契機

 オーディションの会場へは、羽鳥先生も同行してくれた。それどころか東京への交通費も、「前祝いだ」なんて言って出してくれた。

 東京へと向かう新幹線の中で、先生がご機嫌で声を弾ませる。


「いやあ、すごいなあお前さん。一次審査、当然のように合格だったな。あの映像は撮ってて鳥肌が立った。もう一年踊ってないはずなのに、全くブランクを感じなかったぞ」


 一次審査は、ダンス映像のデータを主催に送って審査される。僕は先生に連れられて、学校の体育館で撮らせてもらった。

 不織布マスクをつけた顔で撮ったが、一次審査の時点では動きのみを注視するので、問題ないという。

 僕は不織布マスク越しに先生にぼやいた。


「多分、顔を見た時点で落とされますよ」


 流れていく窓の外の景色を、ぼんやりと見つめる。


「一次審査は通ったけど、それは僕があの人殺しの子だと気づかれなかっただけで」


「オーディション落ちたら、そん時はそん時だ。俺はお前さんが、このオーディションを受けると決めてくれただけで充分なんだ」


 新幹線の中で、先生はそう言って笑った。

 先生に押し負けて一次審査に応募したけれど、きっと、そこまでだ。顔を見られたら、僕が舞台に立っていい人間ではないことがバレる。折角交通費を出してもらったのに、先生には申し訳ない。


 オーディション会場は、都内のダンススタジオだった。ちょうどオーディションの時間に間に合うように到着した僕らは、すぐに受付を済ませ、審査員の前へと通された。付き添いの先生は、審査員の斜め後ろに立って、僕を見守っていた。

 ワックスを掛けられて光っている床に立ち、ジャージ姿で、僕は審査員の前に立つ。


「✕✕番、伊狩翼です。よろしくお願いします」


 久々に、不織布マスクをつけずに人前に立った。それだけで汗が滲み出してくる。目の前の人々がいつ、親父を思い出すか。恐ろしくて息が詰まる。


 体が緊張で硬直している。一次審査のときは、見ているのが先生だけだったから踊れたけれど、今は他人の視線が気になって、散漫になっている。

 しかし音楽が流れると、ふっと、切り替わった。凍っていた全身の神経が、羽ばたくように解き放たれる。

 腕を大きく広げ、空を掴むように伸ばす、足は床を蹴って軽やかに跳ねる。指の先、足の先、睫毛の先にまで意識が届く。音楽が、僕の体を軽くする。


 音が止まった。僕の動きも止まる。

 審査員席に並んだ数名の審査員たちは、しばらく、息を呑んでいた。部屋の隅で見ていた先生も、目を見開いて呆然としている。

 沈黙に耐えられず、僕は声を出した。


「あの……」


 その瞬間、審査員のひとりが、ぽろっと涙を零した。ぎょっとする僕を前に、彼は慌てて涙を拭う。


「す、すまない。あまりに美しくて。もしかして君……」


 我に返ってそう言い、そして彼は弾かれたように手元の書類を捲りはじめた。


「やっぱり。き、君は」


 書類にあった僕の名前を見て、そして僕の顔を見た。


「君は、あの……大田翼……!」


 その名前で呼ばれた瞬間、びくっと、体が跳ね上がった。バレた。人殺しの息子の名前を、思い出されてしまった。


「ご、ごめんなさい」


 やはり僕は、オーディションの場に出る自体、許される存在ではなかった。もうこの先一生、日の当たらない場所で息をしているだけ。それだけでも、人から疎まれる人生を歩むべきだったのに。

 審査員の男は席を立ち上がり、こちらへ駆け出してきた。


「ずっと捜していた! 待っていたよ、翼」


「へっ……?」


 困惑する僕の手を、彼は固く握った。


「あの事件以来姿を消した、幻の天才高校生。ずっと、会いたかった」


 想像と違う反応に、僕は口を半開きにして、目をぱちくりさせた。審査員がぎゅっと、手に力を入れる。


「悔しいなあ、名前を見た時点で気づきたかった。名字が違ったから見落とした。君が……君があの、ダンス界の麒麟児、大田翼……」


「でも、でも、僕は……」


 僕は審査員の握手から逃れようと、腕を引いて藻掻いた。しかし彼は一層強く、手を握りしめる。


「この逸材が、あんな事件のせいで消えてしまうなんて、業界にとっての大きな損失だった。戻ってきてくれてよかった」


 もう二度と離すまいと、そんな強い意志を感じる、手の握り方だった。僕は彼の審査員席をちらりと見た。立てられていたネームプレートには、「演出家・蜜井一郎」と刻まれていた。



「ほらな! やっぱり翼は、業界から求められていたんだよ。俺の言ったとおりだっただろ」


 先生が得意げに胸を張る。

 実技オーディションのあと、僕は隣の部屋に通された。演出家の蜜井一郎が、僕と面談したいと言うからだ。保護者的なポジションとして、先生も一緒にいる。

 蜜井さんは、改めて僕に名刺を手渡した。


「取り乱して申し訳なかった。君にはぜひ、私が務める事務所に入ってほしい」


 名刺には「フェニックスステージ・演出家兼マネージャー 蜜井一郎」と刻まれていた。

 フェニックスステージは、舞台芸術に特化した表現者のための事務所である。特にダンサーの育成に力を入れており、世界レベルのダンサーが多く所属している。

 一年前の僕だったら、飛びついていただろう。でも今の僕は、まだ、尻込みしていた。


「でも、僕は……。僕が表舞台に立つのは、複雑な気持ちになる人がたくさんいると思います」


「そうか。君はなんの罪も犯していないのだから、堂々としていればいいと思うが……たしかに、世の中の誰もがそう思うわけではない。君が理不尽に叩かれて、また踊れなくなるのは、なによりも避けたい」


 蜜井さんはふっと、目を細めた。


「でも、信じてくれ。私は『照明の魔術師』と呼ばれている」


 僕ははっと、顔を上げた。そうだった。先生がこのオーディションを僕に紹介したのは、それが理由だった。

 彼は手を広げ宙を掻くように僅かに動かした。


「人は、光があって初めてものの色合いを認識できる。色とは光の反射。光が当たっているか、翳っているかで、物の見え方は変わる。その万物を照らすのが、太陽」


 彼は室内の、白い蛍光管を見上げた。


「舞台の照明は、舞台の太陽だ」


 蜜井一郎は、光を操る演出家。舞台を照らす太陽の全てを、彼が握っている。彼の手にかかれば、演者は光の影の演出の一部になる。


「本来なら、君のそのビジュアルは武器にしたいところだ。けれど、他でもない君が隠したいというのなら、太陽は君に合わせて動く」


 蜜井さんの瞳に、蛍光管の光の筋が反射している。


「ああ、見えてきた。君の舞台。強い光で顔を白く飛ばして、後ろから光を当てて顔を影にして……どこを向いても、顔が見えそうで見えない。まさに、光の演出を活かした、完璧な舞台……」


 目の前が開けた気がした。

 顔が見えなければ、僕は観衆に疎まれることはない。照明の演出も含めて、顔の見えないダンサーという作品にしてしまえばいい。

 それなら、僕も、まだ踊り続けても許されるのだろうか。照明という、蜜井さんが操る日の光の力を借りれば――。


 蜜井さんの目線が、僕に戻ってきた。


「名字が変わっているとはいえ、念の為、名前も芸名をつけたほうが安心かな」


「はい。名前、変えたいです」


 翼という名前のダンサーと聞いて、去年の高校の全国大会の記事が見つかってしまえば、親父も連想されてくる。どうにか全てを切り離したい。

 蜜井さんはふむと唸った。


「顔が見えない幻想的なステージをメインに作るのだし、いっそ日本人離れした、ファンタジックな雰囲気の名前にしてしまおうか」


 と、そこでふいに、羽鳥先生が言った。


「イカロス……なんて、どうだ」


「イカロス?」


「ギリシャ神話に登場する、翼を持った青年の名前だ。今のお前さんの『伊狩』って名字と、翼のイメージで思い浮かんだ」


 先生が僕を横目に見て、反応を窺う。まだピンとこない僕よりも、蜜井さんが先に手を叩いた。


「素晴らしい、ぴったりじゃないか。イカロスは閉じ込められた塔から勇気を持って飛び出して、空へと羽ばたいた青年。君も恐れながらも踏み出して、オーディションへやってきて、夢への切符を手に入れた。まさに、イカロスじゃないか」


 閉ざされた場所から飛び立った、翼を持つ青年。

 彼が見た青空に、思いを馳せてみる。僕も、まだ見ぬ世界へと飛び立てるだろうか。


 その日から僕は、“イカロス”になった。

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