首を吊った人を降ろす仕事

まだ学校だよ

第1話

 頭を殴られるような騒音で目が覚めた。ぼやけた視界で騒音の元凶を手に取る。

 スマホには〈職場〉とゴシック体で映し出されていた。俺は、片手で顔を強引に拭い電話に出た。喧騒は止む。

「お疲れ様です」

 乾いた喉は、べっとりと張り付いていて上手く声がでない。

「悪いね深夜に、寝てた?」

 電話の向こうから、しゃがれ声が返ってくる。すぐに上司の〈後藤さん〉だと分かった。それから電話の目的も。

 俺は、張り付いた喉を剥がすために、一度咳ばらいをした。

「仕事ですか?」

「悪いね。また上がってね」

「何人ですか?」

「1人、40代くらいのおじさんだね」

「わかりました。すぐ向かいます」

 そう言って電話を切った。通話画面が消えて時間が表示される。

 午前2時――目を閉じて1時間ほどしか経っていない事に落胆した。

 俺は、覚醒しきっていない脳に鞭を打って体を起こす。後藤さんとの会話を反芻しながら床に散らばる仕事道具を手に取っていった。

 作業着のツナギは、3枚持っている。一番汚れていて、もうそろそろ捨てようかと考えていた物に袖を通す。

 ナイフに手を伸ばしかけて、隣のハサミに変えた。この時間に職務質問を受けたら面倒くさい事が起こりそうだ。犯罪をしているわけじゃないのに疑われるのは気分が悪い。それに説明をしたところで、唾を吐くような視線を向けられるだけだ。

 そもそもこの仕事は、スピードが求められる。

 深夜に叩き起こされて、1時間後には仕事を終わらせていなくてはいけない。

 新品の軍手を1組、ツナギのポケットにねじ込む。会社から軍手の支給くらいあってもいいのにと思った。

 この仕事は、一番軍手を消費する。仮に汚れなくても、穴が開いていなくても、1回の作業で軍手を変える――これは俺のこだわりだ。首を吊った死体を降ろすのだから、新品の軍手の方が死者に敬意を払えると考えている。

 玄関を出る前に振り返り部屋を見渡し、忘れ物が無い事を確認してから扉を閉めた。

 外は年末の刺すような冷たさに支配されていた。

 盆地のこの街は、冷気が溜まる。雪女の息に吹かれたみたいに全部が凍っている。

 俺の車のフロントガラスも、スパイ映画の防弾ガラスのように二重の厚みを持っていた。

 車内は冷凍庫みたいに冷たくて、エンジンをかけ暖房をつけても中々温まらない。肩をすくめ数分ほど震えていたら、フロントガラスの氷がじんわりと溶けていった。

 水に絵の具を垂らしたみたいに氷の膜が溶けていき、その隙間からアレが見えて来る。空から垂れている幾本もの紐だ。

 黒色の空を突き刺すように幾本もの線が伸びていて、先は見えない。

 俺はこれから死体を降ろしに行く――空から首吊りロープが垂れるこの街は、たまに誰かが自殺をする。

 古い団地で孤独に吊るわけでもなく、人が入り込まない樹海で吊るわけでもなく、空から垂れるロープで首を吊るんだ。

 車が「準備万端」と言いたげに唸り、俺はサイドブレーキを引いた。

 暗闇の中、黄色いヘッドライトが街を照らす。

 途中、交番の横を通った。

 制服を着た勤務中らしき警官2人が、中で談笑しているのが見える。

 人が首を吊ったのに呑気なものだ、と思った。

 

   *


 この街がある土地は、お椀型の盆地だ。お椀の一番底の部分に湖がある。その湖の上空から首吊りロープが垂れている。

 1本ではない。5本、ある日は8本……日によって数は変わる。

 お椀型の土地を揶揄して首吊りロープを〈箸〉と呼ぶ人もいれば、湖に向かって垂れる首吊りロープに死体がぶら下がる光景を皮肉で〈釣り糸〉と呼ぶ人もいる。どちらと呼ぶにせよ、全住人が〈首吊りロープ〉と呼ぶことを避けている。

 それは、死者へ敬意を払うようなものではなく、強い忌避感からの隠語に近い。

 だから、俺たちは誰にも見られず、死体を降ろさなくてはいけない。

 深夜だろうが、友人と酒を飲んでいようが、出産の立ち合いだろうが、電話一本で駆け付けなくてはいけない。


「おはようございます」

 自宅の玄関先よりも、より自然的な冷たさに震えながら後藤さんへと言った。

 湖の岸辺は、微かに風が吹くだけで、痛みのある冷たさが俺を撫でる。

 小太りの体をゆっくり動かし後藤さんは振り返った。

「おはよう、寝ている時に悪いね」

「いえ、どうせ今日出勤でしたから。どこに死体あります?」

 黒色で上から塗りつぶしたような暗闇では、ぼんやりとロープのシルエットが見えるだけで、ほとんど何も見えない。ただ湖のさざ波だけが聞こえる。

「結構、奥で死んだんだよ」

 後藤さんは、ポケットから懐中電灯を取り出して、湖の先を照らした。50mほど先に脱力した人間が静かに揺れている。つま先が水面を引っ掻くように揺れていた。

「こんな寒いのに、よく行くよ。裸足で行ったっぽいね」

 後藤さんは、明かりを揺れる死体から外して、自分の足元に向けた。後藤さんの傍には、綺麗に揃えられた革靴が置かれている。

「なんで死んだんですかね?」

 俺は、暗い湖を見て言った。

「首吊りロープがあるからだろ」

 とても投げやりな言い方だ。後藤さんは「そんなことより」と話を区切り「おーい!」と叫んだ。湖ではなく、俺たちの背後。乗って来た中古の軽自動車の隣、プレハブの事務所に向かって。

 少し遅れて「すんません!」と声が返ってきて、また少し遅れて暗闇から小柄な金髪の青年が現れた。

 俺のくたびれた作業着と違って、パリッと張りのある作業着を着た青年だ。金色の短髪に、首吊りロープが垂れる湖には似合わない笑顔がある。両手に2足の長靴を持っていた。

「はじめまして、今日から入った〈佐々木〉っす」

 佐々木は、顎だけで会釈をした。

 俺も軽く会釈をする。

「今日は、彼に作業を教えてあげてくれ」

 後藤さんが俺の背中を叩いた。

「教えるって何を教えるんですか? 死体を降ろすのなんて誰でもできますよ」

 後藤さんは大きく笑う。

「誰でもできるなら、どうしてみんな辞めていくんだろうなぁ!」

 自虐的なその言葉に何も言えなかった。

 俺がこの会社に入社したのは3年前の事だ。同期は1年以内に全員辞めて、去り際に全員が「お前気持ち悪いんだよ」と俺に吐き捨てていった。

 俺は仕事を真剣にこなしているだけだ。本当に。

 けれども、金のために仕事をする同期には、金のために仕事をしていない俺が異質に見えたのだという――死体を漁る泥棒のように見えるのだというのだ。

 否定はしない。死体から金目の物を狙っているわけではない。

 だが、この湖で首を吊った死体を特別視しているのは事実だ。

「まぁ、わかりました。やってみます」

 後藤さんは「よし! 任せたぞ!」と俺の背中を2回叩き、鼻歌混じりに事務所へ戻って行った。

「これ長靴っす! 使ってください!」

 佐々木は、ヤクザ映画の舎弟のようなコミカルな動きで長靴を俺の足元に並べた。

「ありがとう」

 俺は冷たさに歯を食いしばりながら、いつも通り長靴を履いていく。そのまま流れ作業で、軍手をはめて、大きく息を吸った。吐き出すと同時に「よし」と呟く。

 隣にいた佐々木が、見よう見まねで長靴をはき、口だけで下手くそな深呼吸をした。

「この湖は、凄く浅いんだ」

 俺は、先に湖に入り佐々木へ振り返った。

 ゴム製の靴底は水を通さない。けれど、純粋な冷たさを与えて来る。足先の感覚が失われていき、痛みだけが残る。

「ずっと先まで同じ浅さで足首より上が濡れることは無いけれど、滑るから気を付けてね」

 片足を上げて長靴の靴底を見せた。はっきりとした凹凸のあるラバーソール。

 後藤さんが特殊素材のゴムを用いた業務用だと自慢気に語っていたのを思い出す。

 「プロっぽいっすね! 気を付けます!」

 佐々木の元気すぎる声に苦笑いをしつつ、俺は死体の元まで進んでいった。水を蹴る音だけが響く。

 冷えた空気を揺らすその音は、鋭利だと思った。静かな湖面と何も言わない死体の静寂を切り裂く刃物。

 首を吊った死体に向かって歩くときは、途方もない距離を歩いているような気になる。永遠に出口の無い一本道を歩かされているような孤独感だ。

 だから、今日は、佐々木の無遠慮な足音が少しだけ孤独を紛らわせた。

「先輩って、なんでこの仕事してるんすか?」

「さぁね。佐々木は、なんでこの会社入ったの?」

 俺は答えをはぐらかした。隠すような事ではないが、初対面の金髪に言うほど雑な理由でもない。

「金っすね! 俺、今の彼女と結婚しようと思ってて、その資金作りです!」

「目標があるのはいいことだね。やっぱり手取り40万は魅力的だった?」

「はい! ガキも産まれるんで、金が必要なんすよ」

 俺は肯定的な相槌を打つ。

 佐々木は見たところ10代後半から20歳くらいの青年だろう。若さゆえの無謀さと無敵感に驚きながら、この子はすぐにやめてしまうなと思った。

 この会社は金のために入社したら、すぐに辞めてしまう。月末に貰う給与明細に刻まれた約40万円の見栄えはいい。だが、死体を降ろす作業を続けていると約40万円に希望を見いだせなくなる。

 この仕事は、体よりも心を売って金に変える仕事だ。技術も、学歴も、資格もいらない。法に背くようなこともない。だが、心を売り物にしなくてはいけない。

 仮に心が実態を持っているとするのなら、この仕事を丁寧にこなせばこなすだけ、乱雑に肉片を毟り取られる。そのせいで血が出るとするのなら、止血の為に火傷を負わされる。

 だが、心に実態はない。だから、行動に顕著に表れるんだ。

 佐々木の雑な足音が、段々と小さくなる。弾むように未来を語る声色も曇っていく。

 首を吊った死体の前に来た時、佐々木はただ息をするだけだった。

 俺は彼に振り返る。

「辞めるなら今だよ」

 佐々木は、驚いたように俺を見た。彼が身に纏っていた若さゆえの無敵感は、すでに剥がれている。あるのは幼さの拭えない怯えた表情だけだ。

 しばらくの沈黙の後、佐々木は口を開く。

「先輩、仕事教えてください!」

 そう言って頭を深く下げる。

「……うん。じゃ、作業しようか」

 とても悲しい青年だと、俺は思った。


 この街は山に囲まれたお椀型の盆地にある。お椀の底に位置する場所には、水溜まりというには大きすぎて、湖というには浅すぎる場所があり、上空から首吊りロープが垂れている。決して多くは無いが、少なくもないタイミングで、誰かが首を括る。

 俺は、ポケットに入れていたハサミをロープの結び目の少し上に当てる。

「佐々木、下にいって支えてくれる?」

 佐々木は、俺の腰に手を当てた。

「俺じゃなくて、仏さんね」

「す、すみません! 俺、テンパってて」

 ロープにハサミを当てたまま「落ち着いて」と声をかける。

 佐々木は、浅い水に足を取られながら仏さんの垂れる足に手を当てた。

「切るよ」

「はい」

 

 ブツン、という音と共に死体が落下した。

 ギリギリ落とさないで死体を受け止めた佐々木は小さく悲鳴を上げる。

 俺は、すぐに彼に手を貸して、ゆっくりと死体を水面に寝かせる。

 俺たちは、首を吊った死体をだけだ。

 死体の処理は行わない。警察にも通報しない。遺族の為に遺品を集めることもしない。ただ、死体を浅い湖に降ろす。

 輪を首にかけたままの死体を水面に寝かせて、そのまま来た道を戻る。

 何が聞こえていても。


「先輩、何がいるんですか?」

「振り返らないほうがいいよ」


 俺たちは、事務所の明かりを見つめたまま歩き続けている。

 大勢が次々に飛び込むような水しぶきの音を背にしながら。


「俺、子供が産まれるんすよ。だから、金が必要なんです」

 佐々木は、独り言のようにつぶやき続けていた。

 背後から聞こえる水しぶきの音をかき消すように、両手に残った死体の感触を忘れるように――

「先輩は、なんでずっとこの仕事をしているんですか?」

 岸に上がる少し手前で佐々木が言った。

 死体へ向かう時には、彼に伝えたくないとはぐらかした話題だ。けれど、今の彼になら話しても良いと思った。

 金髪でやんちゃそうな彼の弱さを見たからか、あるいは俺自身の弱さを彼に重ねたのか……

「……俺の父親も、ここロープで首を吊ったんだ」

 佐々木は小さな声で「すみません」という。


 俺は、この空から垂れる首吊りロープで自殺をする理由をずっと探している。

 自分の父親が、首を括ったあの日から。

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