落丁の栞 ~アドベントカレンダー2025~
ナナシマイ
プロローグ(2025/11/30)
それは、森の魔女と夜の魔術師が出会うよりずっと前のこと。
とある魔女の、静かな目覚めの物語。
*
泣いていたのだと、思う。
長い長い眠りの果てに、自分がなにか別の存在となったことには、気づいていた。まどろみの中で感じる、木漏れ日や、木々を抜けてゆく風が、記憶にあるそれよりもずっと、心地よかったから。
けれども彼女は、かつて別の彼女だったときに「忘れたくない」と願ったことを、忘れてはいなかった。
「素敵な髪飾りですね」
かけられた声にまぶたを持ちあげると、こっくりとした葡萄酒色の、鮮やかな瞳と目があう。その視線がゆっくり頭へ向けられて、彼女は導かれるように自分の手で触れた。
そこにあったはずの温もりが半分、消えている。
静謐を司る者としての生は終えた。愛するひとは、もういない。けれども、明星がまだ見守っていてくれる世界であるのなら、あの幸せな記憶だけを抱えていたい。
彼女はそう思って、小さな髪飾りたちをすべて外した。
「あなたにあげましょう」
「えっと、大事なものなのではありませんか?」
首を傾げた女性の肩から、瞳と同色の、ベルベットに似た豊かな髪がこぼれ落ちる。
そこに込められた膨大な魔法は、このひとが大きな事象を司る存在だということを示していた。かつての彼女と同じくらい、大きな力を持つ魔女であると。
「……わたしにはもう、必要のないものです」
この髪飾りは、強大な魔女こそが、持っているべきだ。
「あなたに――……森の魔女に、大事なものはありますか?」
「ふふ。それはもちろん、森ですよ」
森の魔女は迷うことなく、たったひとつを答えた。
自身の要素だけが唯一なのだと、それ以外の選択肢を知らないという声で。
「では、いつか森と同じくらい大事なものができたときに、この髪飾りが役に立つでしょう」
いつかのとき。大事な友人の願いと、大事な伴侶の想いが込められた、星のかけらの髪飾り。
不思議そうな表情でこちらを見る森の魔女を手招く。近づいた頭にきらめく飾りを散らす。ふわりと、よい香りがして、視線を落とせば、森の魔女が抱える香草の束が視界に入る。
「……あなたにはこちらのほうが似合いそうですね」
頭を撫でるように触れ、魔法をかける。
かつての彼女が使っていたものよりも、うんとささやかな魔法が、葡萄酒色の中に白い小花を咲かせた。
その動きを察知した森の魔女は、少しだけ驚いた顔を見せ、それから破顔する。
「まぁ! 可愛らしい薫りがします。なにか、お礼をしなくては……――はっ、そうです! この森をあなたに差しあげますね」
森の魔女の瞳にやわらかな慈しみの色が浮かぶ。
涙の痕跡を、見たのかもしれない。
「きっと、ゆっくり休むことができるでしょうから」
静かで、深い寂しさを抱えた魔女の目覚めたそこは、のちに静寂の森と名付けられた。
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