさおりと澄江に会えたことで、願いは成就したのかもしれない。しかし、聡太郎に存在を感じさせるほどに強い情念が、そう簡単に昇華するはずはない。とは言え、今、この瞬間に何か為すべきことがあるかと言えば、差し当たってのところ『無い』と言っても間違いでは無いだろう。

安心して良いのか悪いのか微妙なところだが、ひとまずは静観する、聡太郎はそう決める事にした。


ここ数日は『渇き』も一定以上の衝動に駆られることも無く、彼としては順調な日々を過ごしていた。

普通に食べて寝て、たまに動画も楽しんで、とても人間らしい怠惰な日々に終始していた。絶えずめくるめく情念や怨念、低俗な霊が視界に映り込むも、緊急に対処すべき輩は少なく、聡太郎もその緩さにいつの間にか流されていた。

「せめてずっとこの程度であればいいのに……」

そんな甘い考えさえ、彼の胸中に訪れる。

くだらない動画を観た後、睡魔に襲われた聡太郎は、そのままベッドで目を瞑る。スマホをそっと腹の上に乗せたまま、まどろみの中にゆっくりと落ちて行く……


と、その刹那! スマホが金切声をあげて鳴動する。

慌てふためいてスマホを握りしめると、聡太郎に激震が走った。先程までの緩い考えなど吹っ飛ばすかのように、激しい痛みを伴った映像が、彼の中に流れ込んで来た。

その中には血だらけになったさおりと、うっすらと笑みを浮かべる少年が重なり合い、泣き喚く澄江の叫び声が、彼の耳を貫いた。

『ごめんなさい! ごめんなさい! どうか赦して!』


聡太郎の耳には、その叫び声はそう聞こえた。







「ばあちゃん! 大丈夫?」

さおりは自宅に帰り着くと、急いで澄江の部屋へ駆け込んだ。

部屋の中は嵐でも遭ったかのように、洋服や新聞、雑誌、箪笥の中のものまで飛び出し、足の踏み場のないほどに、散乱の限りを尽くしていた。

「ばあちゃん! どうしたの? これ」

澄江は部屋の片隅で小さく藻掻いてばかりで、なにも答えない。

「ばあちゃん……」

小さく念仏を何度も何度も連呼する澄江を、さおりはなにも言わずに抱きしめた。

「ひぃぃ!」

その瞬間、澄江は痛烈な叫び声をあげる。

それを無視して、さおりは強く固く、澄江を抱きしめた。

『もう、いい加減にして欲しい、どうして私の人生の邪魔をするの? 私はずっとずっとこのままなの?』


心の中で口には出せない気持ちを、激しく吐露するさおり。

澄江は勿論大切な家族だ。護るべき存在。しかしそれは、さおり一人では荷が重すぎた。物理的な面でも、精神的な面でも、常にさおりは崖っぷちを渡っている。いつ、そこから転落するか分からない。

彼女にだって彼女の『人生』があってもいいはず。 それとも、この今の毎日が彼女に宛てがわれた、『人生』=『運命』なのか? ただひたすらに毎日を生きる事が彼女の『運命』であるならば、さおり自身が望む『人生』の価値など、そこには存在しない。

彼女も人並みに恋愛やお洒落、気軽に旅行や美味しいものを食べ歩いたりしてみたかった。

しかし、実際の生活はひたすらに『働く』『祖母を護る義務』に縛られ、一時たりとも自分を顧みることは出来なかった。

その日の食事に困り果てた日もあった。それでも澄江に辛い思いはさせたくなくて、彼女の体重はみるみるうちに減っていく。

周囲は『自分を大切に』と、声はかけてくれるものの、具体的な手助けは一切せず、結果的にそれは祖母を押し付ける為の常套句に過ぎなかった。

誰も分かってくれなくてもいい。澄江さえ、彼女を理解してくれれば、それで良かった。しかし当の澄江は、徐々に記憶も散漫になり、さおりを忘れる事も増えていく。そんな宛の無い闇に手を差し伸べたところで、なんの意味がある? 誰も知らない、誰も知ろうとしない、そんな自分に『意味』はあるのか?

もはや自分は若くない。気が付けば薹の立った中年のおばさんだ。愛だの恋だのに現を抜かす年代でもない。

『私の人生を返して!』

そう叫びたくて、両親を恨んだ事もあった。口には出さずとも、澄江を鬱陶しくさえ思った事もあった。 しかし、敢えて彼女はその道を歩んで来た。


『誰か……誰か……』


その後の言葉は、心の中でさえも敢えて口にせず、彼女は歯を食いしばった。

そして目を硬く瞑る。



今にも高波に飲まれそうな断崖絶壁で、彼女は裸足のまま、鋭く尖った岩肌に足場を探す。吹き荒れる突風は、彼女を荒れ狂う海に突き落とそうと躍起だ。

雨も降り出し、足元を滑らせる魂胆だ。

彼女は素手で岩肌を掴み、その雨風を凌ぐ。そして少しずつ前へ前へ、歩を進める。

次の一手に手を伸ばした刹那、突風が吹き、彼女は煽られる。真っ逆さまに海に落ちようとした、その瞬間、誰かが彼女の手を掴んだ。

すかさず彼女は顔をあげ、その誰かを確かめた。

そこにはいがぐり頭の少年が、口を閉じたまま彼女の手を握り締めていた。さおりは躍起になってもう片方の手を伸ばした。そして少年はその手を取った。


その瞬間、さおりの中に張り詰められていた緊張が一瞬和らいだ。決して楽になった訳では無い。何かが同調して、並行する痛みと哀しみ。しかし、それは共鳴とも似ていて、彼女の心の枷を少しだけ外させるに至ったのだった。



「なんまんだぶ! なんまんだぶ! ごめんなさい! ごめんなさい!」

さおりの腕の中で涙を流し、震える身体で赦しを乞う澄江。まるで目の前に誰かが居るように、必死に彼女は懇願する。そしてその目は、瞬きもせずに見開かれ、恐怖に侵食されていた。






③転機

一週間後。

「さおりちゃん、おばあちゃんは私達が引き取る事にしたわ。今まで大変だったでしょ? これからはさおりちゃん、自分の人生を楽しんで……」


急な提案をしてきたのは、誰でも無い伸子だった。

四日前に、さおりは叔父に部屋の片付けを手伝って欲しい旨の連絡をした。その際、伸子も同行し、珍しく彼女も部屋の片付けを手伝ってくれた。

おおよそ捨ててもいいものも多かったので、叔父達はそのゴミを引き受けてくれた。

そして、それから三日経った今日、伸子からの連絡が彼女に入った。

「あ、でも、訪問看護もあるし、ケアマネの方にもまだ……」

「あ、それはもう私が話つけてあるから、大丈夫! 明日にでもおばあちゃんの荷物取りに来るから!」


伸子は有無も言わさぬ勢いで話を進める。このままいくと、澄江は三日後に伸子たちの家に引っ越す形になる。そうなれば、この団地からもさおりは出ていかないとならなくなる。あまりに急な話だ。

「ねえ、ばあちゃん、伸子おばあちゃんちに行きたい?」

「はて? 伸子さんて、どなた?」

澄江は伸子を嫌っていた。しかし、認知症が進むにつれ、その存在は彼女の中で抹消されようとしていた。案外、それでいいのかもしれない。棘のある物言いの伸子と対峙するには、忘れてしまっている状態が、無難に事を大きくしなくて済むのかも知れない。


認知症が進む毎日に伸子の申し出は、まさに渡りに船だった。さおり自身、一人で仕事と介護を両立させる自信がなかった。このままではいけない。来るべき未来に対して、手を打たなければいけないとも、痛感していた。そんな矢先に伸子の発言は、びっくりしたものの、安堵を覚えた事も嘘ではなかった。



「ねえ、叔父さん、『則夫』さんって、誰か知ってる?」

伸子と、澄江の荷物を取りに来た叔父に、さりげなくさおりは聞いてみた。

「どこでその名前を?」

叔父の顔は一瞬にして、険しい表情になった。

「ばあちゃんが、発作起こした時にいつも言ってるよ。なんかしきりに謝ったり、お経唱えたりして、凄く怖がってる」

「……」

「ねえ、なんか知ってるの? 多分叔父さんとこ行ってもばあちゃん、発作起こすよ。何か知ってるんだったら、伸子さんにも教えておいたほうが良くない?」

詰め寄るさおりを一瞥すると、叔父はずれかけた眼鏡を戻して、ゆっくりと口を開いた。

「則夫さんはばあちゃんの子供やったんよ。」

「え? お母さんが長女で、叔父さんが長男じゃなかったの?」

「うちの家系ではそうなる。やけど、ばあちゃん、じいちゃんと結婚する前に、付き合ってた人がおってな、その人との間に出来た子が則夫さん。旦那さんになるはずやった人は、病気で死んでしもうて、ばあちゃんは女手一つで則夫さんを育てとった。それからうちの家にお手伝いさんで入るようになって、じいちゃんに見初められたんよ」

淡々と喋る叔父。嘘か誠か、狐につまみれたような複雑な心境のまま、さおりは耳を傾けた。

「今となってはもうその跡形もないけど、うちの家はそこそこ名の通る家系やった。やから、親戚一同は連れ子である則夫さんを毛嫌いしとってね、特にうちらで言うばあちゃんが、則夫さんには当たりがきつくて、家から追い出そうと躍起になってたんよ」

「なんか、可哀想……」

自然とさおりは涙が溢れ出た。

「うちらもばあちゃんからは一緒に遊ぶな! 言われててね、則夫さんだけ屋根裏部屋に隔離されとった」

叔父は敢えて則夫をさん付けしながら、何かしら注意を払いながら、言葉を選んでいた。

「そして、あの日」

「あの日?」

「忘れもせん、あの日。あの日の朝、ここいら一帯に大地震が起きてな、町中みんな家やら建物が壊れて、大惨事やった。うちの家も全部崩れ落ちてしもうて、姉ちゃん、お前のお母さんが、則夫さんを心配して、屋根裏部屋だったあたりを探しよったところに、また地震が起きて、瓦礫の下敷きになってしもうた。若い衆が躍起になって助けようとするも、余震が激しくてな、どうにもいかんでね。則夫さんと姉ちゃんをしきりに叫ぶ母ちゃんやったけど、若い衆からは、『どっちかしか助けられん、則夫さんか姉ちゃん、どっちかにしろ!』って、言われて、みんなが居る前で迫られてね……」

さおりの脳裏には、その時の状況が手に取るように見えた。そして激しい動悸に息が苦しくなり、その場に倒れ込んだ。

「おい、さおり! 大丈夫か?」

狼狽える叔父は、さおりを抱き抱えた。

急に押し寄せた息苦しさに目眩を覚え、視界と意識が狭窄されていくのを、さおりは感じ取った。

徐々に狭まる視界。

「さおり! さおり!……」

遠ざかっていく叔父の声。さおりは、則夫の話の顛末を聞き出す前に、深い闇に堕ちた。




つづく



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