もこもこ羊とライオン
白灯ゆき
第1話 不思議な出会いと、小さいウサギの物語
ある日、ライオンは、凄まじい雨の中ただひたすらにタクシーを走らせていた。
ワイパーは追いつけず、5メートル先さえも見えない。
気がつけば知っている道はとうに過ぎ
見たこともない森の、奥へ奥へとタクシーは進んでいった。
ヘッドライトの光は木々の影に吸い込まれ、
周りは真っ暗で何も見えない。
後部座席に乗っているお客はこんな状況でもぐっすり眠っているようだ。
時折、雨音の合間にスースーと寝息が聞こえてくる。
激しい雨に緊張しながら、お客の指示通りただひたすらまっすぐに進んでいく。
また、急に雨が強くなった。
雨粒がボンネットを激しく打つ音で他の音は何も聞こえなくなる。
その時、ふと、ライオンの心に幼い頃の記憶が蘇った。
群から捨てられたあの日。
肉を食べられないライオンなんてもはやライオンではない。
仲間の冷たい声と強い拒絶の背中が、
まるで昨日の事のように鮮明に思い出された。
当然のように立ち去る仲間。
後ろを振り返らない家族の姿。
ひとり、森の奥に追いやられた小さなライオン。
あの日も、ひどい雨だった。
ライオンはふと我に返り、
ハンドルを握る自分の手が震えているのを見た。
今まで思い出さなかった、あの日のこと。
この雨が、幼い頃の記憶を甦らせたのか…。
「ひとり…。」
言葉がライオンから漏れた。
と、その時、
後部座席から温かな気配がした。
後ろを見ると、もこもこの毛の羊が座っていた。確かタクシーに乗せたときには長い毛の、か細い羊だったような気がする。
しかし、バックミラーに映る羊は、
普通の羊の10倍かはありそうなもっこもこの毛なみで、
よく顔も見えなかった。
しかし、羊は静かに寝息を立てているよう…。
ライオンは少し首をかしげて、
また運転に集中しようと背筋を伸ばした。
すると、つぶやくような声が聞こえた。
「あなたが孤独を知っているからこそ、誰かを導けるのです。
道を見失ったものは、きっとあなたを見つけるでしょう。」
ライオンは一瞬、その言葉がどういう意味か理解できなかった。
「自分に言ったのか…?」
意味がわからない。
でもなんだろう…。
温かい。
もこもこの毛が運転席まではみ出して、まるで頭を撫でられているような気持ちになった。
ふと、ライオンの目から、静かに涙が流れ落ちる。
心に温かいものが流れ込み、喉につかえていたものが、
すっとなくなるのがわかった。
やがて、雨は優しさを取り戻し、森の向こうに小さな明かりが見えてきた。
それはもこもこ羊の小さな家だった。
もこもこ羊と出会った次の日から、
ライオンのタクシーにはいろいろな動物が乗ってきた。
動物たちは皆、もこもこ羊の家に向かう時は今にも死にそうな顔でタクシーに乗り込んでくる。
ある日は泣いている狐。
ある日はずっと怒っている猿。
ある日は、目の光を失ったふくろう。
小さな声で
「もこもこ羊の家まで…」
と、今にも消えてしまいそうな声でつぶやく。
皆、運転手なんて見ていない。
恐ろしいライオンだということに気がつかない。
また、運転手がライオンだと気がついても、
いっそ、噛み殺してくれと言わんばかりに無防備だ。
ライオンは重苦しい空気をまとった動物たちを、それから何度も
もこもこ羊の家まで送り届けた。
しかし、毎回不思議だった。
羊の家に行くまでの間、死んだような目をしてタクシーに乗っていた動物も、
もこもこ羊の家から出てくるときには、
目に光が差しこみ
毛なみもつやつやと輝き
強い足取りでタクシーに戻ってくる。
運転手がライオンだと気づいても、怖がったりしない。
逆に「ライオンさん、ありがとう…。」と涙ぐむものもいた。
もこもこ羊の家の中で、
一体何が起きているのかは全く想像もつかないが、
それでもライオンはわかっていた。
もこもこ羊のやっていることは
「命の再生」
だということを。
そんな日々が続いたある日のこと。
ライオンは草原のはずれで、小さいうさぎをタクシーに乗せた。
うさぎは小さく、小さくなって、後部座席に座った。
小さいうさぎは必死で涙をこらえているようだった。
ライオンにはうさぎが何を考えているか、全くわからなかったが
辛い思いをしているのは一目でわかった。
「もこもこ羊の家ですか?」
と、ライオンが言う。
うさぎはライオンのほうを見ることもなく小さくうなずき、小さく小さくため息をついてタクシーの外を見ていた。
後部座席
小さいうさぎは、にぎりしめていた自分の白い手をふっと見た。
小さな手だ。
か細く、柔らかいその手はまるで何の役にも立たないような気がした。
涙がポタリと手の上に落ち、小さいうさぎは静かに泣いた。
今朝、仲間のうさぎたちが大きな声で喧嘩をしていた。
揉め事のせいで泣いているうさぎもいた。
小さいうさぎは慌ててケンカをやめさせようとして、なかに割って入ろうとした。
すると
「またお前か!」
「お前なんて役に立たない!」
「いつもビクビクしているくせに!ひ弱なお前に何ができるんだよ!」
「お前を見るだけでみんなイライラするんだよ!」
「どっか行けよ!」
「入ってくんなー!」
「死んでくれ!」
「早く死ねよ。」
口々に叫ぶ仲間たちの冷ややかな目を見て、
ウサギの体はピタッと止まった。
その、心をえぐる言葉たちで小さいうさぎは息ができなくなった。
こうなることはわかっていた。
きっと相手にされない。
何を言っても聞いてはもらえない。
自分は空気みたいな存在…。
嫌われている自分。
仲間には入れてもらえない自分。
慣れていたはずなのに…
今日は…、なぜか上手く笑えない…
ゆっくりと後ずさりをする小さいうさぎ。
仲間たちはそんな小さいうさぎに目もくれず、
また激しい言い争いを始めた。
うさぎは走り出した。
走って、走って、
ただひたすら走り続けて、草原の端までやって来た。
しばらく立ちすくんでいると、
遠くの方からタクシーがやってくるのが見えた。
目の前に静かにとまるタクシー。
うさぎは何も考えずにタクシーに乗り込んだ。
タクシーは長い間、走り続けた。
小さいうさぎは何も考えられなくなり、ただタクシーに揺られていた。
しばらく身をまかせていると、タクシーはゆっくりと止まった。
気がつくと、小さいうさぎは、丸い屋根の家の前に降り立っていた。
うさぎは少し戸惑いながらも、
まるで吸い込まれるようにその家のドアをノックした。
コンコン…
「はーい」
中から声がして、すぐにドアが開いた。
うさぎはびっくりした。
もこもこの毛がドアからはみ出している。
驚いて小さいうさぎが立ちすくんでいると
手招きをしながら、もっこもこの大きな毛をした羊が優しく言った。
「待ってたよ」
小さいうさぎは言われるがまま、
綺麗な美しい毛並みのソファーに座った。
そしてまた、自分の小さな手を見て、ふぅと息を吐いた。
もこもこ羊は小さいうさぎの隣にふわっと座った。
羊は何も言わない。
うさぎは少し戸惑ったが、隣に座っている羊の毛が温かくて、
まるで包み込まれてるような気がして、
知らないうちに目を閉じていた…。
夢の中。
見覚えのある丘。
仲間のウサギたちが楽しそうに飛び回っている。
今よりも少しだけ幼かった頃。
耳をすますと、小さいうさぎへの陰口が聞こえる。
「あいつ、みんなに優しくして大人に褒められようとしているんだよ!」
「いつもいつも良い子ぶりやがって。」
「ただ嫌って言えない弱虫のくせに。」
小さいうさぎは、つぶやくような声で、
「どうして…。どうして優しくすると嫌われるの?」
悲しそうにうつむき、自分の小さな手をぎゅっと握りしめる。
”なんで?どうしてそんなひどいことを言うの”
この言葉が喉の奥に引っかかって出てこない。
泣きながら家に帰る幼い小さいうさぎ。
向かう先は、そう、
あそこだ。
そこは、小さいうさぎが幼い頃住んでいた古い土の巣穴。
夢なのに、湿った土の匂いが胸に突き刺さる。
小さいうさぎは幼い自分が震えながら、
母うさぎの声を聞いているのを見る。
母は優しいが、いつも不安で、疲れきっていた。
狭い巣穴で何度もこう言われた。
「静かにしてね。みんなの迷惑になるから。」
「そんなこと言ったら、嫌われるよ。」
愛情はある。
でも、“心配“と“不安“が多すぎて、
「いい子でいて欲しい」が、いつの間にか
小さいうさぎの
”自分の気持ちを押し殺す癖”
になってしまった。
小さいうさぎは気づいた。
(僕…怒られてたんじゃない。ただお母さんが不安だっただけなんだ。)
その瞬間、夢の中のもこもこ羊が近づき、そっと言う。
「あなたの静かさは、優しさから生まれたの。
でもね、あなたの声も同じくらい大切なのよ。」
小さな胸の奥がじんと温かくなり、優しい光に包まれた。
夢はゆっくりと風景を変え、
森の学校のような場所が映る。
そこに、小さいうさぎをいじめていた3匹のうさぎたちが現れる。
彼らは怒っているわけではない。
むしろ不安げで落ち着かない顔をしている。
もこもこ羊が柔らかく語る。
「あの子たちはね、あなたを嫌いだったわけじゃないのよ。
優しさを羨ましがっていたの。」
三匹のうさぎには、それぞれ理由があった。
一匹目の体の大きなうさぎは、
お母さんとお父さんに厳しく育てられていた。
「強くなれ。」「負けるな!みっともない。」そう言われ続け
“弱く見える子“を攻撃してしまう癖がついた。
ニ匹目の耳の短いうさぎの家では
お母さんがいつもお父さんを怒っていた。ヒステリックな声をあげる母、
すべての声を聞こえないふりをする父。
耳の短いうさぎはいつも怖かった。
家に帰ると短い耳をより短くして、枕に耳を押しあてていた。
ある日の夕方、小さいうさぎの頭をなでる、優しそうな小さいうさぎのお母さんと、小さいうさぎを見た。夕日に照らされたふたりの長い影。
むしゃくしゃして、寂しくて、なぜか悔しくて…。
それから耳の短いうさぎは、小さいうさぎにきつく当たるようになっていった。
三匹目の茶色のうさぎは、
お母さんうさぎに「体が大きなうさぎちゃんと遊びなさい!強いうさぎと一緒にいたら安心だもの」と言われていた。
茶色のうさぎは本当は、体の大きなうさぎの乱暴さが嫌だったけれど、
お母さんもそう言うし、なにより仲間はずれの標的になりたくなかったからいつでも大きなうさぎに従った。
でも本当は時々2人きりで話をする、
小さなうさぎとの時間が好きだった。
夢の中でこのことを知ったうさぎは、
心から驚いた。
(みんな…ただ寂しかったんだ…僕と同じだ…。)
そしてまた、
夢は違う場面を映し出した。
大きな空、木と木の間に光る大きな太陽。
キラキラ輝くその世界でうさぎ自身の影が大きく揺れている。
その影がどんどん大きく強く、しっかりとした輪郭になっていく。
まぶしいほどキラキラ輝く、力強いうさぎが
太陽のように暖かい大きな笑顔で手を振っている。
その輝くうさぎは
転んだリスの手を取る。
足を痛めた鹿の肩を支える。
泣いているたぬきの頭を撫でる。
道に迷っていた子どもたちを励まし、家まで案内する。
動物たちは、そのうさぎに感謝のまなざしを向け、幸せそうに微笑む。
暖かく優しい、みんなのうさぎ。
そのうさぎは言った。
「僕は、未来の君だよ。僕は小さくても、誰かの支えになっているよ。
気づいてあげて。僕はずっと君のことが大好きだった」
その瞬間、世界は光に変わり小さいうさぎの胸の奥に暖かいものが広がっていった。
小さな心が優しく自分自身を抱きしめた。
「僕がいつも誰かを優先して、自分の気持ちを言えてなかったんだね」
もう1人のうさぎは静かに言う。
「優しいってただ耐えることじゃないよ。
優しいって、自分もちゃんと大切にすることなんだよ。」
「僕は辛かったことを言ってよかったんだ。」
小さなうさぎはその言葉に胸が熱くなった。
目を覚ましたうさぎの目は、泣いた後みたいにキラキラしている。
「僕、わかった。みんな僕を大嫌いなんかじゃなかったんだ。
僕が何も言わなかったから。みんな…みんな不安だったから。」
「今度は怖くても、ちゃんと自分の気持ちを伝えてみる。」
小さいうさぎの耳が微かに震える。
けれど、その表情は強く、優しい光に変わっていた。
もこもこ羊の家を出た小さいうさぎは、まるで別の生き物のようだった。
目は澄んで、耳はぴんっと立ち、毛なみは鏡のようにつややかだ。
ライオンのタクシーがふわりと止まると、小さいうさぎはねるように乗り込んだ。
「あの…
ライオンさん、連れてきてくれてありがとう。」
うさぎの声は小さいけれど
夢の中で得た勇気が丸く光っているようだ。
ライオンは、にっと笑った。
タクシーが森の道をゆっくり走り出す。
小さいうさぎは前足を胸元にぎゅっと寄せ、ポツリと話し始めた。
「…今朝、草原のすみでライオンさんが僕をタクシーに乗せてくれた時、僕は本当に心がおかしくなりそうで、タクシーを運転しているのがライオンさんだったなんて全く気がつかなかったんです。」
ライオンは
「ハハハッ」
と、楽しそうに喉で笑いながら。
ルームミラー越しにうさぎを見る。
本当に元気になったんだね、そんな優しい表情のライオン。
小さいうさぎは続ける。
「帰りに初めてちゃんと見て、ほんとだ!肉食動物のライオンさんだ!
って思ってちょっとだけドキっとしました。」
ライオンは困ったように眉を下げ
「そりゃ怖いよね。
タクシーなのにライオンが振り返ったら客は大抵飛び上がるよ。」
小さいうさぎはくすっと笑い、ふいに思い出したみたいに言った。
「でもね、もこもこ羊さんが言ったんです。
あのライオンさんなら絶対大丈夫だよって。」
ライオンの手がハンドルの上で小さく震えた。
「も…もこもこ羊がそんなことを…。」
小さいうさぎは「うん。」と優しくうなずく。
「僕ら、もこもこ羊さんの家で夢を見るんです。あれって全部、もこもこ羊さんの毛のおかげなんです。
困っている動物を癒すのがもこもこ羊さんの大事な役目。
そして、そんな僕たちを家まで連れてきてくれるのが、ライオンさんの役目だって。」
ライオンの喉の奥で言葉にならない、暖かいものがじわりと広がる。
自分は肉を食べられない変わり者だからこそ、はじき出された。
居場所なんてなかったはずなのに、もこもこ羊が見つけてくれたんだ。
「あなたの役目はここだよ」って。
胸の奥に灯火が生まれる。
「ライオンさん、今日は本当にありがとう。僕ちゃんと仲間に話してみます。夢で見た気持ちそのまま伝えてみます。」
ルームミラーの中のうさぎの笑顔は、まるで朝日に照らされた葉っぱみたいに輝いていた。
ライオンは深く深く息を吸い込む。
「君はもう大丈夫だ」
その声は、森の風のような暖かさを帯びていた。
森の道に木漏れ日が揺れる。
そっとライオンは思う。
もこもこ羊の役に立てることがこんなに嬉しいなんて。
うさぎの元気な声。
もこもこ羊の言葉。
自分の胸に灯るささやかな光。
それが全部つながって、彼の大きな心の真ん中に新しい何かが宿った。
その喜びの光は、もういつの日も消えないとわかった。
エピローグ
うさぎを送り届けた帰り、ライオンの足はなんとなく、
もこもこ羊の家のほうに向いていた。
「別に呼ばれたわけでもないけれど…」
そうつぶやきながらも、
タクシーはしぜんとあの丸い屋根の家の前に止まった。
彼は運転席の窓越しに、ぽつりとたたずむ家を眺めた。
もこもこ羊が出てきたらほんの少しだけ嬉しいのに。
そんな甘い期待を胸の奥で、そっと転がしながら。
その時だった。
遠くの木々の間から、ぎゅっと抱え切れないほどのりんごを抱えたもこもこ羊の白い影がふわふわ揺れながら戻ってくるのが見えた。
夕日が傾き始め、羊の毛はオレンジ色の光に染まり
りんごは宝石のように赤く輝いていた。
もこもこ羊がタクシーを見つけると、目をまん丸にして近寄ってきた。
「はい!」
そう言ってつやつやのリンゴをひとつ差し出した。
ライオンは不意を突かれた。
「えっ、あっ、と、と…!」
慌てた拍子にリンゴを落としそうになり、
大きな足でギリギリのところで受け止める。
「ナイスキャッチ!」
その瞬間、もこもこ羊が鈴の音のような軽やかな笑い声をこぼした。
その笑い声は、木々の枝をくぐり風に乗り、夕暮れの空に小さな明かりを灯すみたいに響いた。
ライオンは胸の奥がじんわり温まるのを感じた。
その日から、彼はお客がいない時にも
ふらりと、もこもこ羊の元を訪れるようになった。
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