エピソード5 涙の真実
夜明け前の薄暗さ——
イラヤモト師範は布団の中で静かに眠っていた。
部屋には、途切れたような静寂だけが満ちていた。
突然、師範は胸に手を当て、
苦しそうに声を漏らしながら起き上がろうとした。
彼は心の病を抱えていた——
それをザンシュにも、他の誰にも気づかせないまま。
ここ数日、師範の様子がどこか変わっていたのはそのせいだった。
枕元に置いてある茶碗に手を伸ばそうとする師範——
震える指先は何度も空を切り、
やっと触れた茶碗は畳に落ち、
鋭い音を立てて粉々に砕け散った。
***
朝になった。
師範の家の前には村人たちが集まっていた。
ザンシュは走り込み、
息を荒げて家の中へ入る。
目は涙でにじみ、
顔は真っ白になっていた。
——師範はもう息をしていなかった。
周りで話す人々の声だけが耳に入る。
師範の傍らに座る一人の女性。
人々は彼女について語っていた。
「師範の奥さんだよ。」
「昔気質の人でね……
家の女は外に出るな、人に姿を見せるな……
そんな考えの人だった。」
ザンシュはただ立ち尽くし、
嗚咽、ざわめき、耳鳴りのような音——
すべてが遠く、すべてが重かった。
泣きたいのに、涙は出なかった。
***
埋葬は終わり、
墓前には花が供えられ、
人々は帰っていく。
ザンシュだけが墓の前に残っていた。
ふと、昨日の言葉が胸を刺す。
——「明日、お前をある人に会わせたい。」
その瞬間、
あの“本”の記憶が鮮明に蘇った。
考えがまとまる前に、
さらに過去の映像が心を締め付ける。
ザンシュは昔——
誰かの墓の前にも同じように立っていた。
右耳には、小さな少女のイヤリング。
そのせいで昔はよくからかわれた。
今ではもう、誰も気にしていないけれど。
師範に初めて会った時も聞かれた。
「その女の子みたいな片耳の飾りは……なぜつけている?」
あの時も答えられなかった。
今も、理由を言えないまま。
***
夕暮れ。
太陽は沈んでしまったのに、空だけは赤く燃えている。
鳥の声も、風の音もない。
ひどく静かな世界だった。
ザンシュは自分の部屋の窓辺に座り、
じっと動かず、
師範にもらった笠を手にしていた。
——「ザンシュ・シミズガマ。今日からお前は“階位持ちの侍”だ。」
その声が、耳に焼き付いたまま消えない。
扉が開き、母のアイヤマが入ってくる。
「まだ、そこに座ってるの……?」
ザンシュは小さく「うん」とだけ返す。
アイヤマはすべてを察し、
台所へ戻り、
食事を持って再びザンシュの横に座る。
「……今は、食べたくない。」
アイヤマはそっと微笑み、
静かに部屋を出ていく。
母は分かっていた。
ザンシュが今、独りになりたいことを。
師範の死は、
ザンシュに深い深い傷を残した。
ザンシュは耳飾りを外し、
手のひらでそっと見る。
赤い五枚の花弁。
中央には小さな黄色いしるし。
「……君を感じる。
君を想ってきた。
でも……どうして……
顔も声も……思い出せない……
全部……忘れてしまったんだ……?」
震える声で呟き、
また耳に戻す。
窓の向こう、
満月がゆっくりと昇り、
夜空の雲は白い煙のように光っていた。
風が優しく吹き抜け、
静かで、悲しくて、
それでもどこか温かい夜だった。
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